カモマイルの悪魔 | ナノ


緊張した面持ちで立っていた美波は、潤の姿を認めるとほっとした様子で近づいてきた。潤が美波のために鉄門を押し開くと、ギイ、と重々しい音がする。2メートルほどの高さがある門柱にアイビーが蔦を伸ばしていて、その青々とした光沢ある葉は温い風に揺れている。美波は白岩家へ足を踏み入れるときょろきょろと周りを見渡した。

「いらっしゃい、美波。入って入って」
「ありがと。お邪魔しまーす!うわあ、広ーい!綺麗!」
「ふふふ、使用人が手入れしてくれてるんだよ」

美波は幸村さんが?と呟くと顔を輝かせてバラの茂みに近づいた。玄関まで続く道の脇には様々な種類のバラが植えられている。アイスバーグ、アイリッシュミスト、ピエールドゥロンサール、黄モッコウ。幸村と河西が植えたバラの中には、潤が名前を知らないものもたくさんあった。赤や黄に色づき今にもほころびそうな蕾も見られる。彼女は蕾に手を伸ばすとそっと触れた。

「やっぱり思ってた通りのお嬢様のおうちって感じ!」
「あはは、住民はこんなのなのにね」
「ホント、潤って全然お嬢様じゃないよね。ねえ、昨夜はあの後どうなった?」

潤にはそれがすぐに合コンのこと、千石のことを指しているのだと分かった。表情を見るに心配してくれたらしい。

「千石さんが送ってくれて、途中で幸村と合流した。心配かけてごめん。美波は合コンどうだったの?」
「まあまあだったかなあ。いろんな人と仲良くはなったはいいけど恋人にはちょっとね」
「千石さんは?美波のこと気に入ってたし、いい人じゃない。見た目はちょっとチャラいけど」
「うん、中身が良い人なのは分かったけどお洒落すぎて疲れる」
「美波でもそういうことあるのね」
「そりゃそうでしょ!きっとああいうタイプって家の中までぴっかぴかで完璧なのよ、私そういうの疲れるからムリ。家の中ではルームウェアでぐだっとしたい」

ニヤリと笑った美波に潤は吹き出した。相変わらずのこの素直さだ。千石とでも上手くいきそうだけれども彼女としては案外純朴なタイプの方がしっくりくるかもしれない。潤はこの見た目は派手だが心優しい友人に微笑んだ。

「誘ってくれてありがと。最初はどうしようと思ってたんだけど、いい経験になった」
「うん。潤、あんた日頃から考えすぎ。男のことだってもっと楽しんでいいんじゃないの?もう昔みたいに家がどーの嫁がどーのって時代じゃないんだからさ」

突然虫の羽音が低く響いた。目の端でちらちらと舞う黄色と黒の縞。バラの茂みにはみつばちがいたらしく、それはひゅるりと飛んで美波の手の方へ向かってくる。慌てて手を引っ込めた彼女は小さく叫んだ。

「痛っ、バラの棘が」
「大丈夫?」

刺が手に刺さったらしく指で押さえている。潤が美波の手をのぞき込んだその時、玄関の扉が開いて幸村が出てきた。顔を上げた美波は再び小さく叫んで幸村に目が釘付けになっている。潤は、さっきまで平穏だった心が急にざわめき出すのを感じた。

「初めまして、執事の幸村です。高原美波様ですね。お嬢様のご学友の」
「あっ、は、はいっ!」
「おや、手にお怪我をなされたのですか」

完璧な礼をした幸村は、心配そうな顔で美波に近づく。当の美波は間近にいる幸村に見惚れているのか声もなく目を潤ませている。幸村は優雅な仕草で少し首を傾けると美波の手を取り、まるで宝石を扱うかのようにそっと撫でた。その様子をただ見ていた潤は美波が小さく息を飲むのを聞き逃さなかった。

「深く刺さってしまったようですね。家の中へどうぞ、手当いたします」
「あの、すみません、大丈夫です」
「女性は体を大事にしなければいけませんよ」

幸村は美波を間近で見つめてにっこりと微笑む。そのまま何かを囁いた。美波はやや頬を赤らめて恥ずかしそうに顔をそらす。まるで、美男美女の恋人同士。
潤はにこにこしながらも喉のあたりに苦いものがこみ上げてくるのを感じた。まるで黒板を鋭い釘でひっかく音のように、小さくとも本能的な嫌悪感を催させるような不快さがたしかにここにある。メイドに対するようににこやかな笑みを作る幸村。それに見惚れる美波。いいように女をもてあそぶ男と罠に掛かる女。何度も見てきた光景。女に微笑む幸村の横顔。何度見ても不愉快になる。
美波は幸村にエスコートされて玄関へ向かっていた。潤は黙って二人の後ろをついて家に入る。幸村は美波を応接室のソファーに座らせると、その前に跪いて手早く消毒して絆創膏を貼った。潤は美波の近くに座りながら小さくため息をついた。まるでお姫様と王子様みたいだ。いや、お姫様と姫をたぶらかす悪魔だろうか。皮肉なことだ、女性は体を大事にというけれど本当に女性を大事にしないのは幸村だというのに。

