七色の雲 | ナノ

「よし、できたあっ!あと一個。優香と由紀ちゃんはどんな感じ?」

「さすが夏美、上手い!私あとちょっと」

「私も。でもごめんなんか字が微妙なことに」

「どれどれ、この夏美サンに見せてごらんなさーいっ」


私はがっくりと肩を落としてハイテンションな高橋さんにリストバンドを渡した。特に裁縫が苦手なわけではないけれど、刺繍なんて全然したことがないしダメだ。それは藤川さんも同じだったようで彼女が丸井くんの分を、私が幸村くんの分を四苦八苦しながら縫う。


約束の日曜日、つまり今日の朝から三人でスポーツ用品店を何軒か回ると、人数分の黒いリストバンドはあっさり確保できた。刺繍糸も問題なく購入し、近くの高橋さんのうちに行く。残るヤマは字の刺繍だった。
糸で書くのは「必勝」と小さく本人のイニシャル。イニシャルはともかく、漢字はとんでもなく難しい。だが高橋さんは私たちが一人分を終える前に、なんと全員分のイニシャルと残りのレギュラー分の「必勝」を刺繍しおえた。昔おばあちゃんに習って以来得意だったとか。……私と藤川さんが不器用なのか高橋さんがすごいのか。


「なんだ、優香も由紀ちゃんも上手いじゃん。全然問題ないよ」

「う、ありがと」


確かに初めてしては上出来かもしれない。でも売り物みたいな高橋さんの刺繍に比べるとどうしても見劣りする。仕方ないのだけれど。


「二人とももうちょっとだね、頑張って。……ね、由紀ちゃん、この後空いてる?」

「うん?うん」

「お、じゃあさ、テニスしない?」


高橋さんと藤川さんが顔を見合わせて、なぜかニヤリと笑った。

それからは怒濤の展開で、刺繍糸の始末を終えた後、何を急いでいるのか藤川さんにせかされ着替え、今はもう隣を歩く二人は笑いながら楽しげに石段をのぼる。一方私は妙に緊張して、右手のラケットをぎゅっと握りしめた。
今までテニスコートに足を踏み入れたことはない。スポーツは不得手だし、そもそもジャージもラケットもない。誘いにためらっているうちに「ジャージ二組持ってきたよ」「ラケット、私のが二つあるから一個貸すね」など妙に用意のいい二人に押し切られた。
私、なんでジャージで屋外テニスコートに向かってるんだろう。少し不安だ。テニスをすることが。自分の運動神経でついて行けるのだろうかという不安もあるんだけど、それとも違う不安が心臓で渦巻いている。でも確かに嬉しくはある。教えてくれるんだって。二人とも優しい。

石段を踏んでいる間に、私はふと、上のテニスコートから小さく聞こえる声に意識をとめた。幸村くんに似ている。今日はオフの日だからいるはずなんてないのに、こんなときにでも彼と勘違いしそうになるなんて、そんな自分に呆れて顔が熱くなる。恥ずかしい。
そういえば、前に幸村くんにテニスを教えてあげようかと言われたことがあった。そのとき私は固辞、したんだっけ。幸村くんが私なんかにテニスを教えるなんてもったいない、全然できなくて彼はつまらないに違いないとか、私の力じゃ教えがいもないだろうとか、そんな理由がぽろぽろ頭に浮かんで断ってしまった。それだけじゃない。コートに入ってはいけない気がした。ずっと私はコートの側にいて、でもコートの外から彼らを見続けた。そこは私にとって一種の聖域で、けじめのラインで、少なくとも私の友人のように真剣にテニスをしない人が入って良い物なのか、わからなかった。彼らに踏み込みすぎてしまうんじゃないか、そんな恐怖感もまた。

