七色の雲 | ナノ

勝つか負けるか。おおよそ賭けというものには二種類、スリルを楽しむための賭けと自分を鼓舞するための賭けがある。真面目な彼女が「数学の点数で勝負をしよう」と申し出たのは純粋な目的だったに違いない。つまり、数学の勉強に気合いを入れるための申し出だった、と。
一緒に勉強して分かったことだが、長崎さんは真面目なだけじゃなく実際かなり勉強が得意だった。成績を聞いて驚いた。「すごいじゃないか、柳レベルだ」と褒めると、彼女は微妙な顔をした。自覚があまりなかったのかもしれない。
彼女がわざわざ賭けを申し出たのには更にわけがあって、数学が嫌いで苦手なのだと言う。

(幸村くんは数学好きなんでしょ?だから是非)
(それじゃあ俺が勝つだろう?)
(あ、言ったなー!)
(俺は負けないよ?)
(私だって、テニスじゃないんだし!負けたら何でも言うこと聞くよ)
(二言はない?)
(もちろん)

俺がやる気になった理由は二つ。一つは男のプライド。いくら数学が苦手と言えどある程度勝算があったから彼女は俺に賭けを挑んできたのだろう。数学が得意な俺と苦手な彼女でも勝負になる、と。そう思われているなら負けるわけにはいかない。特に相手が彼女なら。俺だって単なるテニス馬鹿じゃない。負けましたなどという情けないこと、許せない。
二つめの理由はまさに、「負けたら何でも言うこと聞くよ」。言い出しっぺが彼女とはなんと都合の良い。心置きなく罰ゲームを受けてもらえるじゃないか。負けるつもりなんてさらさらなかった。


数学の答案を握りしめてほっとした顔をして待っていた彼女に、俺は自分の答案を突きつけた。
中間試験の答案が返却され始めた今日、校舎は同級生達の歓喜や悲鳴で溢れていた。浮き足たつ教室、廊下、中庭にまで響く声。先生方の苦笑が目に見えるようだ。昼休みでも放課後になった今でもまだ普段より騒がしい。俺は自分でも唇が弧を描いているのが分かった。むしろ満面の笑みなのかもしれない。
彼女はいきなり顔の間近に来た紙に目を白黒させ、そして愕然とした。してやったり。予想通りの反応に嬉しくなる。

「え、うそ」
「俺が勝つって言っただろう?」
「満点!?」

この点数だったら絶対に「負け」はない。賭けをすることに決めた日から俺はかつて無いほど熱心に勉強した。誰にも言うつもりはないけれど。いつだって負けたくはないが、今回は特に、絶対に負けられなかった。あれだけ練習問題をこなし、テスト中にもあれだけ見直しをしたのだから大丈夫と思ってはいたが、いざ現実になると感無量だ。

「さあ、言うことを聞いてもらおうか」

彼女の目が不安そうに揺れた。冷静な顔をしているけれど、もう何ヶ月も一緒にいる今の俺には本心が丸わかりだった。

「あんまり変なことは止めてね」
「変なことって?」
「テニスボール50箱おごって、とか」
「君にお金を出させるわけないだろう」
「なら肉体労働?」

俺はぽかんとした。肉体労働?どんな思考をしているんだ。これはなんだ、全く男女間での罰ゲームという感じがない。友人なのだから当たり前といえば当たり前なのだがこの率直さはなんとしたものだろう。いったい何を想像したのか。

「肉体労働って例えば?」
「えっ、ほら、『俺のテニス部のためにテニスボール50箱買ってきて』みたいな」
「なんでさっきからテニスボール50箱なんだ」
「え、な、なんとなく?でも幸村くんならそんな変なこと命令しないよね!ね?」
「うん、女の子相手にまさか」

普段とは違って支離滅裂。言葉も曖昧。焦ってる、焦ってる。きっと彼女は今頃、この後自分は一体どうなるのだろうと不安に思っているのだろう。俺の返事を聞いてちょっとほっとした様子だった彼女に、わざとにっこり笑いかける。
そのとたん、彼女が青ざめた。

「まさか、まさか……精神的にキツいこと?」

それはいいね。こみ上げてくる笑いを噛み殺して真顔で答えると彼女は硬直した。沈黙さえも楽しい。本当は何も考えていなかった。ただ彼女と過ごす上で有意義なことをしてもらおうかと思っただけで。ただからかいたくなっただけだ。それもまた楽しい。

