七色の雲 | ナノ

蝉が煩い8月だった。真っ青な空にきつい太陽がぎらぎらと輝いて、照りつけるような日射しが私たちを焼いていた気がする。

あの瞬間、全ての音が消えた。メガホンを振り回していた男の子も、声高く歓声を送っていた女の子も、先生も保護者も、皆が動きを止めたかに見えた。まるで時間が止まったかのように色が消えて音が失せた。ラケットがテニスボールを跳ね返す音はもう聞こえない。

とん、とボールがコートに転がる前に、怒号のような観衆の声と審判のコールが響いた。地鳴りのように揺れるスタジアム。幸村くんも越前くんも肩で息をしている。皆が口々に何かを叫んでいた、でもそれはどうでもよかった。全国大会の、決勝戦。
幸村くんがネットに近寄った。越前くんと言葉を交わしているようだった。幸村くんの表情も、他のレギュラーたちの表情も遠すぎて見えなかった。


試合は終わった。

幸村くんは負けた。

三年の夏、中学最後の夏が終わった。


***


私は誰もいない美術室の真ん中に椅子を置いて、カンバスを前に鉛筆を握りしめたままぼうっと座っていた。せっかく時間があるのだから何かコンテストに出す絵でも書こうと思うのだけれど頭が働かない。クーラーの効いた部屋で鉛筆を握りしめて、私はただ座っていた。気持ちはテニス部に向くばかり。

全国大会が終わってから幸村くんには一度も会っていない。最終戦を見届けた後、私はすぐに帰ってしまった。テニス部の打ち上げなり反省会なりあるだろうし、部長の引き継ぎだってある。私が入るスペースなんて1ミリもない。メールくらいは送りたかったけれど何と言えばいいのか、文面を書いては消し書いては消し、結局送りそこねてしまった。お疲れさまだけじゃ内容が薄いし、残念だったねと言えばいいのか、準優勝おめでとうとも言われたくないだろうし。未だに送るべきか迷った白いメールが携帯に保存されている。

悩んでいても仕方ないと重い腰を上げた大会最終日から三日目の今日。朝から美術室にこもったのにこの体たらくだ。まったく、我ながらどうしようもない。気になるならせめて幸村くんにコンタクトを取ればいいものを。

一方で、不思議な予感があった。胸の奥底でそわそわしている自分がいる。何も約束などしていない、それなのになんとなく、なんとなく――彼が来る気がした。

初めて幸村くんに抱き締められた時のように。退院した幸村くんに初めて会った時のように。

私は椅子の背にもたれて目を瞑った。









何かの音がする。いつのまにか寝てしまっていた。目をこすって身を起こして時計を見る。一時間も寝ていたらしい。床に転がった鉛筆を拾って立ち上がって伸びをして――ふと気付く。音はこちらへ向かっている。それにこれは足音だ。この足音は。


椅子から立ち上がって扉の方を見ると、想像した通りの人が廊下から入ってきた。寝起きなせいでまだ頭が上手く回らない。なんで美術室に来たのだろう。今日はテニス部の練習はないはずだ、なのに彼は学校にいる。そのくせなぜか私服だ。よく守衛さんに中に入れてもらえたなあ。

いや、そうじゃない、問題はそういうことじゃなくって。

「幸村くん?」
「ここにいるって聞いてね」

幸村くんが近づいてきて、ぎゅっと私を抱き締めた。冷気に満ちた部屋の中で唯一、熱を放つ彼の体。その体温に促されるようにして、私は恐る恐る言葉を紡いだ。

「全国大会、お疲れさまでした」
「うん」

彼は腕に力を込めてじっとしていた。彼は何も言わなかった。私も何も言わなかった。とくとくと二つの心臓が音を立てる。
しばらくして、彼はふと苦笑するとぽんぽんと私の頭を撫でた。そして耳元で小さくしかしはっきりと語り始めた。

「楽しかったよ。決勝戦」

言葉は床に落ちて、湖面に落ちたひとしずくの波紋のように静かに広がっていく。私に向けられた話だろうに、噛みしめるように発せられた台詞はほとんど独白のようだった。

「あのボウヤには教えられた、テニスの楽しさを。もともと楽しかったけれどここ最近は勝つことが第一でそんな風には考えられなかった。でもそうじゃないんだと教えられた。おかげで俺はまだ強くなれるがする。
試合が終わった時には心地よい満足感があったんだ。いい試合ができたしね。でも、それでも。悔しさがないわけじゃない。常勝の錦を掲げてここまで、全国大会までやってきた。それは当たり前のことだったはずなのに、俺は負けた。手術が終わって頑張ればもう一回テニスができるかもしれないと思って必死でここまで来たのに。何が足りなかったのかとボウヤに問えば楽しむ気持ちだと返答されるだろうさ、でもそれでも俺は勝ちたかった」

