カモマイルの悪魔 | ナノ


オフィス街の一角に、その中年の男はいた。一筋の乱れもなく後ろへなでつけられた髪には白髪が交じり、スーツの襟には独特の形をした社章バッジ、絹の赤いネクタイが品良く光を放っている。男が書類を捲るたびに、蛍光灯の光を受けたカフスボタンがきらりきらりと輝いた。彼がいる部屋の床には灰色の絨毯、その真ん中にはマホガニー製の荘厳なデスクが置いてあり、磨き抜かれて黒光りする机上には螺鈿の万年筆と書類、本、パソコン、そして小さい湯飲みが規則正しくきちんと置かれている。彼が座る黒い革張りの肘掛け付き椅子のそばには物々しい書棚がいくつかと柱時計、女性の背丈ほどある立派な観葉植物がある。部屋の東側、扉の横には黒と白の幾何学的な線で作られたモダンな絵が掛けられ、西側は全面がはめ込みのガラス張りの窓になっている。
手元の書類に集中していた彼は一息つくと、椅子からゆっくりと立ち上がり窓へ向かった。薄暗い街に立ち並ぶオフィスビル、その奥に小さく見える家々がなす地平線にすっかり太陽は沈んでしまっている。ただその橙の残り香が西の空をぼんやりと彩っていた。下を見下ろせば家路につくスーツの数々が小さく、しかし規則正しくきびきびと動き、街灯がその存在を主張し始めている。夕方。

彼はふと、自分の足下に蜜蜂がいることに気がついた。蜂にとっては部屋の温度は低すぎたらしく、その動きは鈍い。彼は蜜蜂に手を伸ばすとやさしくそれをつまんで左手の人差し指に乗せた。
彼は蜂を指に乗せたまま、ただ黙って窓から人々の行き交う様子を眺めていた。ガラスに映った彼の表情は穏やかで、しかし何かを思案している、そんな顔をしていた。

「白岩社長、鈴木です」
「お入り」

部屋の扉がノックされる。鈴木と名乗った男は入るなり書類を差し出してせかせかと話し始めた。

「社長、さきほどの案件ですが――あの、どうかなさいましたか?」

中途半端な格好で左手を浮かせ、こちらに向き直ろうともしない白岩を見て鈴木はいぶかしげに尋ねた。普段の白岩ならこんなことはしない、どんな些細な話であろうと相手の方を見て真剣に話を聞こうとする。いつもの社長ではない、しかも何か、別のことを言おうとしている。鈴木はそう直感した。

「見てごらん。蜜蜂だ」
「はあ……本当ですね。どこから迷い込んできたのでしょう、ここには開く窓もないのに」

鈴木は話の内容ののどかさに拍子抜けしながら、白岩の手元をのぞき込んだ。黄と黒の縞を持った小さな蜂は白岩の指でじっと大人しくしていた。

「4月から慌ただしい毎日で季節など気にもとめていなかったが、もうすっかり春になったな」
「ええ。6月の株主総会までは当分忙しいでしょうがね」
「鈴木」

突然名前を呼ばれて鈴木が蜂から白岩に視線を移すと、彼はさきほどまで浮かべていた穏やかな笑みをかき消して、真剣な目をしていた。鈴木は背を伸ばして白岩に向き合う。本題が、きた。

「副社長としての君に聞く。最近、この業界で変わった動きはないか?」
「動き?」

鈴木は眉根を寄せた。景気も悪くなる様子もない、同業者が合併して大きな会社になったなどという話もない、業界に影響を及ぼすような新技術の開発もない。鈴木は白岩がこの会社の社長になる前からこの業界にいて白岩と共に働いてきたが、その経験をもってしても思い当たる節がなかった。

「得にはありません。何かあったのですか」
「いや、それならいい。忘れてくれ」

鈴木は落ち着かない気分になった。白岩が何を言わんとしているのかが分からない。こんなことは始めてだった。
白岩は鈴木から蜂に目を移すと、ぼそりと呟いた。

「盗蜜者が、いるかもしれない」
「とうみつしゃ、ですか」

鈴木は白岩を見つめた。白岩の深い茶色の目から読み取れる情報を全て読もうとした。
盗蜜者。蜜を盗む蜂。自分で蜜を集めることはせず、他の蜂の巣から蜜を根こそぎ盗んでいく。子育てに必要な蜜を盗まれた蜂はその場を去って新たに巣を作るしかない。あるいは死ぬか。

「つまり、うちの『蜜』を盗もうとしているやからがいる、と?」
「分からん。が、いる、もしくは、現れるかもしれない」

鈴木は押し黙った。
蜜は、すなわち生命線だ。白岩が何を指して「蜜」と言っているのかは分からない、会社の資金か、人材か、あるいは機密事項か。だが大切ななにかが奪われようとしていると、そう白岩は言う。今たったこの時まで、白岩と違い鈴木は何も危機感を覚えていなかった。だが、今ぼんやりと、遠い地平線の彼方から黒々と渦巻く雲を伴った激しい嵐がやってくるような、そんな気がした。



***



部屋の時計は5時を指している。跡部景吾は自室のソファにもたれていた。あたりは真っ暗で、傍らにある低いテーブルに乗ったアンティークのデスクライトだけがぼんやりと周囲を照らしている。ときどき灯火のように揺れる橙色の光は跡部の彫りが深く端正な顔を薄暗がりからくっきりと際だたせていた。
彼は上半身をクッションにもたせかけて、手元にあるホメロスの叙事詩を捲っていた。赤茶色の皮貼りの本で、表紙には金文字でギリシア語が並んでいる。彼はときどきテーブルに乗った高級なシャンパンをグラスに注ぎ、口に運んだ。シャンパンが高い芳香を漂わせ、美しい黄金の泡がふつふつと水面に上がっている。しかし跡部は非常に剣呑な目付きをして苦々しく口をへの字に曲げ、まるでそのシャンパンが今まで飲んだ中で最も不味いとでも言うような、それとも歴史に名を残すホメロスの詩が史上最悪の出来だとでも言うような、そんな顔つきをしていた。

