七色の雲 | ナノ

トントントンと石段を踏む複数名の足音、女の子の話し声、気配。石段の向こうから顔をのぞかせたのは、とてもよく知っている3人だった。彼女が、いる。試合でほんの少しだけ乱れていた息がぐっと詰まる。来て欲しい。来て欲しくない。来ないでくれ。来て欲しい。柳が、俺は。会いたい、でも会いたくない今は、だって、ここには柳がいて、俺は今ようやく。視界の端にある木、木の下のベンチ、ベンチの上にある薄桃色のビニール袋がやけに存在感を放っているような気がした。あれが彼女に渡って欲しくない。柳蓮二の友人としてはそんなことを願うべきではない、それなのに。

石段を登り切ったところで俺と目があった彼女は、あ、と声をあげて立ちすくんだ。俺たちに気がついた夏美も大きな声であ、と叫んだ。そして、いつもよりもおどけて芝居がかった調子で言う。


「あっれー、三強がこんなところに!奇遇だね。何、もしかして幸村が練習試合に勝利したところ?」

「ああ。全く歯が立たないとは情けない。俺はもっと精進せねばいかんな」


真田は眉根に皺をよせた。夏美は真田に駆け寄って、苦笑いしながらぽんぽんと彼の腕を叩いた。固く考えがちな真田や柳生の思考をほぐすのは、いつだって夏美の明るさだったな、と以前のことを思い出す。精進するのは結構だが、八つ当たりのような試合でイライラをぶつけてしまったことを少々申し訳なく思う。優香は黙り込んだままの柳に話し掛けることにしたらしく、俺の横を走り抜けてそちらへ寄っていく。
俺はコートの入り口でなぜか固まっている長崎さんに向き合った。彼女は他の2人と同様、ジャージで手にラケットを持っている。体育の授業も別々だったから、思えば彼女のジャージ姿を見るのは初めてかもしれない。制服や遊びに行くときの服装とは違う。普段よりもリラックスしたような格好。運動するには普通の服装なはずなのに、その新鮮さにドキリとする。


「もしかしてテニスをしに来たのかい」

「うん。その、優香ちゃんと夏美ちゃんが教えてくれるっていうから……その」


彼女はもじもじしながら言う。俺は彼女を注意深く見た。一体どんな心境の変化があったのか知りたい。今まではテニスをしてみるかと誘っても、運動神経が悪いから、迷惑だからと彼女は断ってばかりいたのに。彼女はスポーツを見ることはそれなりに好きなようだがテニスをすることには興味がないと、ずっとそう思っていた。もしかして俺だからか。俺には教えて欲しくないのだろうか。
彼女は俺の考えを読み取ったかのように恥ずかしそうに付け加える。


「あの、ね。上手くできないだろうけど、でも、せっかくだからって」

「嬉しいよ、君が興味を持ってくれて」


いや、何も理由は聞くまい。どう言ってもコートの中に入りたがらなかった彼女がここまでこうして来てくれたのだ。最終的に彼女がどのくらいテニスを気に入るかは未知数だけれども、ラケットを手にしてくれただけでも喜びがこみ上げてくる。それでいい。少しでも、俺の人生と言ってもよいテニスを知って欲しい。彼女はずっとコートの側でテニスを見ていたけれど、それは「外から見たテニス」にすぎないから。実際にやってみて欲しかった、俺がいるコートで。

金属のように固くなっていた心がふわりと溶ける。だがその浮ついた気持ちは柳の言葉で一瞬にして沈み込んだ。背後から、彼らしい静かで低い声がはっきりとコートに響く。


「精市、俺は負けない」


振り向くと柳は真顔で俺を直視していた。彼はラケットを握りしめて口をぎゅっと結んでいた。俺も体の向きを変えて対峙する。間にいる優香は伺うように柳の顔を見ていた。困惑したように真田が声を上げた。


「蓮二、何を言っているんだ。幸村とお前の試合はもう終わって――」

「精市、この勝負は俺がもらった」


誰にも邪魔はさせない、そう言うかのように柳蓮二は強い口調で言い放つ。俺はうっすらと開いた彼の眼をにらみつけるように見返した。あくまでもお互いの表情は冷静に、でもこれはにらみ合いだ。さっきの台詞は戦線布告か。いや違う。それは彼の勝利宣言か。
一瞬にしてその場は異様な雰囲気に飲み込まれる。俺の柳の間にあるビリッとした空気を感じ取ったのか女の子たちは黙り込み、真田は「どうなっているんだ」とでも言いたげに俺を見る。

ぎりりと奥歯を噛みしめた。
本当に情けない。俺は今まで何をやっていたんだ。彼女を大事にしていたのは事実だ、だが本当は自分の気持ちに向き合うのを避けていたとも言えるのではないか?彼女が好き、だがどういう好きかは分からないなんて、もちろん彼女本人にそんなことを言ったわけじゃないけれど、でもどれだけ優柔不断で情けなかったのか。友人というなら真田や夏美だって友人で、でも俺は彼らに一度だってずっと側にいてほしいだなんて思ったことはなかった。彼らとはある時は支え合って、あるときは別々に、自由で好きに過ごせばいいと思っていた。

