カモマイルの悪魔 | ナノ


幸村は襟を整えると千石に向かって姿勢を正した。そして深々と頭を下げる。丁寧にまっすぐ腰を折る姿は執事そのものだな、と潤は思った。

「無礼を働き大変失礼いたしました。お嬢様を助けてくださり本当にありがとうございました」

礼を受けた千石は、言葉遣いを改めた幸村に驚いたのかぱちぱちと目を瞬かせた。彼は幸村のスーツに光る社員バッジを見て少し首を傾け、幸村に問う。

「そういえば幸村くん、白岩カンパニーで働いているんだっけ」
「ええ、そうです」
「でも何で君がここで出てくるんだい?も、もしや潤ちゃんの恋人!?」
「私は白岩家の執事もこなしておりますので」
「そういえばそんな話も聞いたことがあるような……ってまさか、禁断の恋!?」
「違いますから!なんで千石さんまで美波と同じこと言うんですか」

潤がきっぱりと否定すると、千石は何も言わず幸村をじっと見つめた。妙な沈黙が訪れる。幸村が咳払いをすると、千石ははっとして頭をかいた。

「あー……よく分からないな。まあいいや、こんなところで突っ立っていても仕方ないから帰ろうか潤ちゃん」

幸村が、にっこりと笑った。潤は内心汗をかく。嫌な笑顔だ。これから、幸村の口からどれほど社交的で棘のある言葉が出てくるかは予想がつく。

「ここまでで大丈夫です、お嬢様をありがとうございました」
「な……いいじゃないかい、それくらい」

潤は千石の様子を見て言葉を飲み込んだ。明らかに、幸村の冷酷な態度に引いている。謝罪をしたいところだが千石は優しい、もし自分が少しでも送ってもらいたそうな言葉を吐けば彼は意地でも家まで送ってくれようとするだろう。それは有り難いことだけれど、千石に申し訳なくもある。このまま引いてもらった方が千石にとってはいいに違いない。

「ここまでで十分です。この先はどうぞご遠慮下さい」
「べ、別にいいだろー?」
「――断る。退け、千石」

旧知の千石に執事らしく振る舞うのが面倒になったのか、幸村は鬱陶しそうな顔をして顔をしかめた。千石は一瞬ぽかんとして、今度は息を大きく吸って気を取り直したように言い放った。

「なんで君が断るんだい。俺が送りたいのは潤ちゃん。いくら幸村くんが美男子でも俺にソッチの趣味はないよ」
「知ってる。だが執事は俺だ。お嬢様の身の回りのことは俺が決めるし、俺がする」
「でも俺も一緒で問題ないだろ?幸村くん」
「断る」
「いいだろ、家までの短い距離だし。減るもんでもないし」

千石はすっかりいつもの調子に戻っている。突然始まった二人の舌戦をぽかんとして眺めていた潤ははっとして再び幸村の腕を引っ張った。

「ちょっと幸村!千石さんに失礼な態度を取らないで」
「しかし」
「ほら、潤ちゃんもそう言ってるんだし」
「全く、そこまで言うなら構わないよ。でも白岩家の中には入れないからな」
「……幸村くんも俺がそんな男だと思ってるのかい」
「あの千石だからね」

ぶつぶつ文句を言いながら、千石は手を潤の背に添えて促す。促された潤は歩き出し、幸村もそれに続く。三人で暗い街を歩く。夜風に吹かれてふわりと何か知らない花の香りがした。家へ続く道は繁華街をそれて、人通りは段々少なくなっていく。あたりに響くのは三人分の足音くらいだ。
潤は密かにため息をついた。右隣には千石、左隣には幸村。上機嫌で鼻歌を歌っている千石と、重苦しい幸村。何か会話でもすべきだろうがこの二人の板挟みはきつい。そうこうしているうちに、千石が潤の方をくるっと向いて言った。

「で?結局潤ちゃんは俺とデートしてくれるんだよね?」

幸村が鬼のような形相になったのが分かった。幸村の顔を見なくても空気で分かる。珍しく他人に感情を丸出しにしている幸村を背中で感じて、潤は千石に向けた笑顔を引きつらせそうになった。旧知の仲だからこそ自分を取り繕う必要がないのだろうけれども、それにしてもここまで嫌悪感を丸出しにできるものなのか。それを全く気にしていない千石もすごい。幸村相手にここまで堂々とできるとは、ただ者ではないに違いない。何か腰のあたりに当たった気がしたがそんなことよりも潤は二人の様子にハラハラしていた。