彼はしばらくすると、近づいてくる微かな足音に気がつき、その主が扉を叩く前に声を掛けた。

「入れ」
「ウス」

部屋に入ってきた大男は無駄のない動作で静かに跡部に近づくと薄い書類を何枚か手渡し、腰を折って跡部に何事かを耳打ちした。受け取った書類には目もくれずじっと宙を睨み付けていた跡部は、話を聞き終わるとぎらりと目を輝かせて口の端をつり上げた。

「時間はどのくらいある」
「当分大丈夫……です」
「ふん、そうか」

跡部はシャンパンのグラスを引っつかむとぐい、とあおる。しなやかにそらされた白い喉がこくこくと動くと、あっという間にグラスは空になった。今度は先ほどとは打って変わって、実に美味しそうに飲む。そして跡部は唸るように独りごちた。

「クク、ようやく見つけたぜ」

彼は上機嫌に、しかし目だけは爛々と光らせながら空になったグラスを左手でくるくるともてあそんだ。膝の上の詩集を乱雑にテーブルに置くと、ソファに座り直して笑いをこらえきれないといった面持ちになった。

「覚悟しておけよ。根こそぎ奪い取ってやる。……なあ、樺地?」
「ウス」

跡部は目を伏せて笑った。今まで欲しいものは全て自分で手に入れてきた。無力な子供のころは親の金や地位に頼るしかないことも多かったが年を経るにつれそれも減り、今は完全に自分の実力で得た全て、地位、金、カリスマ、そんなものを自在に使うことができる。とらわれるべきしがらみもない。
欲しいものはたくさんあるが、今とくに欲しいものは1つしかない。自分が代表を務める会社のためにも、自分自身のためにもなるもの。喉から手が出るほど、自分の持つ全てに代えてでも手に入れる決意をしたもの。

ようやく見つけた。
逃してなるものか。

跡部は上機嫌で渡された書類を数枚、捲った。そこでふと、添付されていた写真に目をとめる。普通の若い女。その横には名前や生年月日、所属、趣味など本人に関するあらゆる事柄が詳細に述べられていた。その写真を確かめるように目に焼き付けるようにじっくりと眺めた彼は、ますます笑みを深くしてクツクツと喉の奥で笑った。

「白岩潤、か。楽しみにしてるぜ」

樺地と呼ばれた大男は、跡部景吾の傍らで微動だにせず立っていた。彼はそんな跡部の様子を黙って見つめていた。



***



潤はダイニングの椅子に座ってカモミールティーを口にしていた。あと2時間ほどでメイドの面接の時間だ。どうにも落ち着かない上に、目の前で同じくお茶を飲んでいる幸村のことが今日は得に気になってどうしようもない。どこか別の場所に行こうかとも思ったが、行ったところでこの気持ちは変わらないだろう。

さきほど美波とした、話。思い出した幸村との昔話。思い出したくはなかった、話。

幸村はあの事件から、変わった。幸村は殴られた私に悪びれる様子もなく、一言の謝罪もなく、そしてそんな幸村をニコニコと受け入れてた両親も子供の私は信じられなかった。幸村に何かしてしまったのだろうかと、そう考えても思いつかない。あの女性は幸村の恋人だったのだろう、でも私はたまたま街中で出会った幸村に声を掛けただけで、それがデートの邪魔だった?でも、それは友人に声を掛ける程度のもので、金切り声で罵られて叩かれて、幸村にまで邪険にされるほど常識外れのことだった?デートに張り付いていたわけでもない、恋人の女性を無視したわけでもない、ただ幸村の名前を呼んだことが。

私は、幸村にどう接したらいいのか分からなくなった。それまでは兄弟みたいで、どんなことをして遊んだとか幸村がテニスの仲間とどうだとかそんな話を気軽にしていたというのに、急に遠い人になってしまって、プライベートには踏み込むべきじゃない、もう親しくなるべきじゃないのだと、そう思えた。余計なことをしたのかもしれない。でも殴られるのもおかしい気がする。嫌なことをしたのかもしれない。でもなぜ。分からない。
幸村は、私に冷たくなった。名前で私を呼ばなくなった。その代わりに敬語を使い、こう呼びかけるようになった。「お嬢様」、と。
そして、私に笑うこともなくなった。浮かべるのはただ、あの作り笑いだけで。


何かをわめいていた女性が、昔遭遇してしまった祖父の愛人に被る。道楽者だった祖父は会社を切り盛りする祖母と父を尻目に遊び呆けていた。自分にとっては優しい祖父だったけれど、祖父の葬式で狂った愛人に包丁を突きつけられたのも事実。祖父が死んでからの方が会社が上手くいくようになったのも事実だ。


分からない。分かろうとしたけれど、一向に理解できない。今でだって。祖父のことも、幸村のことも。大嫌いだ、恋愛なんて。


「お嬢様、どうかなさいましたか」
「いいえ。怖い顔でもしてた?」
「いえ。それならばいいのです」

笑みを貼り付けてみせると、幸村もまた作り笑いを浮かべた。なんて空虚なんだろう。なんてむなしい。こんな関係、わざわざ作ったところで何だと言うのだろう。私が結婚して家を出るまで、幸村との関係は変わらないのだろうに。


(20130219)

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跡部と夢主父、登場。盗蜜者には「花の受粉は助けずに蜜だけ飲んでいく蜂」の意味もあります。

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