七色の雲 | ナノ

ぽつり。空からまっすぐに落ちてきた冷たい一滴の雨が頭の頂点に落ちてきたような感覚だった。それは小さく優しく、だが確かな存在感を訴える。俺は道路の真ん中で足を止め、立ちつくした。突然のように現れた雫は俺がその存在に気がつくや否や見る見るうちに膨張し、黄色い脂肪のようにぶよぶよとふくれあがり、目を反らせないほど嫌な臭いを発し始めた。朝早いこの時間には車も通らない。鳥の羽ばたきも人の足音も聞こえぬ街の静寂の中、俺は手で口を押さえた。

いつからだろう。部活で充実感を得られなくなったのは。そんな馬鹿な。練習メニューにも実際の練習にも何も抜かりはないはずだ。何故だ、でも確実に不満がある、こうしてテニス部の朝練に向かうのは一年からの習慣だ、だから惰性で練習していたとでもいうのか。そんなはずはない。それなのに何故だ、何故こう感じる。何故、そう感じていたことにさえ気がつかなかった。雫の正体は不安か、不満か、どちらでもないか、どちらでもあるか。

その感覚の気持ち悪さに、俺は耐えきれなくなって猛然と足を動かした。濡れて地に張り付いた桜の花弁を踏んで、春の濃霧も気にせず前へ走った。校門を抜けてコートを抜けて一心に部室を目指す。ドアノブを回して勢いよく扉を開く。室内にいた幸村がこちらを向いて微笑む、何か挨拶を述べたけれど俺は返事もせず取り憑かれたように隅の棚へ向かった。分厚いファイルを引き出す。乱暴に扱ったせいで他のファイルが地面に落ちる。だがそれすらも見えていない、ただファイルを急いでめくる。


「蓮二?どうしたんだ」


自分で記録した膨大な数値、練習や部員のデータを舐めるように見る。データに頼れば分かるはずだ。こうしてデータを基準に考えるのは小さい頃に身につけた習慣だが、すでに俺の性格の一部をなすようになっている。めくったページ全てに目を通す。ない、これは違う。投げ捨てるようにファイルを元に戻すと床に落ちたファイルを拾い上げて見る、違う、これも違う、棚に戻す、また別のファイルを拾う、だが違う、これも、ここでも、ない。散らかした紙の束を集めながら探す。棚の端から、全てを。
でも見つからない。探していたものが、ない。全てのデータが正常、適正、異常なし。


「おい柳!何なんだ一体」

「あ、ああ……すまない、何でもない。気のせいだったようだ」


データは以前と変わらない。何も変わらない。一年の頃からとり続けた部員の練習データには何もおかしなところがない。メニュー、練習時間、集中力、休憩の取り方。ではこのこみ上げる不満足さ、不快感、吐き気、嫌悪感、テニス部に対する負の感情は何だ。なぜ理由が分からない。データに現れていてもおかしくないのに、データが間違っていないならば俺が突然春の陽気に当てられておかしくなったとでも言うのか。


「気のせいのようだ」


原因は何だ。気のせいではない、だが気のせいと言えるほどの小ささ。得体の知れなさに全身の毛が逆立つようだった。

幸村に気づかれぬよう、身震いをする。

その日は暗澹たる気分を必死で押し殺して練習を終えた。急いで帰宅すると自問自答とデータの照合を真夜中まで繰り返した。いつだ。いつの頃だ。俺が自分でも気がつかぬうちにこのような感情を抱くようになったのは。最近の練習では部員の集中力がやや下がったように見える。だがそれはデータ上の誤差とも言える程度のもの。分からない。全く分からない。
まる三日経って、俺は一つの結論――結論とも言い切れぬ仮説に達した。きっかけは2月ごろ。新人戦の後あたりからだ。それは俺にとって、藤川優香を相当の程度恋うていた気持ちが変化した時期でもあった。


