七色の雲 | ナノ

俺は毛糸の帽子を目深にかぶって教室を出た。廊下は窓から入ってきた冷気に冷やされて、教室の暖かさとの落差に俺は一瞬身をすくめた。ブラジルでは気温が20度を下回る日さえなかったというのに。日本の雪やら氷やらについて聞いてはいたが、その言葉が身にしみる。いくら体を鍛えているとはいえど、今は日本の2月。寒いものは寒い。


「桑原くん」


振り返ると、柳生がにこにこと微笑んでいた。相変わらずきっちりとした風体の柳生は、隣に並んで歩く。


「日本には慣れましたか?ブラジルから比べるとずいぶん寒いでしょう」

「ああ、頭が寒いと思ったのなんて初めてだ。朝布団から出るのも辛いぜ」


幼いころから日本人の母親に教えられていたから日本語会話には不自由しないし、日本食も食べ慣れたものだ。だが留学当初は漢字やはやり言葉が分からず困ったことも多かった。そんなときに助けてくれたのが同じテニス部の柳生で、時間があるときに率先して教えてくれたりさりげなく手伝ってくれた。留学生活に慣れた今でもたまにこうして気遣ってくれるのがありがたい。


「なあ、柳生。最近ブン太も仁王もなんか変じゃねえか?何か知らないか?」

「そう、ですか?私は何も感じませんが」

「そうか、ならいいんだ」


俺は軽く手を振って、話を打ち切った。気のせいだったようだ。
新人戦が終わってから、俺はなんとなくもやもやするようになった。正体不明の何かが、少しだけ泥のように心に溜まっている。それに最近、なんとなくテニス部の雰囲気がおかしい気がする。おかしいと言っても不穏な空気があるだとか逆に浮ついているという訳ではないのだが、感覚的に、何かがズレている気がした。練習をしていても、何かしっくりこない。以前のようなどっしりと落ち着いた練習ができている気がしない。全員が集中して練習に取り組んでいるはずで、そんなおかしなことが起きるはずはないのに。

……自分の気持ちがおかしいから周りもそう見えているだけなのかもしれない。ホームシックにでもかかった、とか。志高く胸を高鳴らせて自分のルーツでもある日本へ来たというのに、このていたらく。まったくなんということだ。俺は軽く頭を振って話を変えた。



「柳生の方こそ大丈夫か?それとも、最近何か新しくはじめたのか」

「えっ、いえ特に何もありませんが……なぜです?」


口に出してしまってから聞いていいものかと一瞬詰まったが、結局俺は素直に聞くことにした。


「最近、優香に誘われてもたまに断ってるから気になってよ」


優香は仁王と付き合い始めてからも、部活が終わると変わらず仲の良いテニス部員に声を掛ける。その結果、優香と夏美と仁王、それからブン太と俺と……というだいたい決まったメンバーで駅まで帰っていた。以前はそこに三強もいたのだが、新人戦が終わったころからいつの間にか別行動を取るようになっていた。そして同時期に柳生も「すみません、用事がありまして」とたまに断るようになった。


「えっ……いえその、大したことではないのですが」


昇降口で一瞬立ち止まって、柳生は口ごもった。俺は普通に靴箱を開けるそぶりをしつつ、内心焦った。しまった。聞かれたくないことだったらしい。ブラジル人なら言いたくないことは適当にごまかすか言いたくないときっぱり言って終わりだが、柳生はそうではない。この心優しい友人は、言いたくないという気持ちと俺の質問に答えなければという気持ちの狭間で葛藤してるんだろう。
俺は靴を履きつつ、さりげなく話を終わらせようとした。


「そうか。それならいいんだ、気にしないでくれ」


二人並んで校門へ向かう。柳生ははい、と頷いたものの、何か言いたげに口ごもっている。俺は黙って待つ。校門から路へ出たところで、柳生がためらいがちに問うてきた。


「桑原くん、あなたは今のままでいいのですか?」

「え?」


俺は頭をひねった。今のままでいい、とは何のことだ。成績の話か?テニスの実力の方か?それとも……俺がなんとなく感じていた、テニス部の練習の方か?
柳生は顔をあげて、今度はきっぱりと俺に問いかけた。


「藤川さんのこと、好きなのではないのですか。あなたは今のままでいいのですか?」


想像していたどれとも違う問いに俺は絶句した。まさか、自分ですら普段は考えていないことを指摘されるとは思ってもいなかった。柳生に踏み込んだことを聞かれるとは思っておらず、そして優香のことを聞かれるとも思っておらず心の準備の足りなかった俺は焦った。


「ま、まあ好きといえば好きなんだが、好きなんだろうが」

「いいのですか。今のままで」


彼は再三、問う。真剣な顔で、念を押すように。返答に困って柳生の方を見ると、眼鏡越しの視線がまっすぐにこちらを向いていた。俺はそのまっすぐさに狼狽し、すぐには言葉が出てこなくて帽子に手をやった。

優香はその名の通り、最初から俺に優しかった。よく分からぬ日本での生活、学校の制度、そんなものに戸惑っている自分にとって、ことさら親切にしてくれる柳生や彼女のような存在がどれほど心の支えになったことだろう。血は半分日本人といえど育ちはブラジルで、日本は母親の故郷でありながら「異国」だった。
人だって人種が違うだけじゃない、それこそ文化が丸々違った。優香は親切で綺麗な女だ。だが彼女は自分の知っている同世代の女から比べてずいぶん大人しくて、日本人はだいたいそうなのだという。日本の女は主張も弱ければ肉体の女性を協調するような格好もしない。にぎやかな音楽を鳴らして踊ることもない。俺は確かに彼女が好きだ。当たり前のようにグラマーでセクシーな女が好きだった自分が。でもだからこそ、日本人の女である彼女にどう接したらいいのかがよく分からなかった。それに彼女にはもう仁王がいる。


「一緒に帰っていて分かったんだけどよ。優香がすんげー楽しそうにしてて、まあそれでもいいかな、ってな」

「いいん、ですか」

「まあな、仕方ねえだろ」


ブラジルの友人が見たら「まあまあ、女なんていくらでもいるぜ」とでも言いそうだ。確かにその通り。優香は特別だ。そう思う気持ちも確かだ。これが好きということなのかもしれない。俺の恋心は、異国情緒に戸惑っているうちにずいぶんと柔らかなものになってしまっているらしい。彼女が仁王と話していても、ブン太と話していても、目で追ってしまう、でもそれだけなのだ。それだけ、のつもりなのだ。


「そうですか。……それなら、丸井くんは?」

「何?」

「丸井くんは、辛くないのでしょうか」


半分表情の消えた顔で言う柳生に、俺は息をのんだ。


(20111009、続く)

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