七色の雲 | ナノ

部外者としてテニス部の様子を見て欲しいと頼んだのは他でもない俺自身だが、それにしても長崎は自ら俺たちに近寄ろうとはしなかった。彼女にしか見えぬガラス板のすぐ向こう側で、彼女はじっとこちらを見ていた。手を伸ばしてこちら側へ引き入れようとしても彼女はそれをさらりとかわす。そういう性格だということが今までのデータからでもはっきりと分かる。
俺と精市が頼んだ「仕事」が終わったら彼女は五分の確率で身を引くだろう。そう予想していたが正確な数値はもっと高かったのかもしれない。実際、彼女は引き潮のように素早く、俺たちに引き留める暇も与えぬうちに終息宣言を放った。


「本当に、分かって、良かった。もう大丈夫だね」


問題について立てた仮説に一旦ケリがついたと思ったときには、もう彼女は席を立っていた。素っ気ない行動にひっかかりを覚えて彼女を見たが、ただにっこりと微笑んでいるだけだった。不可解さを感じたらしい弦一郎が、何、と小さくつぶやいたが彼女は気にせず続ける。


「幸村くんたちなら絶対今の困難も打開できる。もうちょっとだけ、絵は描かせてね。そしたら、ちゃんと彩色した絵を描きあげるから」


じゃあ、頑張ってね。端的な別れのあいさつを述べて、彼女は教室から出て行った。
誰も動かぬ教室で、チッチッチッと時計の秒針の音だけが響く。俺たちは言葉を失った。口を挟む暇もないほど鮮やかな引き際。鮮やかすぎて、今まで彼女は本当に俺たちの目の前に居たのか、一緒に頭を付き合わせていたのかと疑いたくなるほどに。しばらくして、弦一郎がおもむろに口を開いた。


「いいのか、精市」


精市は教室の扉、扉の窓から見える誰もいない廊下を見つめていた。何か言おうとしたのか唇が薄く開いているのに彼は何も言わない。微動だにせぬ幸村の横顔。どう思っているのかが手に取るように分かった。精市は長崎を引き留めたかったのだろう。だがその前に彼女は既に決定事項のような言葉を次々と放って去った。まるで、拒絶。推測以上に強いその身の引き方に、俺さえ絶句してしまうほどの。


「二度目の正直の後。俺たちに一線を引いているな。心を開いていないというわけじゃないだろうが。さっき俺にも『ヤなんだけど』と言った後もはっとした顔をしていた。何をそこまで遠慮しているのかは分からないが」

「蓮二にも分からないのか?」


先ほど長崎は『ヤなんだけど』と言った後、しまったという気まずそうな顔をした。顔にこそ表さないが当然俺は疑問に思う。彼女は何を考えてそのような顔をしたのか。長崎のデータを集めて分かったことの一つは、俺たち男子テニス部に対して一線を引いている、ということだ。女子テニス部や他の男子、クラスメイト達に対してはそうでもないらしい。理由は分からない。男子テニス部と彼女の関係を洗っても何も出てこない。過去に何かあったというわけでもないようだ。
これ以上知るには、男子テニス部という枠を越えて彼女と親しくなる必要がある。幸村と親しい女子という意味でも彼女に興味はあるが、しかしそれは今の俺ではできないことだ。


「ああ。これはきっと、精市、お前にしか解決できない謎だろう」


データはない。勘にすぎないが、きっと彼女の謎の根は深い。


***


落ち着かない気分で廊下を歩いていると、遠くに弦一郎の姿が見えた。彼は腕組みをしてじっと中庭を見下ろしていた。何を見ているのかはっきりと分かる。精市と藤川が話し合いをしているのだ。その確率、89%。真田の隣に並んで窓の外を確かめる。樹冠に隠れてよく見えないが、あの頭は間違いなく精市と藤川だろう。
真田は何も言わない。俺も何も言わない。黙って、見守る。
昨夜幸村は決意を固めた顔で俺に問うた。藤川は『新しいルール』の意図を理解しているか、と。俺が答えずとも彼は答えを知っていた。最後の一押しが欲しかったに違いない。俺たちのたくましいマネージャーであり、同時にただの女子でもある藤川に突きつけた刃。場合によっては部活をやめろと言い渡さねばならないかもしれない。誰だって言いたくない。藤川のように、ずっと部活に貢献し続けている人間に対してであれば、尚更。

しばらくして、精市が動いた。きびすを返すと足早にその場を去る。藤川は動かない。確率を出すまでもなく、呆然としているのだろう。
弦一郎が唸った。


「女子は、分からん」


突然何だと隣を見れば、彼は視線を藤川からそらさず眉間に皺を寄せていた。ふむ、と息を吐く。何か言おうかと思ったが、やめた。単純で素直な言葉に真実が詰まっている気がした。人の行動パターンはデータによってある程度先読みできる。が、だからと言って行動の基となっている感情を簡単に理解できるかというとそういうわけではない。
女子だから分からないのか。それとも単に俺たちが男だから男の感情なら分かる、というだけなのか。データを集めたところで真実は闇の中だ。
しばらく凪いでいた風が強く吹いて、樹冠を揺らす。藤川は髪をもてあそばれるまま、未だにそこに座っていた。弦一郎が再び口を開いた。