***


長崎由紀はためらいがちに、しかしはっきりと問うてきた。


「ねえ、三人とも、藤川さんのこと好き?友達としてっていう意味じゃなくて」


俺たちは顔を見合わせて、静かに視線を反らした。
少なからず好感を抱いていた。少なくとも1年のときは。藤川は美しくて、いつだって前向きで、俺たちの練習を支えとなっていた。テニスに対する情熱だって本物だ。俺だけじゃない、そのような感情を抱いている部員は多いだろう。かつての仁王や、丸井のように。
質問の答えを待ちながら長崎は何かを考えている。俺は彼女の様子を盗み見ながら、密かに驚嘆した。2月にあったテニス部の出来事といえば新人戦くらいだが、俺は確かにその後、藤川への思いがすっと冷め、半ば意図的に残った気持ちも捨てたのだ。今思えば自分の行動も釈然としない。論理的に説明できるだろうか。長崎はそんな俺の混沌を言い当てた。偶然かもしれないが、ときどき彼女は鋭いことを言う。




長崎由紀に目を留めたのは全くの偶然だった。女子テニス部のコートに張り付いている彼女が美術部であること、女子テニス部員と仲の良いこと、練習風景を題材に絵を描いていることくらいは知っていた。しかしそれ以上に俺の興味をそそるものもない。
だがあの日コートへ向かう最中、重苦しい空気を振り払うように頭を振ると、目の端にちらりと鮮やかな色彩が飛び込んできた。ほんのりとした桜とは異なる強烈なそれの正体を確かめようと首をひねった俺が見たものこそ、彼女が一心描いている絵だったのだ。

(精市。あれを見ろ)

俺と同じく重い空気を纏っていた幸村はのろのろと頭をもたげ、足を止めた。女子テニス部の練習風景。汗を飛ばしてラケットを振り下ろす様子。インパクトの瞬間。必死にボールを追う後ろ姿。描かれていたものは何てことのない運動部ならどこにでもありそうな風景だった。自分たちも間違いなくそのように見えるはずの風景。なのに何故だろう、今見るとどうにも苦々しさが舌にじわりと沸いてくる。
モデルになっているのがたとえ女子テニス部ではなく男子テニス部だったとしても、彼女は同じような明るい絵を描くのだろうか。彼女には同じように見えるだろうか。今の俺たちは、少なくとも幸村と俺から見た男子テニス部の練習風景は今や輝かしいとは言えないのに。

ただその時は、それ以上の関心を抱くことはなかった。俺は今、ファミレスで向かい側に座っている長崎をじっと見た。生まれも育ちも神奈川県、成績は良好、生活態度は真面目、部活は美術部、家族構成は父・母・姉。長崎由紀はごく普通の女子だった。特筆すべきことは特にない。よくいる中学生の一人。だが、彼女は俺たちの本質を見つけようとしている。
長崎の絵を見た数日後、幸村は青ざめた顔をして俺の元へ来た。彼女に言い当てられたと言う。『男子テニス部とマネージャーの間で何かあったのか』とごく自然に聞かれたのだ言う。そのときも俺は驚愕した。

(蓮二、彼女は俺たちの何かを知っているんだろうか)
(……分からん。美術室で話を聞くと言ったな、俺も同席していいだろうか)
(たぶんね)

なぜマネージャーに関することだといい当てられたのか。俺でさえ藤川がこの問題に絡んでいると言い切るほどの確証はないというのに。まだ分からない。なのに彼女はなぜそう思ったのか。彼女は何を考えたのか。なぜだ。何を、知っている。

それまで彼女は俺にとってただの「事実の一片」だった。女子テニスの絵を描いている女生徒という平坦で灰色の事象にすぎなかった。だがそのときから彼女は急速に生き生きと色味を帯びて、何か知っているのではないかという期待とともに彼女本人への興味も生まれる。よく調べてみると、なかなか面白い。趣味が幸村とかなり被っている。植物が好きで、詩集をよく読み、絵画が好き。異なるのはテニスを初めとしたスポーツへの姿勢くらいだろうか。しっかりしていて大人びた性格でもあるらしい。かなり幸村と合うのではないかと予測を立てたのだが、俺が思った以上に速いスピードで二人は親しくなっていった。