「断る」
「だから何で幸村くんが断るんだい」
「何でもだ」
「いいじゃないか、結婚しようと言ってるわけじゃないんだからさ」
「当たり前だ」
「じゃあ俺が潤ちゃんに変なことでもすると思ってるのかい?そんなわけないだ……あっ幸村くんはともかく何で潤ちゃんまで胡散臭そうな顔でこっち見るんだい!さすがに俺でも凹むよ……」

また、腰に何かが当たった。潤は首だけを後ろに回して背後を見て、そして、絶句した。
右からは千石の腕が、左からは幸村の腕が伸びているのが見える。千石は潤の背中に手を回そうとし、幸村はそうはさせまいと千石の腕を払っている。それが延々と繰り返されている。二人とも、さっきからずっとこうしていたらしい。密かに。潤が気がつかない間に。普通に会話をしながら、何でもない顔をしてこんなこと。
言葉を失っていた潤は、思わず吹き出した。何やってるんだ、この人たち。子供の喧嘩みたいだ。一回笑い出すと止まらなくなって、潤は声を出して笑った。笑い出した潤を見た千石は頭を掻いて「分からないけど、まあ笑ってもらえたしいいか」と呟く。幸村は不服そうに眉根を寄せて潤を見たが、潤には何も言わなかった。

「どういうつもりかは知らないがお嬢様のことは諦めろ、千石」
「無理ムリ。可愛い女の子とデートしたくなるのは男の性(さが)だよ、幸村くん」
「冗談でもお嬢様に変な虫をつけるわけにはいかない」

幸村の断定するような言葉に、今度は千石が眉根を寄せた。

「だから、潤ちゃんが誰と付き合うかまでコントロールしようって言うのかい」
「男だけはね」
「いくら社長のご令嬢とはいえずいぶんな扱いをするね。普通の女の子にそんな重みを負わせるのかい」
「その通り、ご令嬢だ。普通の女の子じゃない」
「立場はね。でも普通の女の子だよ」

幸村は苛立ってどんどん言葉が荒くなっている。潤は声を上げて叱責した。

「幸村、いいかげんにして!千石さんには助けられたって言ったでしょ、なんでそんなこと言うのよ!」
「――これは、大変失礼しました。お嬢様、先に中へ入っています。あまり外に長居はされませんように」

いつの間にか、家の前にたどり着いていた。幸村は再び千石に深々と頭を下げると、じろりと睨み付けてからきびすを返し門扉の中へ入っていった。潤は千石の前に立って、改めて頭を下げた。とんでもないことをしてしまった。

「ごめんなさい、千石さん、ほんとにごめんなさい。せっかく二次会も断って送って下さったのに」
「ん?幸村くんのことなら気にしてないよ」
「本当ですか」
「うん。むしろ、少し面白かった」
「え」

潤が顔を上げると、千石は先ほどのようにふにゃりと表情を崩して笑った。なつかしそうに何かを思い出すかのような目をして、幸村の消えた方に視線をやる。荘厳な鉄の門、その奥に広い道が屋敷の入り口まで緩いカーブを描きながら続いている。道の脇には幾種類もの薔薇が植えられ、それらは小振りなものも大きなものも皆、葉を青々と茂らせていた。

「今はああいう風になっているんだね、幸村くんは。皆大人になれば多少なりとも変わるものだけれど、興味深い」
「幸村、変わったんじゃないですか」
「どうだろうね?昔っから彼は格段に気が強くて頑固だったとは思う、でも女の子にあんな態度取るようになっているとはねえ」
「本当にごめんなさい。あっそうだメアド交換しませんか?今度お詫びに美味しいお酒が飲めるクラブに案内します!ネットでもなかなか見つからないとこだし知る人ぞ知る穴場なんですよ」

千石は目を丸くした。そんな千石を疑問に思い、潤も目を瞬かせる。

「あれ、結局デートしてくれるんだ?ラッキー!潤ちゃん、恋愛とかデートとか嫌いそうなのに」
「え。だって千石さん、私を恋愛対象として見てないでしょう?」
「えっ、そんなことは」