さて、どうしようか。弁当でも作ってもらうか?しかし弁当なら罰ゲームでなくとも頼めば作ってくれそうだ。校舎内で仲良くしてもらうとか?いや、それはなし。まだ適切な時期じゃない、面倒なことになりそうだ。青春らしく膝枕とか?……現段階でそんなことを頼んだらセクハラになりかねない。それはさすがに嫌だ。というか彼女が嫌だろう。
俺がして欲しいことで、普段ならしてくれなさそうな、頼みにくいこと。

彼女の様子を伺うと、ぐるぐると目の色をめまぐるしく変えていた。その表情を見て思いつく。そうだ、これにしよう。今の自分は悪人面をしているかもしれない。

「じゃあ今日だけ名前で呼んでもらおうか」
「それはちょっと」
「即答かい」
「馴れ馴れしすぎない?」
「何を今さら」

彼女は何かを言おうとしたけど口を閉じる、という行動を何回かした。この罰ゲームにして正解だった。彼女にとっての「平気」と「平気じゃない」の境目。平気なことを頼んでも罰ゲームにはならないし、全く平気じゃないようなことを頼んだら嫌がらせにしかならない。こうやって限界を探り、少しずつ少しずつ押して限界の壁を広げていく。
ついに彼女はがっくりと肩を落として、小さい声で呟いた。

「恥ずかしいよ」
「罰ゲームだしね」
「うう、ユキムラクン」
「苗字じゃなくて名前でね」
「ねえ、幸」
「精市」
「……」
「精市。ほら」

心なしか彼女の耳が赤い気がする。彼女はどつぼにはまっているようにも見える。あっさり何気なく「精市」と呼んでくれれば良いものを。ためらっている間にどんどん「名前で呼ぶ」という行為を意識してしまってますます恥ずかしさが増しているというところだろうか。

「いいじゃないか。そもそも今日なんてもうすぐ終わっちゃうしさ」
「なんか、だって」

優香は特に何も意識せずに俺を名前で呼んできたというのに、この長崎さんとの差は一体なんだろう。そのこだわりはどういうものなのだろう。てっきり彼女の初々しさからためらいが生まれているのだと思っていたけれど、本当は下の名前を呼ぶことに特別な意味を感じているのかもしれないじゃないか。……異性を名前を呼ぶのは恋人だけと決めている、とか。
無意識のうちに声のトーンが下がっていた。

「恋人しか名前で呼ばない、とか?」
「え!いやいや、そんなつもりはないんだけど」

彼女の返事にほっとすると同時に、はたと気がつく。彼女のこだわり、だなんて考えたけれど、名前呼びにこだわっているのはどっちだ。俺の方じゃないか。名前で呼んでほしい。俺のことを名前で呼ぶやつなんてたくさんいる、それこそ優香だって柳だって。でも、それでも、彼女に名前を呼んで欲しい。

「柳だって俺を名前で読んでるじゃないか」
「柳くんは男じゃない」
「関係ないよ」
「そうかな」

もう一押し。

「うん。ああ、君が名前で呼ぶのが恥ずかしいと言うのなら俺も今日は名前で呼ばせてもらうよ、由紀」

彼女は愕然とした顔で振り向いた。顔に血が上っている。俺はわざとすました顔で彼女と視線を合わせる。穴があくくらい見つめられて俺も少し名前で呼んだことが恥ずかしくなってきた。だが我慢我慢。彼女の反応は予想通りだ。データなんて取るまでもない。

「な、名前で……」
「なんだい、由紀」
「あああやめてー!恥ずかしい!てれる!」
「君が呼んでくれないからだろう」
「ううう」

彼女は足を止めた。ざあっと温い風が吹く、涼しい季節になってきた。ややうつむき加減の彼女の髪がゆらゆら遊ばれて、毛先が宙に舞う。風が一群れ、また一群れと渡って景色を揺らして去る。俺が彼女の目の前に回り込むと、長崎さんは意を決したように顔を上げた。顔はまだ赤い、でも目はしっかり俺の瞳を捉えた。
唇を小さく開いて、しっかりと、呼ぶ。

「精市くん」

溢れた名前、毎日のように誰かに呼ばれる俺の名前、それがいつの間にかすごく欲しい言葉となって、ようやく今、彼女の口から出てきてくれた。心の底からの笑み。

「よくできました」

微笑むと、彼女はまだ照れているのか「もう行こう!」と再び歩き出した。

「今日中だからもっと呼んでもらうよ」
「名前呼ばなくても会話できるよ!」
「それじゃあ罰ゲームの意味がないだろ。さあ、さあ」
「うう、確かにそうだけど。今日だけだよ」
「うん、まあ今のところは今日だけで勘弁してあげる」
「今のところは!?」
「ふふ」

悪人みたいだよ、精市くん。彼女のふてくされたような台詞に、俺は満面の笑みを返した。


(20120527)

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