でも、今回私に教えてくれるのは高橋さんと藤川さんだ。それならテニス部に迷惑をかけることも、邪魔してしまうこともないに違いない。


そう思ったのに、いざコートに着いてみるとそこにいたのは本当に幸村くんだった。


***


試合中にも見えないのに柳くんは幸村くんに勝利宣言をした。そして二人はにらみ合う。喧嘩でもしたのかとぎょっとして彼らの様子を伺うが何も分からない。高橋さんと藤川さんは……この不穏な空気をいち早くなんとかできそうな二人は、今日に限っては何も言わない。気がついていないはずはないのに、なんでだろう。どうも状況を飲み込めていないのは私以外には真田くんだけのようだ。

状況は突然変化した。柳くんが帰ろうとして、それをピンク色の包みを持った幸村くんが追いかける。何かを話している。私のところへ、さきほどまで柳くんの側にいたはずの藤川さんが走って寄ってきた。


「はい、どうぞ」

「これは?」


彼女は私の顔をのぞき込むと、悪戯の成功した子供のようににんまりと笑った。手には茶色の包み紙。それは手のひらに収まるサイズで、何だろう、軽い。藤川さんは特有の大きくて綺麗な目を片方、ぱちっとつぶってみせた。


「由紀ちゃんが刺繍した、精市用のリストバンドだよ」

「えっ、リストバンドは夏美ちゃんがまとめて預かってくれるって話じゃ」

「いーのいーの夏美も知ってるし。先に渡しちゃいなよ、特別に!部長だし!」


押しつけられたその包みを受け取ると、彼女は空いた手でぽん、と私の肩を叩いた。そして「じゃ、後は頑張ってね!」とさわやかな笑顔で言い残すとダッシュで私の背後にある石段を下りてあっという間に視界から消える。何、どういうこと。テニスを教えてくれるって言っていたのに。混乱しながら夏美ちゃんの方を見ると、彼女は私と同じように混乱中の真田くんをぐいぐい引っ張ってこちらの方へ連れて来ていた。目があうと、彼女もまたにんまりと笑って私の横を抜け、真田くんごと階段を駆け下りる。幸村くんと話し終えた柳くんもこちらへ歩いてきた。彼は私の側を通るとき、ぼそりと「俺の勝ちだ」と言う。

その場に残されたのは手で顔を覆った幸村くんと、何が起きたのか未だに分かっていない私。どうしよう。私も帰るべきだったってこと?でも頑張ってって言われたし、あれ、テニスを教えてくれるんじゃなかったの。そもそも頑張ってって何を。

幸村くんは空を仰いであーあ、と息を吐く。見つめていると、顔をこちらに向けた彼と目があった。


「テニス、しにきたんだろ?俺が教えるよ。おいで」

「えっ、でも」

「嫌かい?俺だと」


慌てて頭を振る。むしろ嬉しい。彼が少し困ったような表情をしているのに気がついてどきっとする。私今、何を言った。せっかく教えてくれるというのを断ろうとしていなかった?それは、遠慮しているようで実は相手を傷つけてはいないか。
素直にコートの中に入ると、彼が近寄ってきた。


「まず、ラケットの握り方はこう。うん、もうちょっと下を持って……そうそう」


彼は後ろから私を抱えるようにして手を伸ばし、文字通り手取り足取りテニスの正しいフォームを教えてくれる。
せっかく教わるんだから集中しなきゃ。そう思っているのに幸村くんの体が密着しそうなほど近くて全く集中できない。できるかなという不安に加え、どんどん大きくなる自分の鼓動が聞こえてしまうんじゃないかという不安も加わって段々自分が何をやっているのか分からなくなってくる。ラケットを持つ手がじわりと汗ばむ。


「何かぎこちない気がするけど、どうしたの」

「その……ゴメン今の状態が恥ずかしい」


消えそうな声が出た。腕の角度を直していた彼の手が、私の手首に添えられたまま止まった。私の心がまた、ざわめく。彼の低い声が耳元で聞こえるのも耐え難いけれど、沈黙も耐え難い。何か言ってほしい、言ってほしくない、離れてほしい、離れてほしくない。
たっぷりの沈黙の後、彼はぼそりと言った。


