七色の雲 | ナノ

人の幸せのために動ける人間であることが優しさなのだと信じて疑わなかった。今でもそう思っているのに、段々優しさというものが分からなくなっている。藤川さんと仁王くんを応援すれば彼らのためになるだろう。だがそれは自分の恋心を殺すことと同義だ。他人をとって自分を殺すか。自分をとって他人を殺すか。かつてない気持ちの狭間で醜く揺れ動く自分、優しくなろうとできない自分。
私には、迷いが増えた。


「ねえ、柳生。誰にでも平等に接しようとしたら、大切なもの、なくしちゃうよ」

「どういうことですか?」


悶々とした悩みが心から漏れ出ていたのか、ある日、高橋さんにこんなことを言われた。彼女はあさっての方向を見たまま私に声をかけ、私は意味が分からず首をひねった。


「柳生と仁王って、似てないのに似てるところあるよね」

「ええっ、どこがですか?」


常に個人主義で自由な彼と、協調を重んじきまりに縛られる私が、似ている?
彼女は問いに答えず言いたいことを言う。ますます分からなくなる話に静かに混乱していると、彼女は鼻の下をこすって胸を張った。


「上手く言えないけど、似てる!」


私は絶句した。根拠なき堂々たる宣言に言葉を失っていると、彼女はそんな私の表情に気がついたのか慌てて取り繕った。


「なんていうかさ!慎重すぎて、考えすぎて自分から穴に落ちちゃいそうっていうか……優しいっていうのは、誰かに優しくすることだけを意味するんじゃないと思うよ」


仁王くんと私が似ている。考えすぎる。誰かに優しくするということ。
私は沈思した。彼女の言葉は全てが唐突で抽象的でよく分からない。でも確かに、自分が今抱えている葛藤の一部を指しているような気がして、あたりさわりのない返事でさえもすぐには出てこない。
人に優しくなることは自分の好きな自分になることでもあって、それが辛いというのはどういうことだ。優しくすることだけが優しさじゃない、とはどういう意味だ。優しくするとは何だ。私はどうしたらいいんだ。
考えすぎると言われたそばから答えを探ろうとする試みは止まらなくて、結局私はまだ紳士の顔をしたまま心に異変をしまい込む。高橋さんはそんな私の様子に気がついているのだろうか。


「とりあえず、仁王は怪しげに見えるけど悪い人じゃないと思うよ」

「それは私も同意します」

「怪しげ、っていうところにも同意するんだね、柳生でも」

「えっ、いや、それは――」

「あはは、冗談だよ」


高橋さんの笑顔と明るい笑い声に少し心が軽くなる。彼女の笑顔を見たときのような幸福感や鋭い痛みとは違うもので、それは私に確かな安心をもたらした。
どのみち、私が考えて迷っている間にも周りは待ってはくれないだろう。きっと坂道を転がる大きなボールのように、誰にも止められずに彼ら――仁王くんと藤川さんの仲は進んでいくのだろう。私の意志になぞ関係なく。
そしてその予測は正しかった。


***


夏の全国大会は、立海の優勝で幕を閉じた。3年生は引退し、それから少しの休息を経て、新しい部長の下でテニス部の活動が始まるころ、仁王くんと藤川さんはつきあい始めた。

別にそのことで、テニス部の練習に支障が出たわけではない。仁王くんも藤川さんも公私混同はしない。仁王くんは練習にちゃんと集中していたし、藤川さんも仁王くんをひいきしてサポートするでもなく、ただ休憩時間に一緒にいることが多くなったくらいだ。

私は、軽い衝撃を受けた。分かっていたことだった。高橋さんに尋ねたときから。それなのに現実で幸せそうな顔をしてアイコンタクトをする二人を見ていると胸がざわついて、心臓が絞られるような顔をした。そう、彼らは実に幸福な者の顔をしているのだ。角のない微笑み、相手を見つめる目、相手に伸ばした指先、その態度全てに。私がどうしようともこうなるべき運命だったのだ、頭では納得しているものの心は理解してくれない。


「丸井、たるんどるぞ!」


真田くんの叱責が飛んだ。それはいつものことだが、練習中に丸井くんが怒られるのは珍しい。おや、と振り返ると丸井くんはぼんやりと真田くんに生返事をしていた。彼はしっかりラケットを握りしめてはいるものの心ここにあらずといった具合で、元気がない。気のせいに違いないが、心なしか彼のトレードマークとも言える燃えるような髪色まで多少色あせているように見える。
そんなに緩んだ態度のままでいると、今度は鉄拳制裁されてしまう。そんなこと分かっているはずなのに今日の丸井くんは一体どうしたのだろう。
私だけでなく他の部員も何人か、丸井くんと真田くんの様子をチラチラうかがっている。
だが変なのは丸井くんだけではなかった。丸井くんを叱った真田くんは一つため息をつくと、ぼんやりした丸井くんの様子に気がつかずに別の部員の様子を見て回っている。彼なら「たるんだ」様子を見れば怒らないはずがない。おまけに注意した直後のことならば間違いなく平手打ちをして気合いを入れるはずだ。それなのに今日は真田くんもまた、注意力がそこなわれているように見えた。