「長崎が、責任感を感じているようだった」


俺は手の中のノートに目を落とした。弦一郎には不可解だろう。彼女がそう思っているだろうことは予想できた、理由も想像できる。今回の件には長崎の行動も大きく関わっている。だから、大団円とは言えぬであろうこれから来る結末を心苦しく思っている。自分がもっと何か違うことをしていれば上手くいったのではないか、と。そんなところか。
そんなこと考えても仕方のないことだ。第一、長崎は情報を提供しただけで実際にどうするかを決めたのはすべて俺たちの責任においてのこと。だが、理屈じゃないのだ。


「つい叱責してしまった。納得はしたようだが、だが」


珍しく歯切れが悪く、中途半端なところで言葉を切って弦一郎は黙り込んだ。目下の藤川がようやく立ち上がって、その場を去った。藤川がこの後どう行動するか、だいたいなら分かる。数日一人で考えて、高橋に相談し、決断を下すだろう。私情を殺す努力をするのか部活を辞すかは分からない。だがおそらく、かなりの確率で藤川は部活を辞める。藤川はよくも悪くも素直なのだ。器用に私情を殺せるのなら、彼女の性格からいって最初からそうしているはずだ。藤川が辞めるのであれば、90%以上の確率で高橋も一緒に。


「少々心配ではある」

「そうだな」


長崎はすまなそうな顔をして恐る恐る近づいて来、ぎこちない微笑みを浮かべながら素早く去っていくのだ。何を考えているのかさっぱり分からない。……全く、あまり心配をかけてくれるな。思わず口からため息が漏れる。藤川とは反対に、なんと素直ではないことか。藤川と長崎は全くタイプが異なるにもかかわらず上手くいっているのは性格が正反対だからかもしれない。
俺は最近の幸村の顔を思い浮かべた。精市がもう少し人としての器が小さい男だったら今頃爆発していたかもしれない。彼は長崎のことが気になっているに違いない。だが私用は部長の責任を全うしてから、テニス部の問題が終わってから済ませようと考えているのだろう。長崎のことは何も聞かず何もしない。
当分、俺たちにできることはない。


***


「柳くん、長崎さんが今どこにいらっしゃるか、知りませんか」


美術室にいるかと思ったのですがいないようで、と柳生は眉をハの字にして言う。柳生がこのタイミングで彼女に接触するであろうことは想定内だったが、なんだが俺はおかしくなって微笑んだ。


「65%の確率で図書室だ。そこに居なければ、東棟わきの花壇だ」

「ありがとうございます」


柳生は足早に去っていく。柳生は俺たちと違って長崎が何をしていたのか誰からも聞いてはいない。だが高い洞察力を備えた彼のことだ、きっと気がついたのだろう。俺はノートをめくった。今日、あたりか。仁王と丸井が話し合いをするだろう。長崎は柳生の話を聞いていつものように何かを感じ、考え、そして放課後には美術室へ来る。俺は彼女を仁王と丸井の元へ連れて行く。
俺は廊下から穏やかな木漏れ日であふれる中庭を見た。鳥のさえずり、生徒の足音、笑い声、椅子を引く音。どこにでもある、平凡な中学校の一風景。

長崎。見ろ。お前の周りは、本当はこんなにも明るい。

全てが元通りになることはない。だがしばらくすれば少なくとも男子テニス部は落ち着くだろう。長崎は絵を完成させ、そのときには幸村が彼女に会いに行くだろう。彼女が何を思い、また幸村が彼女にどう言うつもりなのか俺には検討がつかない。データ不足、推測不能。後学のためにも二人の様子を見に行きたいところだ、が。


「それはさすがに野暮というものだな」


誰に言うでもなく独りごちる。
それにしても、長崎のあの『壁』は一体なんなのだろう。それを知ることができるのは精市くらいだろうと分かってはいるが、好奇心が沸く。クラスメイト以外で殊更男子と仲良くするつもりは無かった、ということか。それとも俺たちが立海の中でも目立つ集団だから避けたかったのか。はたまた最初は誰にでも壁を作るタイプなのか。生まれつきの性格なのか、何かの事情で後天的に身につけた癖なのか。そして、簡単にはとらえがたい彼女に対して幸村はどうするのだろう。テニスなら圧倒的な実力で相手を下す彼も、このようなことに関してはそうもいくまい。

口角が上がるのが自分でも分かった。もし、幸村が手こずるようなら少々手を貸すのもいい。まだ先の話だろうが。

予鈴がなる。生徒達が俺の横を早足で過ぎていく。授業に遅れぬよう教室へ戻る。俺ももう戻らなくてはならない。一つ頭を振って、一歩を踏み出した。


(20120122,fin)

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倉井さんリクエストありがとうございました!

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