七色の雲 | ナノ

消毒液の白さを身にまとった恩人が、色鮮やかな花を差し出した。いつも見ていた穏やかな顔を一層穏やかに和ませて、彼は笑っていた。


「退院おめでとう、精市くん。辛かっただろうに今日までよく頑張ったね」

「ありがとうございます先生。本当に、ありがとうございました」


受け取った大きな花束に顔をうずめるようにして、俺は頭を深々と下げた。今までにない喜びと感謝を込めて。彼に渡したい気持ちに見合う言葉なんて、いくら紡いでも到底足りなかった。


「先生、息子を救って下さって本当にありがとうございました」


両親も挨拶をして、頭を下げる。父は感慨深げに、母は目を赤くして、妹は嬉しくてたまらないというようにはしゃぎ回っていた。俺は目のあった妹に笑い返すと、ぐるりと病院のロビーを見渡した。
四角四面の壁に窓、几帳面な空間。初めてここへ来た検査の日は、まさか俺が病院にこんな思いを抱くだろうとはつゆほどにも考えていなかった。病気が見つかっても薬を飲めばすぐに治り、俺はまたすぐ日常に戻れるだろうと。大病の見つかる、あの日までは。その日からここは俺の命を守る城であり、毎日を暮らす家であり、死を迎える墓場になるかもしれない場所となった。希望と恐怖が隣り合わせに息付く場所。ここにいるということは命の危険を意味していて、それなのに逃げ出すと命はない。


もう、ここにいる必要はない。恐怖におののくことも焦りにとらわれて歯がゆい思いをすることもないのだ。
早く行きたい。俺の本来あるべき場所へ。俺の人生の全てがある場所、手術前もリハビリ中もいつもそこへ行きたいそこで走りたい、またあの舞台に立ちたいとずっとずっと願っていた、あの場所へ。


そんな俺に微笑むかのように、抱えた花の芳香が漂ってきた。眼下の花は鮮明なオレンジや匂い立つようなピンク、白。はつらつとした生命の輝きを放っている。
植物は入院中もいつも俺の側にあった。「彼女」がいつも持ってきてくれたから。あるときは学校の花壇や庭の写真を。あるときは切り花を。その姿や香りはいつも、夜に一人で沈んでいるときでも俺の気持ちを優しく慰めた。だがその優しさは痛みを抑えるために打つ鎮痛剤のようなもの。生きていくには必要なのかもしれないが、薄暗い痛みを抱えていることが前提で決して気楽で穏やかな優しさではなかった。「彼女」がくれたものであったといえど。

それが今はどうだ。花は病気になる前のように、後ろに何も重いものを抱えることもなくただただ優しく咲いていた。花の違いではない、自分の気持ちの違いなのだと分かっていてもそう思える。

それなのに、この花はいつものように彼女がくれたもなではなかった。俺は相変わらずはしゃいでいる妹に耳打ちをした。


「彼女は来ていないのか?」

「昨日聞いたら来ないって言ってたよ、由紀ちゃん」


彼女は未だに控えめなところがあるから、退院の日には来ないかもしれない。そう思ってはいたが、それとは違う方向に予想外な答えが返ってきて俺は目を剥いた。


「由紀ちゃん?お前、いつの間に長崎さんとそんなに仲良くなったんだ」

「だいぶ前からだよ。お兄ちゃんの観葉植物預かってもらいに行ったときにメアド交換したの」

俺が入院したころから、俺の植物の世話まで家族は手が回らないだろうと彼女に預かってもらっていた。受け渡しをするよう妹に頼んだのだが……知らぬ間にそんな仲になっていたとは。絶句した俺を見て妹はニンマリと笑った。


「今日来たらよかったのにね、由紀ちゃん。もう家族みたいなもんだし」

「お前な」


お調子者め、と俺は苦笑して妹の頭をコツンと叩く。奇妙な感じがした。入院中、毎日のように彼女は俺とともにいた、それなのに。まるで片方だけ靴下を履いていないような、大きな忘れ物をしたかのような、そんな気分だった。

窓枠に切り取られた四角い空には、くっきりとした青、青を白く遮る入道雲。夏はもうここへ来ている。


***


ある晩冬の土曜日、練習帰りに俺は一人で病院を訪ねた。病室に入ると幸村はベッドに半身を起こし、枕元にたくさんの写真を散らかしていた。彼は写真を手にとって何かを考えていた。


「幸村」

「やあ蓮二、いらっしゃい」

「いや、そのままでいい」


写真を片付けようとする彼を制して、俺はベッドに近づいた。写真は全て、植物のものだった。学校の温室にある花、どこかの部屋に飾ってある観葉植物、展覧会の作品らしき生け花。几帳面な幸村が散らかすほど夢中になってたのかと思うとなんとも興味深く、俺はついからかいたくなった。