彼は淡々としていた。静かに自分の気持ちを音にしていく。しかしその感情のこもらぬ言葉の群れが余計に彼の心情を伺わせて、こちらの心臓の奥底まで重く染み込んでいくようだった。

「テニスへの執着があったからこそ、勝利への執着があったからこそ俺は病気を克服できたんだ。テニスが二度とできないかもしれないと医者が言っているのを聞いたときはどれだけ絶望したか。そこからはい上がって、ようやくあれほど自分に当然と課してきた優勝に手が届くと思ったときに。楽しむ気持ちは確かに忘れていたかもしれないけれど、何よりテニスが好きだという気持ちは本物だった。だけど。
この試合は俺にとっても必要だったんだろう。病気を克服するための目標になったっていうだけじゃない、俺が俺のテニスを生長させる上でも。それでも、やっぱり負けたことは悔しいし、勝ちたかった」

私はどんな顔をしていたのだろう、彼は体を離すを私の顔をのぞき込んで苦笑した。それから気持ちを切り替えるようにまた私の頭を軽くぽんと撫でて、今度はもっと明確に言う。

「まいったな。勝ったら言うつもりだったのに、負けたから言えないじゃないか」
「何を?」
「まあいいか。いいよね」

さっきとは打って変わった調子に面食らっていると、彼は笑顔で言った。この笑顔は私をからかっているようなときの顔だと思ったけれど、彼の口から飛び出た言葉はもっと劇的なものだった。

「長崎さん、俺は君が好きだ。付き合ってくれる?」

風船から空気が抜けていくようなやる気のない「えっ」という言葉が思わず口から漏れた。唐突な告白に硬直していると、彼は珍しくも拗ねたような調子で文句を言った。

「えっじゃないよ。『今更?』くらい言ってくれるかと思ったのに。ほんとに今更だけどちゃんと言ってなかったし。側にいてくれとはずっと要求してたけどこうは言ってなかっただろ。だから、俺と付き合ってほしい。返事は?」

突然のことで思考が現実に追いついてなかったというのもあるけれど、でもたぶん本当は考え込む必要なんてなかったんだろう。彼のまっすぐな言葉を聞いた瞬間、私は全てを忘れた。今まで自分の特殊性のことだとか釣り合わないだとか、細々悩んでいたことが何もかもぽーんと抜けて。今まで心の中で泥のように溜まっていたものは何だったのだろうと思うくらい素直な返事が出た。

「うん、嬉しい」
「うん」

見上げた彼は目尻を和ませて嬉しそうに笑っていた。細められた目に映っているのは、まっすぐに彼を見る私。きっと私の目にも同じように、彼が映っている。

「良かった。断られる気はなかったけどね」
「それってどういう」
「さ、晴れて恋人同士になったことだし来学期からは堂々と一緒に帰ろうか。もう周りにもばれてるから隠しても意味ないだろ?」
「えっえっ」
「噂もいくところまで行っちゃった感があるし、もう大丈夫だと思うよ」
「それは私もそう思うけれど」
「どういう関係?って聞かれてもこれからは付き合ってると明言できるな。良かった良かった」

どんどん話が進んでいく。さきほどまでとは打って変わって、背中に冷や汗が伝うのが分かる。うん、という肯定を発してからすごい勢いで話が進んでしまった気がする。話を進めているのは幸村くん一人だけれど。
確かにもう幸村くんと単に仲が良い以上であることはばれてるし、誰も何も言ってこなくなったけれどもそれとこれとは違う気がする。でも何が違うか説明できない。

「幸村くん」
「名前」
「え?」
「手始めに名前呼びで。苗字も悪くはないけど」
「な、なんで」
「なんでって、俺の妹とは名前で呼び合っているのに彼氏の俺が苗字で呼ばれてるなんておかしいだろ」
「うっ、ま、まあ、そうなのかな」
「そういえば、俺がなんで君の居場所を知っていたか分かる?」

柳くんに教えてもらったんだろうか。でも私が今日ここにいることを柳くんが知っているとも思えない。首をかしげると、彼は満面の笑みでとんでもないことを言った。

「君のお母さんに教えてもらったんだよ、家に居るかと思って行ったんだけど」

ああ、全く。幸村くんにはかなう気がしない。


(20120808,fin)

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