俺が彼女に側にいてほしいと思ったのは、彼女が俺の前からいなくなりそうだったから?じゃあずっとどこかにいると思えるような女の子だったら俺は側にいてほしいとは思わなかったのか?気が合うからか?趣味が合うからか?優しいからか?支えてくれるからか?家族みたいなものだからか?『人として好き』だからか?じゃあなぜ俺は蓮二の行動が嫌なんだ。蓮二は彼女のことが恋愛対象として好きで、それで。彼女を友人だと、人として好きだと言うならば柳蓮二の恋を応援したってカケラも問題ないはずだ、だが自分の体は拒否反応を起こす。

嫌だ。蓮二と彼女がそういう関係になるのが、嫌だ。彼にすまないとは思う、だが嘘はつけない。何度考えたか、昨日だってそうだ、でも結論は一つしかない。理屈じゃどうにもできないのだ。嫌だと、本心がそう告げる。

短く切っているはずの爪が手のひらに食い込んだ。
『この勝負は俺がもらった』か。この台詞を言う蓮二はいつだって勝利した。データを集め、冷静に分析し、どこまでも人の打つ手の先を読んで。

でも、もう俺は分かっている。自分のしたいことが。きっともう柳にも伝わっている。だからこうしてわざわざ勝利宣言をしたのだろうが。己の情けなさに反吐が出る、それでも、たとえあとワンポイントで俺の負けが決まるところだったとしても諦めるわけにはいかない。この勝負はまだ終わっていない。


「蓮二、それは俺の台詞だよ」


対峙したまま沈黙が落ちる。柳はふむ、と言うと、また黙り込んだ。女の子たちは何も言わない。にらみ合ったままで一向に説明を始めない俺たちにしびれを切らした真田がまっすぐに疑問を投げた。


「おい二人とも、ずっとおかしかったが一体何を」

「今日の練習試合は終わった、帰るか。コートは藤川たちが使うんだろう?」


柳は真田の言うことを全く聞かず、あっさり俺から視線を外すとコートから出る。ベンチに向かうと荷物を持ちあげ、ラケットバッグをいつものように肩にかつぐ。彼は俺の視線もものともせずに、そして汗を拭いたり飲み物を飲んだりすることもせずそこから離れようとした。芥子色のジャージが揺れた後に残るのは薄桃色。


「蓮二、忘れている」


俺はベンチに寄ってそれを拾い上げる。蓮二から彼女への、贈りもの。本当は渡したくない。彼から彼女に渡されるのは見たくない。だが卑怯なことをするつもりもない。そんなことをしたって何もならない。手にしたそれはとても重く感じた。それをつかんだまま走る。蓮二に追いついて背中に突きつけると、彼は立ち止まった。そしてゆっくりと振り返る。肩越しに視線が合う。


試合前から真顔に戻っていた蓮二が、かすかに笑った気がした。





「何を言っているんだ、精市。それは『お前が』買ったものだろう」

「なに」

「『お前が』選んで、『お前が』買ったものだろう」


言葉に妙なニュアンス。『お前が』選んで、『お前が』買ったもの。予想外の言葉を理解できなくて思考が固まる。確かに選ぶのは手伝ったし、代金も貸した。だが、それは――。

何か心の底の固いものが大きな音を立てて崩れた。固いつぼみが朝に一斉に花開くように、心のどこかにひっかかっていたものがするすると溶けていく。
柳の言葉、思い返せば最初から不自然なことばかりだった。俺と長崎さんはただの友人だとわざわざ強調した。プレゼント選びに付き合えと珍しいことを言った。あまつさえわざわざ俺に選ばせた。そんなこと、もし本気で勝利を狙う蓮二だったら絶対にしないはずだ。俺のような恋路の邪魔になる「危険分子」には見えぬよう水面下で動くはずだ。なぜ、わざわざ俺を巻き込んだのか。


「さあ、『俺たちは』帰るか」

「む、なぜ高橋と藤川が帰ろうとしているのだ。練習試合は終わったからコートは空くぞ。帰るのはむしろ俺と蓮二と幸……むぐっ」

「なに言ってるの帰るのは私たちよ、さあいくよ真田!」

「どういうことだ高橋待て引っ張るな、ぬうっ」


はっとしてあたりを見渡す。長崎さんのことを見ると、彼女には優香がこそこそと何かを囁いていた。優香はにんまりと笑い、困惑した彼女の背中をぽんぽんと叩くとダッシュで石段を下りてあっという間にコートからは見えなくなった。真田は夏美にぐいぐい腕をひっぱられ帰り支度もそこそこに石段の向こうへ消えていく。
3人を見送った蓮二もまた石段に足をかけ、だが一歩階段を下る前にくるりと振り返った。彼は言う。いつものように、いつもの調子で。そのくせ、妙に楽しそうに。


「俺は嘘はつかない。だが一つだけ訂正しよう。お前たちは『今はまだ』ただの友達だ」


蓮二はきびすを返すと、「俺の勝ちだ」とつぶやいて今度こそ石段を降りて行った。俺と長崎さんを残して。トントントンと規則正しい足音がして、長身の彼もついにコートから見えなくなる。


俺は片手で顔を覆った。
ずっと浮かれていた蓮二。勝負と、勝利宣言。前に「藤川も応援してくれる」と言った意味。示し合わせたように長崎さんを残して去った優香と夏美。そして――彼は一度だって、長崎さんのことを好きだとは言わなかった。なぜそんな行動を取ったのか。俺の手の中に収まっている桃色の袋を見れば、もはや考えるまでもなかった。


「……やられた」


確かに、俺の負けだ。空を仰いで大きく息をつく。全く、こんな肝心なときに限って俺は。本当に情けないことだ。


(20120105,続く)

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5話じゃ終わらなかった!

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