話し合いが一旦止まったところで、俺は食事をする手を止めた。ノートを開いて鉛筆を出す。この件には関係ないが、俺の性がうずいて好奇心が止まらない。


「ところで、一つ聞いてもいいか」


長崎と精市の顔を見ると不思議そうな顔をしている。さあ、どういう答えが返ってくるか。答えの確率予測を立てたいところだが、あいにく今はまだデータが足りない。


「精市と長崎。お前たちはどういう関係なんだ。よく一緒に帰っているようだが付き合っているのか」


二人は顔を見合わせた。どうやら、まだそこまでは至っていなかったようだ。俺はふむ、と言ってノートに書き込む。まだ友人、という程度か。長崎には遠慮が見られる、親友というほどでもないのだろう。想像以上に浅い。テニス部の問題が大きい今は関係が進展しなくても当然かもしれない。
隣で弦一郎が頭をひねっている。そのうち説明してやろうと思いながら、俺は食事を再開した。


***


長崎が帰った後も、俺たちは話し合いを続けた。問題の本質を考えることと実際に行動を起こすことは別だ。どう動くかは俺たちテニス部内の問題で、この三人がなんとかしないことには解決しない。


「どうする、精市、蓮二。まだ何が何だか分からんが手をこまねいているわけにもいくまい」

「情報不足が問題だ。このような気持ちを抱えているのが俺たちだけなのかそうでないのかも分からない。集中力の低下の原因を探るにしても、どちらにせよ内部調査が必要だろうな」

「それは俺がする。部員に様子を聞くなら部長の俺がやるのが当然だ」

「む、三人で手分けをした方が早く済むのではないか」


俺はノートを開いて、トン、トンとえんぴつで余白を叩いた。ノートを見たところで何もヒントは書いてはいない。だがこうしていると、ともすると荒れそうになる心が凪いだ。今しなければならないことを冷静に分析する。問題は解決しなければならない。だが解決に夢中になって他のことがおろそかになるのも避けたい。


「いや、どういうやり方にせよ批判がないとも限らない。精市が矢面に立った方がいいだろう」

「うん。弦一郎と蓮二は中立的に、部員と俺との緩衝材になってくれ。頼む」

「分かった、部員との仲立ちをすれば良いのだな。だが部員とお前が対立することになるとも限らないし、対立するにしても手を打った後だろう。それまではどうするのが良いだろうか。今まで通りのふりをするのが最善か」


頼む、と力強く言った幸村はなんともりりしい顔をしていた。元々責任感が強く男らしい性格ではあったが、古風で全面的に力強さが出ている持つ弦一郎と並ぶとその男らしさがかすみがちになる。だが本質的に言えば、俺たち立海男子テニス部の中で一番男気のあるのはこの幸村だったなと再認識させられる。今後問題の解決のために動き、そしてそのせいでどんな批判を受けようともすべてを自分一人で受け止めるつもりなのだ。
ただの覚悟ではない。その上、確かに三強全員が非難される立場につくよりも、幸村一人に批判を集中させて俺と弦一郎が説得に回る方が効率的だ。その分、幸村の精神的な負担は重くなるだろうと分かるが。


「そうだな、俺もそう思う。精市は内部を探る。弦一郎と俺は今まで通りで部長が動けない分をフォローしつつ、2、3年の練習の統率と1年の指導。それでどうだ」


弦一郎も精市も、頷く。何も分からぬ、唐草模様のように絡まり合ったものをほぐして、とりあえず目処を付けるところまでは来た。まだ何も進んではいない上に状況がどちらへ転がるかは分からない、だがただおろおろと右往左往しているよりはずっとましだ。
気がつけばもう、桜の葉がますます濃くなる季節になっていた。


(20110112,続く)

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