潤は口に手を当てて笑った。おかしい、自分を助けてくれたり幸村とやり合ったりと機転は利くのに、ときどきこうやって素直になる。分かりやすい。

「私を人慣れしてるって言ったの、千石さんですよ。そのくらい顔見れば分かります」
「参ったなあ。そうはっきり明言されるとは思ってなかった。うん、でもまあ、その通りだね」

潤がにっこり笑いかけると、千石は困り顔になった。

「でも、種類はともかく好意を抱いてるのはホントだよ。知り合ったら面白いだろうなあって思ったし、今でもそうだ」
「ありがとうございます。嬉しいです、ほんとですよ?」

むしろ、妙に恋愛感情を抱かれるよりもずっと良い。どうせこれからあれこれ、コネや金でも狙ってるんじゃないかとか見合いをしなきゃだとか考えなければならない。面倒なだけだ、恋愛なんて。そればっかりは学生相手でも大人相手でも変わりはしない。

「もう遅いから家に入った方がいいね。今日はどうもありがとう、幸村くんにも再会できたし君と話すのはすごく楽しかった。メールしていいかい」
「それはこっちのセリフですよ、メールは喜んで!合コン、どうなるかと思ったんですけど千石さんと出会えたからラッキーでした」

潤がおどけて言うと、ようやく千石もいつもの笑顔を浮かべた。白岩家の門についている二つの明かりがジジジっと音を立てた。


***


家の扉を開くと、潤は幸村に腕をつかまれて家の中に引きずり込まれた。扉を閉めた幸村は鍵を締めると腕をつかんだまま潤を扉に乱暴に押しつけた。

「った、何するの」

そばにある幸村の顔を睨みつける。彼は怒りで顔をゆがめていた。薄い彼の唇から出てくる感情の見えない声が、普段よりも格段に冷たく感じる。その冷酷さに潤はぞくっとしたが、何でもないふりをした。

「どこへ行っていたんです」
「言ったじゃない、ただの飲み会よ」
「ほう。ただの飲み会で社会人の千石に会うんですか」

上手い言い訳が出てこなくて、潤は沈黙した。なぜこんなこと言われなければならないのだ。危ないことなんてなかった。せいぜい男達にメアドを聞かれるくらいだ、それだって例え教えるハメになったとしてもその程度のこと。合コンに来ていた男たちは皆紳士で、別にセクハラをされるでもない。だが、それを正直に幸村に言うつもりもない。怒りを煽るだけだ。

数刻の沈黙ののち、幸村は潤の顔の横に拳をたたきつけた。耳元で鳴る鈍く大きな音に、潤はびくりと体を震わせる。怒っている。そのくせ、彼の声には感情がない。そのギャップが非人間的で一層恐ろしく感じる。

「困りますよ、お嬢様。白岩家に恥じるようなことをされるおつもりで?」
「……そんなわけないでしょ」

怖い。潤が乾いた唇を開くと、ようやく小さい声が出た。幸村はため息をついて扉に突きつけた拳を引いた。

「別に、何もする気なんてない。どうせ見合いでもして結婚することになるんでしょ。話が来てるのも知ってる」
「そうですね。そのうち良縁も来るでしょうし」
「分かってるわよ、そんなことくらい。分かってる」

潤は俯いた。幸村の顔が見てられない。分かっている。そんなことくらい。幸村の言うことは正しい。結果的に千石がまともな男であったとはいえ、知らない男と仲良くすることに幸村が怒る理由も分かっている。心配しているだけだ、この白岩家のことを。幸村が白岩社長を尊敬していて白岩家に忠実であることくらい、知っている。
幸村は潤から体を離すと、頭を下げてにっこりと笑った。いつもの、ナイフのように鋭い棘のある作り笑いで。

「お休みなさいませ、お嬢さま。よい夢を」

幸村がその場を離れると、潤は玄関の扉にもたれかかったままずるずると座り込んだ。よい夢を、か。最近はとことん悪夢ばかり見る。この生活で、悪夢を食べる獏は本当に来てくれるのだろうか。この夢も現も幸福な悪夢に満ちた、生暖かく黒いユートピアに。
潤は目をつぶると、心に泥のように溜まったものを出し切るかのように大きく息を吐いた。



(20130102)
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いつの間にか話の最後の方が切れていたので直しました(2014年3月8日)

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