鉄拳が飛ばなかったことにほっとして、周りの部員たちはまた自分の練習に戻っていく。私はその様子を見て、唐突に気がついた。今日おかしいのは二人だけじゃない。他の部員でも何人かは、丸井くんと同じような茫漠とした表情を浮かべている。そして私や真田くんと同じように、いつもと同じような顔をしながら注意力が散漫になっている人もいる。

仁王くんと藤川さん、か。

すぐに思い当たった原因に苦笑する。私だけじゃない。私だけじゃないのだ、心に吐き出せない割り切れない何かを抱えているのは。彼と彼女は惹かれ合って、そこには何の問題も障害もないのに、周りには静かにその痕跡が、かすかな傷跡が、残っていく。







そうこうしている間に休憩時間になった。藤川さんはマネージャーの仕事を終えると仁王くんに駆け寄って、仁王くんも嬉しそうな顔で彼女を出迎えて。見えないはずの幸せが間違いなくそこに見て取れて。部長に呼ばれて彼女がそこを去った後に、私は思わず仁王くんに声を掛けた。


「仁王くん、幸せが溢れ出ていますね」

「何じゃと」


彼は虚を突かれたような顔をした。そして私からじっと目をそらさずに、ほころんでいた表情を引き締めて睨むような顔をする。……しかしそれでも全然怖くない。今まで彼がまとっていた、ひょうひょうとした空気の中にそれとなくただよわせていた芯の硬さのようなものが全くない。そのかわりに、体の内部だけには留めておくことのできぬふわふわとした雰囲気が漂っている。
私は思わず、笑い声をあげた。悔しいのかさびしいのか、苦しいのかつらいのか、得体のしれぬざわめきは確かに私の心臓を震えさせるけれども、でも彼は幸せなのだ。必死で取り繕おうとしてもできぬその喜びは、私になんともいえぬ寂しさを帯びた幸福感をもたらした。

彼は引き締めそこねた表情を崩して、むすっとふてくされた顔をした。失礼だとは思いつつも、その顔を見てまた笑いがこみ上げてくる。あの自由人の仁王くんが。あの、誰にも本心を見せなさそうな、相手に近寄っても決してなつかぬ獣のようだった仁王くんが。今、自分を丸出しにして私の目の前にいる。


「プリ」


彼は突然、謎の音を発した。ぴたりと笑いを止めて聞き間違いではないのかと彼を見る。彼はむすっとした表情のまま、あさっての方向を向いていた。


「……プリ?」

「ピヨ」

「……」


意味不明どころか言葉にすらなっていない発言に、変な汗が出てくる。幸せのあまりおかしくなってしまったんだろうか。
反応に困って仁王くんを見やると、彼は相変わらず顔をそむけてむすっとしていた。数拍の沈黙ののち、彼は私の方に振り返ると、ニヤリと笑った。


「幸せじゃ」

「そうでしょうね」


またおかしさがこみ上げてきて私は口元に手を当てた。彼はクールなふりをするのをやめて、照れくさそうな顔をして笑った。

彼と私はそれから親しくなっていった。彼は饒舌ではないが、ぽつり、ぽつりと自分や彼女のことを話すようになった。彼は今までにないようないい表情をして、語る。彼が一言彼女を語るたびに、私の心は小さな痛みとざわめきを感じる。それなのに、彼の素直な表情を見ると不思議と心が凪いだ。この人はこんな表情もできるのか。こんなに心の底から柔らかい表情ができるのか、あのペテン師のように仮面を作るのが上手い彼が。

私は自分の気持ちを処分することにした。感情を捨てたり片付けたりすることは難しい。時間が解決してくれるのを待つしかないのだろう。私は彼女が好きだ。そして、仁王くんのことも、また。だが――だからこそ、彼らを見ているとこれでよかったのだと、たとえ高橋さんが言ったようにその代償として私が何かをなくしていたのだとしてもその甲斐はあったのではないかと、そう思えた。


状況が変わったのはそれから数ヶ月後。私は、桑原くんに話し掛けられた。


(20110920、幸せ者の話 fin)

北崎さんリクエストありがとうございました。話は次のジャッカル視点に続きます。

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