「床に花を敷き詰めて眠りにつくとは、まるで白雪姫だな」

「同じ事を妹にも言われた。女性にたとえられても嬉しくないな」


彼は苦笑いをして、持っていた写真の縁を大切そうに指でなぞった。ふと手元に視線を落とした彼はまた、何かを考えるような少し物憂げな表情をした。


「そう言うけど、本当に白雪姫みたいなのは『彼女』だと思うんだよ」


それが長崎を指しているのだと、彼の言わんとしていることが分かって、俺は黙って頷いた。長崎は虐められていないし、自分で行動もする。話もするし、病気の幸村を支えるためにちょくちょく俺や真田のところへ相談しにも来た。だがそれでも――ある意味、彼女は白雪姫だった。心の奥深くに黒々とした毒林檎を飲み込んで、ものを言わない彼女は黙って眠りについている。






冬を越し、春をも越えて、そしてようやく今日を迎えた。今日は幸村が退院する日。本当ならばテニス部全員で病院に押しかけたいところだが、そういうわけにもいくまい。何より退院を喜んでいるのは彼の家族であろうし、何より迷惑がかかる。それに俺たちは誓ったのだ。部長がいなくてもしっかりこの場所を守って、テニス部を守って、幸村の帰る場所を守って待っている、と。

しっかりした足取りで、幸村が俺たちに近づいてきている。彼はまっすぐに俺たちを見据えて、俺たちもまた彼を見据えて。幸村に病院は似合わない。やはり、彼にはテニスコートがよく似合う。
さあ、王が帰還するぞ。俺たちの王が。俺たちのリーダーが。立海大附属中男子テニス部の部長が。喜べ。諸手を挙げて喝采の声をあげろ。
以前より痩せた彼はコートの入り口で立ち止まる。そして、以前からそうしていたようにぐるりと全体を見渡すと、大きく息を吸った。部員たちは彼の方を向いて、部長が何を言おうとしているのか胸を高鳴らせて待つ。
おかえり、俺たちの部長。


だが幸村の発した言葉は、身も蓋もなかった。


「動きが悪すぎるよ!」


電気のようにびりっとした緊張が走り、一瞬にして緩んでいた空気が引き締まった。急激に高まる集中力と士気。だがそこには長らく待ち望んでいた、多くの部員たちの「憧れ」があって――それから幸村の指示で始まった練習のきつさに顔をゆがめながらも皆喜びにあふれた顔をしていたのは気のせいではないだろう。俺はまた、幸村の存在の偉大さと彼が完治してここへ戻ってきた喜びを痛感した。


***


今日の練習が終わった。俺はまだ練習はできないけれど、一通り監督はした。久しぶりのコートの空気に高鳴った胸はようやく落ち着いてきた。それでもまだ高揚感は止まらない。練習を終えて汗だくな部員たちが部室の前に整列して、前に立つ俺をまっすぐ見つめている。


「――そして皆に苦労をかけた。ありがとう。それでは今日の練習は以上だ、解散!」


前のように練習終わりの挨拶をして――同時に全国大会への決意と迷惑を掛けたことへの謝罪、感謝の挨拶をする。


「部長!」

「ぶちょー、俺!嬉しいッス」


解散、と言った瞬間、部員が一斉に走り寄って俺はもみくちゃになった。赤也に飛びつかれると他のやつらも飛びついてきて、まるでゴールを決めたサッカー選手になったようだ。筋力の落ちた俺は後ろによろめいたが、今度は後ろからも横からも飛びつかれたらしく衝撃がくる。


「部長!これ」

「部長、退院祝いです、頑張りましょう」

「これ食べて体力取り戻してください!」


退院祝いだと言って、次々と何かが差し出される。今まで部内で集めていた資料、新しいグリップラバー、リストバンド、花、菓子、なぜかバナナ……丸井などは手作りのケーキをくれる。すぐに両手がふさがるかと思われたが、隣にいた柳が俺から祝い品を受け取って準備していたらしき大きな紙袋にそれらを入れていく。真田が近寄ってきた。彼の手には、見覚えのある、懐かしいもの。


「預かっていたものを返すぞ、幸村。……おかえり」

「ありがとう、ただいま」


試合用のラケット1本とレギュラーのユニフォーム。入院が決まり、副部長として部を支える、お前の帰りを皆で待っていると宣言した真田は、俺にラケットとユニフォームを求めた。部長がいなくなれば士気が下がる。それをできるだけ防ぐためにも、俺の代わりに部室に飾っておかせてくれ、と。その行為はまた、部に俺の心を置いて行き必ずここに戻ってくることを自分に誓うことでもあった。
ユニフォームを手に、グリップを握って、振る。久しぶりのさわり心地に、忘れていたテニスの感覚が一気に戻ってきた。まるで入院する前のように。

柳が俺の鞄と紙袋を差し出してきた。


「幸村。最後に、俺からプレゼントだ」


長身の彼を見上げると、柳は意味ありげに笑った。


「お前の姫は、奥深くにある自分の城で、目覚めるときを待っている」


意味は考えるまでもなかった。なぜ聞きたかったことが分かったのかと、そう問い返す気も起きなかった。柳の言葉を聞いた瞬間、俺は鞄と紙袋を引っつかむときびすを返して、走った。走り去る際にちらりと見えた部員たちはみな笑っていた。


(20111113、続く)

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