「あの、こんな小さな傷なのに、ありがとうございます」
「いいえ。傷を負ったのはそもそも私たちのせいですから。ああ、お嬢様」

突然身をひるがえした幸村は腰を折って潤の耳に唇を寄せると、いつもの作り笑いを浮かべていつものように「愛していますよ、お嬢様」と囁いた。潤はいつもの笑顔でありがとうと返す。そこまでは普段と同じだったが、美波が顔をこわばらせていたのを見て内心凍り付いた。美波が、今までのメイドと同じ反応をしている?嫉妬?
幸村は言い終わると再び美波に向き直って美波とにっこりと笑った。潤は幸村の笑顔を見てぎょっとした。微笑んだ?今、美波に?さっきまでの笑顔じゃない。幸村はいつも貼り付けたような笑みを浮かべている、美波を出迎えたときもそういう笑顔を浮かべていたのに今は違った。今は、今の幸村は――目尻を和ませて、心底嬉しそうに美波を見つめていた。今のは、何?
潤は言葉を失った。顔から血の気が引くのが分かる。思い出したくない、幸村のあの笑顔。まさか、まさか幸村は、美波のことが。

「あ、あの、潤!私、潤の部屋、見てみたい、な」

名前を呼ばれて顔を上げると美波もまた、青ざめてせっぱ詰まった表情をしている。もう幸村とは一緒にいたくない。部屋にまで幸村が入ってくることはないし、それは好都合だった。部屋で美波は、私と幸村がどういう関係なのか聞くのだろうか。そして、美波もメイドのように私の立場に嫉妬をするのだろうか。いや、でもさっきの幸村の笑顔、あれは?まるで、本当に、心底愛おしそうに――
潤は平静を装い立ち上がった。

「うん。じゃあ行こう。二階だから案内するよ。幸村、ありがとう」
「いいえ。ああお嬢様、丸井が家に来ています。ケーキができあがったら部屋に持って行かせますね。では高原様、どうぞごゆっくりおくつろぎ下さいませ」

潤は幸村の顔を見ないようにしてソファから立つと、後ろから美波が付いてくるのを確認して素早く応接室から出た。吐き気がする。胸いっぱいにどす黒い感情が渦巻いて胃を上から圧迫しているんじゃないかという気分だ。やけに静かで青ざめている美波のことが気に掛かるが、自分のことで手一杯で頭が回らない。いつもの美波じゃない、いつもの幸村でもない。あの顔、あの笑顔、あの言葉。どうなっているのか分からないが、ともかく早く自室へ逃げ込みたかった。




自室に入ってドアを閉めベッドの側に足を進めると、部屋の隅で固まっていた美波が突然タックルをするかのように勢いよく潤に飛びついた。

「わあっ!」

何の心構えもできてなかった潤は美波ごとベッドの上にひっくり返った。おまけにベッドの上に置いてあった木製のティッシュカバーに頭をしこたまぶつけて一瞬意識を失いそうになる。しかし痛みで脳内と心中のもやもやが一気に吹き飛んだ。
潤は瞠目した。自分にしがみついている美波の体が微かに震えている。さっきの青ざめた表情といい様子がおかしい。幸村に一目惚れして自分に嫉妬しているなどということではなさそうだ。

「美波?どうしたの?」
「潤ー!あれ、あれ、幸村さん、だよね?」
「うん、そうだけど。どうしたの?突然」

潤はベッドの上で体を起こしたが美波は潤の膝にうずくまったまま、小さい声で言った。玄関先でバラを見ていたときの元気な様子はどこへやら、すっかり縮こまってしまっている。

「怖い」
「え?何が」
「幸村さん。怖い」

思わずはっと息を飲む。こわばった顔をしていたのは恐れからか。でも、幸村は美波には何もしていないはずだ。使用人にしては丁寧すぎるくらいの物腰だった。それに、最後に美波に対して笑った幸村の、あの顔。幸村の本心からの笑顔を見たのは久しぶりだった。私にはもう決して向けない笑顔。あの事件以来、幸村は私には笑わなくなった、そして私もまた。
美波もようやく身を起こすと俯いてつっかえつっかえ話し出した。いつもの堂々と美人オーラを振りまいている彼女とは打って変わって子供のように見えた。

「ごめん、失礼だって分かってるんだけど、でも……潤が嫌ってる理由、ちょっと分かった気がする。最初は格好良いし優しいし素敵って思ってた、事実そうなんだけど」

美波はまくし立てるように言う。自分に気を遣ってるわけでもなく心底そう思っているらしい様子に、潤は驚いた。今まで幸村をそのように評価する女子はいなかった。お姉ちゃんは幸村に惚れたりしなかったけれど怖いとも思っていないはずだ。

「そうなんだけど、でも、怖い。何考えてるのかよく分からないし」
「まあね。でも大丈夫だよ、確かに嫌な男だけどお父さんには忠実だし」
「ほんとに!?スパイだったりしないの!?ほらスパイってモテモテのイケメンだったりするじゃない、勢いのある白岩カンパニーに嫉妬した他社が送りこんだスパイとかさ!」
「う、うーん、さすがにそれはないと思うよ」

美波は徐々にいつも通りの様子に戻っていった。潤は彼女の勘の鋭さに舌を巻きながら苦笑する。
ふとベッド際の窓を見るとそこから、河西と幸村が庭の手入れをしているのが見えた。少し開いた窓の枠に、どこからか飛んできたみつばちがとまった。


(20130114)
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