「抱きしめるのは大丈夫なのに?」


返す言葉がなくて絶句する。穴があったら入りたい。でもこの前の状況と今とじゃ何か違う。やっぱり顔が赤くなる。彼は私の手首に触れたまま正面に回って私の顔をのぞき込んだ。彼の目が見られなくてうろうろと視線をそらしたけれど、結局おそるおそる幸村くんを見る。


「側に居てくれっていうの、俺は本気だよ。からかっているようにでも見えた?」


彼の真っ黒な瞳に私の顔が写り込んでいる。力強い目線に息が詰まりそうだった。


「そのときに言ったよね。君がどうして人に踏み込みたがらないのかまだ俺には分からない、って」


私は黙って頷いた。人に踏み込みたがらない、確かにその通りだ。怖い。特に、テニス部に関することが。肯定的に考えられるようになった今でさえ、どこまでが自分の分相応なのかがときどき分からなくなってしまいそうになる。親しくはしたい、でも無遠慮で図々しいことはしたくない、その境目はどこにあるのか。幸村くんとの関係では、特に分からなくなる。


「君が話すのを黙って待っていようと思ったけれど、俺は俺なりに君の壁を一枚ずつ剥いでいこうと思うんだ。いいよね?」


彼はずっと左手で持っていたピンク色の袋を目の前であける。中から出てきたのは、派手すぎない華やかさのある花と蔦模様の透かしのような髪留めだった。既視感に目を開く。気のせいじゃない。見たことがある。私が好きなお店のものだ。欲しいなと思っていたもの。誰にもその気持ちを打ち明けていないのに、なんで、なんで幸村くんが。


「もらってくれる?」


私は息をのんだ。口を開いて、でも音が出てこない、出てくるのは空気だけ。どうしよう。遠慮すべきだとか、私にはもったいないとか、そんなネガティブな言葉が心に浮かんでは消える。私の卑屈な部分がそう言いたがる。でも、本当はそうじゃない、言いたいことばもそれじゃない。
しばらく髪留めをじっと見つめて、ようやく本音が転がり落ちた。


「嬉しい」

「よかった。もらってくれないんじゃないかと思って」


彼は安堵したように笑って「髪に付けるからちょっと動かないでね」と再び私の後ろに回った。その笑顔に胸が突かれる。そうか、さっきと同じだ。私はテニスを教えてくれるという幸村くんの誘いを断った。遠慮して相手を気遣っているつもりだったけれど、実は臆病な自分を甘やかしているだけで本当は相手を傷つけていたんじゃないか。これだって同じだ。私にくれると言っているのに、本当は私だって嬉しいのに、本音を言わずにただ壁を作ってばっかりで。
彼の指が私の髪に触れる。器用に髪をすくってまとめると、ぱちんと音をさせて彼は髪留めを固定した。


「うん、やっぱり。良く似合ってるよ」

「ありがとう。……ね、幸村くん、これ」

「うん?」


振り返って彼の目の前に、左手に持っていた包みを差し出す。何時間も掛けて不器用に刺繍されたリストバンド。茶色の包み紙から顔をのぞかせたそれを見て、彼ははっと息をのんだ。幸村くんの手の中に見える微妙な刺繍にいたたまれなさがこみ上げてくる。もっと上手くできたら良かったのに。ちょっとでも刺繍の練習をしておけばよかった。彼はじっとその黒を見つめている。なんて言われるだろう。


「これ、長崎さんが刺繍したんだ」

「うん、もっと上手く……」

「嬉しいよ、俺も」


彼は素早く左手にリストバンドをはめた。黒い色がレギュラージャージの黒いラインとよく合う。


「もうすぐ大会があるから、3人で男子テニス部全員におそろいのリストバンド贈ろうって話になって」

「長崎さんは俺以外のためにも刺繍したってこと?」

「ううん、私は幸村くんの分だけ」


一瞬残念そうな表情をしてから「よかった」と言った彼の笑顔に、別の意味で顔に血が上る。やめてほしい、ますますどこまで踏み込んでいいのか分からなくなる、と思うのと同時に、どうしようもないほどの喜びがあふれ出した。


(20120107,fin?)

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