七色の雲 | ナノ

緩やかに流れる水のように、日々の生活は少しずつ変化する。あの日に全てが変わったわけではない。しかし私の気持ちのありようはぐるりと変わり、考え方も見方も変わり、まるで世界が新しく生まれ変わったような、急変したような、もしくは自分の周りに掛かっていた薄い膜が一枚はがれたかのような――そんな気分だった。大きな変化は何もない。しかし確実に変わった。私はこの世界に、いてもいい。

絵を描き終えて幸村くんと話をした日の翌朝、女子テニス部の友人に挨拶をすると彼女は不思議そうな顔をした。


「どうしたの、由紀。何かいいことあった?」

「うん、まあね」


返事と一緒に笑い返して、でも何も詳しく説明しなかった。幸村くんからもらったこの気持ちはなかなか表現しにくい。先に言いたいこともある。


「ねえ、キコ。今まで、ごめん」


この子と出会ったのは1年生のとき。「前世」から来たばかりで混乱していた私は必死で自分に落ち着け落ち着けと言い聞かせ、中学生らしくふるまおうと努力したが、その反動で「誰とでも仲良いが誰とも仲良くない」状態になりかけた。様々ノリ良く話はするものの自分の本音を一切見せなかったから、同級生たちと特別な深い関係なれるはずがなかったのだ。孤立もしていないが、誰ともつながっていない。そうなってもおかしくなかった。

ところがそうならなかったのは、ひとえにこの子のおかげだ。彼女もまたある意味「誰とでも仲良くできるが誰とも特別な関係になっていない」子だった。彼女はあっけらかんとどんな女の子の輪にも入る。そうしてどのグループにも所属していなかった彼女は何故か私を好いてくれた。私にとっても、怖じ気づかずしかし人の心に土足で踏み込むようなことをしない彼女が好ましかった。


「……へ。何が?」

「もうキコって呼ぶの、やめる」


ある日話をしていたときに、私は思わず彼女のことを「キコちゃんみたい」と言った。彼女は屈託なく、じゃあそう呼んでくれてもいいよ、と笑う。そして私は特別な親しみを込めて彼女をキコと呼ぶことにした。それは、彼女とは何の関係もないあだ名。むしろ私と関係している。彼女は「前に近所に住んでいたなじみお姉さん」にとてもよく似ていた。そのストレートな物言いとそのくせきちんと人の気持ちをくみ取る優しい性格が。そのお姉さん・キミコさんのことを、私は小さいころからキコちゃんキコちゃんと呼んでよくお世話になっていた。
彼女に初めて会ったとき、どこか親しみを覚え心を開くことができたのはそのせいかもしれない。


「どうして?別にそれでいーのに」

「なんかさ、本名で呼びたくなったから。だめ?」


今でも過去を思い出す。ときどき泣きそうになることもある。それでも「前世」を懐かしみはしても、もう戻りたいとは思わない。想い出は捨てないけれどわざわざ口にすることもない。それに何より彼女をキコと呼ぶことは――まるで彼女とキミコさんを重ね合わせているようで失礼な気がした。彼女には彼女の名前がある。


「ダメなわけないじゃん。……ねえ、由紀」

「うん?」


彼女は私を見つめる。しばらく顔をつきあわせて数拍の沈黙。その後ようやく彼女はしみじみとつぶやいた。


「由紀、落ち着いたね。雰囲気変わった」

「あれ、浮ついてた?最近」

「いや、そういうんじゃないけど、特に安定しているというか」


落ち着いていると評される自分がそのように言われたのが意外で、私は首をかしげて聞き返した。彼女はうーん、えっとね、なんていうか、などと試行錯誤しながら正しい表現を求める。


「ああ、そうだ。『居心地が悪そう』だった!前は!」

「へ」


更に想定外の言葉が彼女から飛び出してきて、ぎょっとする。彼女はうんうんと頷いて、そうそうまさにこの言葉がぴったり、などと自画自賛している。


「あの……このクラス、すごく居心地いいよ?私にとって」

「うん、知ってる。でも居心地悪そうだった。なんかね」


自分はクラスメイトの中に入っていないような、どこか一枚隔てたところから見物せざるを得なくなっているような、自分を場違いだと思っているような、そんな。


彼女の説明を聞いて、はっと息を呑んだ。そう見えていたのか。そんなつもりはなかったのだけれど。でも彼女の言うとおりなのかもしれない。周りは優しかったのに、それを受け入れられなかったのは何より自分のせいなのだ。居心地のよさは感じていても、心の奥底では「私のいるべき場所はここではない」と思ってはいなかったか。頭のどこかでテニス部の彼らとは本当の意味で仲良くはなれない、なってはいけないはずだと思っていたように。


