カモマイルの悪魔 | ナノ


幸村のことを考えているのだろうか、気むずかしい顔をしている美波を見ていると忘れていた頭の痛みが戻ってきた。後頭部をこわごわ触ると鈍い痛みがしみいるように刺さる。痛い。潤は先ほどよりもずっと自分が安心していることに気がついた。美波の頭にぽんと手を置くと彼女の体温が掌の皮膚に伝わってくる。この子は、大丈夫だ。
美波がうちへ遊びに来るのは嬉しかった。でも同時に恐れていた。幸村に何かされたらどうしよう、美波まで今までのメイドのようになってしまったらどうしよう、と。メイドと友達は違う、一緒に住んでいるわけでもない、だから美波が幸村とどうにかなることはないだろう、そう自分に言い聞かせていた。実際、どうにもならず、逆にこうして美波は幸村を恐れているわけだけれども、それでも不安だったのだ。美波までが私の立場に嫉妬して私から離れていくんじゃないか、と。
美波が口をとがらせて、言う。

「幸村さんがメイドをもてあそぶっていうのも、今ならよく分かる。あの人ならやりそう。顔は笑ってても本心では笑ってなさそうだし」
「うん、そうでしょ?いつもああなのよ、幸村」

憧れてたのになあ、とため息をついた美波は近くの大きな枕にダイブする。真っ白なリネンでできた枕カバーの下からがさりと音がした。

「あれ、なんの音?」
「紙入れてあるの忘れてた」

枕の下から引き出した半紙を美波はしげしげとのぞき込んだ。派手目な外見に反して妖怪に興味があるのか、彼女は大きく描かれた獏の絵を凝視している。以前このおまじないについて話したときは興味なさ気に見えたけれどもそうでもなかったらしい。

「意外と新しいのね。ずっと昔におばあちゃんがくれた、って言ってたから黄ばんでぼろぼろになってるかと思ったのに」
「おばあちゃんが予備を大量に用意しててね、孫思いでしょ?」
「なにそれうけるー!でも、いいね、そういうの。あったかい感じで好き」

美波から半紙を受け取ると潤はそれをドレッサーの奥に大切にしまった。大切な、気持ち。獏という妖怪が食べてくれるからいつか悪夢は見なくなる、このおまじないもいらなくなるんだ、大きくなれば、と幼い私は思っていたのに結局成人してもこのていたらくだ。

「あれ、しまっちゃうの。まだ悪夢見るんでしょ、ずっと枕元に置いておけばいいじゃん」
「あんまりこれに頼り過ぎちゃいけないって言われたんだよね、おばあちゃんにさ」
「なにそれ。魂でも食われるの?獏って悪魔みたいだし」
「獏ってさ、呪縛を嫌うんだって」
「呪縛」
「うん。悪夢を見ると、怖くなるでしょ。そのおそれが呪縛になるんだって。だから獏は呪縛を食べてくれるけれど、同時に自分が束縛されることも嫌う、って」
「頼りすぎると獏を縛ることになるからよくないってこと」
「そうそう。詳しくは知らないんだけどね」

潤はふと、美波の部屋にカラフルな髪をしたトロール人形がいくつか並べてあったことを思い出した。派手で今時風な見た目に反して伝承やらなにやらが好きなのかも知れない。美波は肩をすくめた。

「ふうん。確かにそうよね、人間関係でもさあ。人に頼られるのって嬉しいけれど頼られすぎると重くなるしね。でも、呪縛を食べてもらえるなら悪夢だけじゃなくってあんたの背負ってるもんも食べてくれたらいいのにね」
「……ありがと。でもそれされるとうちが没落しちゃうかも」
「あ、それはダメだわ!」

美波と潤は声を立てて笑った。「白岩社長の娘」が背負うものを捨てるわけにはいかない。捨てるつもりもない。でもその気遣いが嬉しかった。同じ娘の立場にいても自由奔放な姉は重圧など感じていないようだし、こうやって気を配ってくれる人はなかなかいない。美波はふと、真顔になった。

「おばあさん、素敵な人だったんだね。潤がおばあちゃん子だったっていうのも頷けるわ」
「うん。幸村がうちへ来るちょっと前に亡くなったけど、まだ大好きだよ」
「ねえ、潤。潤は幸村さんのこと怖くないんでしょ」
「うん」
「怖くないのに、なんで潤は嫌いになった?昔は家庭教師で仲良かったって」
「優しいお兄ちゃんだったよ、最初はね。でも……変わっちゃったけど、ね」

ベッドの上に座り込んで、すっかり安堵しきって話し込んでいた、その時だった。部屋に突然ノック音が響いた。ガチャリ、返事をする前に扉が開かれてコックコートを着た男が部屋へ侵入してきた。彼が手にするお盆にはティーカップ2客とポット、ケーキが二切れ乗っている。
彼はベッドの上の二人に気がつくと、目をぱちぱちと瞬かせた。

「おっと、お前らできてたのかよぃ。取り込み中邪魔して悪かったな」

彼は真顔でとんでもないことを呟いてきびすを返した。あっけにとられている美波の隣で我に返った潤は慌てて叫んだ。

「って何の話ですか!違いますよ!」
「お、ナイスツッコミ。お嬢なかなかやるじゃねえ?」
「ナニ言ってるんですかアンタ……」

彼はすました顔で再び部屋に入ってきた。飄々とした様子で窓の側にあるテーブルに向かった彼は、慣れた手つきでお盆の上の品々を手早く並べていく。彼のかぶったコック帽の横から燃えるような深紅の髪が数房、こぼれて見えた。

「冗談だって。お嬢、お前そんな座り方だとパンツ見えるぜ」
「年頃の女の子にはもうちょっと言い方を考えてください」
「へいへい。おい、そこの、お嬢の友達なんだってな?天才的なケーキをたっぷり味わっていけよな」

ようやく我に返ったらしい美波は飛び上がると転げるようにベッドから降りて丸井に頭を下げた。丸井はかしこまった美波をしげしげと見ては「美人だなお前」とあっさり褒め、にっと笑った。

「茶葉はダージリンとカモミールがあるから好きな方をどうぞ。ポットの湯が冷めないうちに。んで、できれば後でケーキの感想くれよな!シクヨロ」

丸井はパチッと美波にウインクすると鼻歌を歌いながら部屋から出て行った。突然現れ、照れもせずに褒めて格好良く去っていく。相変わらずのイケメンっぷりである。ぽかんとしていた美波は勢いよく振り返ると再び潤に詰め寄ってきた。すっかり元の調子に戻っている。

「イケメン!またイケメン!!イケメン執事二人目!イケメン執事ふたりとメイドさんと一緒に暮らしてるの!?」
「ううん、丸井さんは執事じゃないよ。台所貸してるだけ」
「台所貸すってどういう意味?」
「あの人、幸村の友達なの。パティシエ目指してるんだけど家の台所が狭くて調理器具があまりないんだって。だからうちのを使っていいよ、って」
「さすがお金持ち……自由だし、おおらかだねえ」
「もともと私もお母さんもあんまり台所使わないしね。作ったケーキはよくくれるし、丸井さんより私たちの方が得してる気がする」
「って、手作りなの!綺麗だから既製品かと思った」

潤はベッドから降りて美波に椅子を勧めた。ダージリンの葉をポットに入れると香ばしさが湯気とともに立ち上り鼻腔をくすぐる。ポットの隣に綺麗に乗せられたケーキは新作なのだろうか、周りに塗られた真っ白なクリームの上には薄いチョコで作られた立体的な飾りが乗っていた。苺のムースのようになっている部分もある。ケーキの上からは赤いシロップが線状にたらされ、模様を形作っていた。

「いただきまーす!……美味しいー!!」
「ほんとだ、さすが丸井さん」

クリームの甘さと苺の酸味が絶妙なバランスだ。重くなりすぎない軽やかな甘さが舌の上で溶けていく。やはり、くせの強いハーブティーではなく無難に紅茶にして正解だった。美波は舌鼓を打ってにこにこと満足そうな顔をしている。潤は幸せそうな彼女にちょっと笑ってカモマイルに目を落とした。丸井は私がカモマイルを好んでいることを知らないから、偶然選んだのだろう。

カモマイルも獏も、もとをたどればおばあちゃんのおまじない。どちらも自分にとっては大切なものだけれど、それは嫌な記憶につながるものでもある。優しくて、苦い思い出。針を持つ蜂と甘美な蜜のように、切ろうとしても切りはなせないもの。

いつか、いつか、どちらもいらなくなる日が、来るのだろうか。


***


視界が回って目の前が灰色一色になった。
私は、道に倒れ込んだ。アスファルトで膝と手を擦る。手に持っていた紙袋は反動で飛び、いやな音を立てて中身が外へ転がり出る。じんじんと痛みが染み込んでくる。痛い。怖い。どうして。何で。さっきまでの楽しい気分からは一転、負の感情で支配されて混乱する。何が起きたのか全く理解できないが、ただ恐ろしくて、痛い。
また甲高い声がした。恐怖で身がすくむ、見たくない、でも、目は自然とそちらを向いた。若い女がハンドバッグを振り上げて何かを叫んでいる。何を言っているかは聞き取れない。その女はこちらへ来ようとしていた。
私は、女に殴られたんだ。
幸村は、女の隣にいた。彼はこちらへ来ようとした女の腕を掴んだ。

「――はなして!」

女が幸村に叫ぶ。ようやく聞き取れた言葉。女はがむしゃらにもがく。






何が起きているのか、全く分からなかった。






幸村は、女を抱き寄せると、『女に口づけて愛おしそうに笑った』。
私はみっともない姿のまま呆然と地べたにはいつくばっていた。こちらを見た幸村は、『あざ笑った』。

女の耳に口づけるように何かを囁いている。女は徐々に落ち着きを取り戻し、見下したような目で私を見ると満足そうな顔をしてきびすを返した。幸村は愛おしそうに女の頭を撫でると彼女の腰を抱いてどこかへ行ってしまった。まるで、女に、よくやったとでも言うかのように。振り返ることもしなかった。叩かれた私なんて、ただの羽虫でしかないとでもいうかのように。




幸村は、家庭教師だった。いつも分かりやすい授業で、やる気が出ない時もうまく誘導してくれて、勉強をしていないときにも遊んでくれたりして、いつも笑顔で頭を撫でてくれて。そんな優しいお兄ちゃんみたいな人、だった、はず、なのに。


敵、意?


まもなく、後ろから慌てたようなお父さんの声が聞こえた。そこから先のことはほとんど覚えていない。



(20130202)
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カモミール=カモマイル。
カモマイルの幸村はかなり格好いい男なので嫌わないでほしい、けど、その理由を話してしまうとネタバレになるので話せないジレンマ。

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