「由紀、今は静かに安定してる感じ。何かあったの?」


心がじんわりと熱くなる。幸村くん。彼のおかげだ。私はここにいていいのだ。彼の側にだっていていいのだ。そう思える。今度こそちゃんと顔をあげて、前を向ける。
答える前に彼女は私の顔を覗き込んでニヤリと笑った。


「もしかしなくても、幸村くんと付き合うことになった?」

「えっ!!」

「ほれほれ、どうなの?」

「……そもそも幸村くんとはそういう関係じゃないよ」

「ええっ!!」


びっくりして勢いよく否定すると、今度は彼女が驚いた。私たちは絶句して、口をぽかんと開けたまましばらく見つめ合った。私は妙な汗をかいた。付き合うことになった、って、なんでいきなりそうなるんだ。幸村くんのことは好きだけど、そうだけど、まさかそんな。一方、目の前の彼女もまた何を想像していたのかあっけにとられている。
沈黙が落ちる。十二分にお互いを見詰め合った後、彼女はぽつりとつぶやいた。


「幸村くんって結構チキンなのね」

「なんでそうなるの!?」


思わずつっこみを入れると、彼女はカッと目を見開いてこぶしを握り締めた。


「だって!だって!デートだってしてるんでしょ、いつも一緒に帰ってるんでしょ!?それってもうそういうことしかないじゃない」

「いや違うってば!確かに遊びに行ったことあるけど一回だけだし、一緒に帰ったこともあるけどそれも事情があったからで」

「えっそうなの?もっと距離が近いものだと思ってたけど。幸村くんって由紀のこと好きそうだしさ」

「そんなことはないよ、ただの友達」


私は幸村くんのことが、好き。でもそれがどういう好きかは分からない。少なくとも、全てを投げ打って熱烈にいつも一緒にいたいと願うのが恋ならば、これはちょっと違う気がする。それに何より、彼はそんな風に思ってはいないだろう。
彼女はいかにも腑に落ちないというような顔で、思わず私は苦笑した。違うんだよ。そんな関係じゃない。そういう意味では、彼は私のことを好いてなんかいない。それに言ってたじゃないか、彼はもともと藤川さんのことが好きだったのだ。ああいう可愛くて元気な子がタイプなんだろう。私は藤川さんとは正反対だ。かわいげもなく、元気でもなく。本当に苦笑するしかない。

彼女は今度はきっぱりと言い切った。


「いいや、やっぱり幸村くんはチキンだ!」


……あの彼をそんな風に言えるのは、きっとこの子だけだろう。


***


すっかり生まれ変わった気分でいたのだけれど。


「長崎さん!ようやくつかまったー、幸村くんのことなんだけど」

「付き合ってるんでしょ?デートしたんでしょ?」

「昨日一緒に帰ってるの見たってD組の村川くんが、ねえホントのこと教えて!」


実は「このこと」については何にも解決していなかったことに思い至ったのは昼休みのことだった。知っている子も知っていない子も含めて10人くらい。私は今、廊下のど真ん中で堂々と女の子に囲まれて、問い詰められている。


「ちょっと待って、付き合ってな」

「またまたー。隠さなくてもいいじゃないっ!」

「本当のこと言ってよー」

「どういうところが好きなの?いつ付き合い始めたの?」


彼女たちの中ではすっかり私と幸村くんは付き合っていることになっていた。もうそれは確定事項らしく否定が否定の意味をなさない。彼女たちは幸村くんが好きなのかそれとも恋バナが好きなのか、はたまたただ気になるだけなのかよく分からないがともかく弾丸トークのごとく質問を飛ばしてくる。しかし、答えようがない。だって私は幸村くんと付き合ってないんだ。幸村くんは私のことが好き、ではない。
答えに詰まっていると、ずいっと一人、クラス委員の女の子が前に進み出た。


「まあまあみんな、落ち着いて。そんなに急いだ質問することもないじゃん」


さすが面倒見のいい彼女だけあって、みんなをなだめてくれるらしい。私がほっと安堵すると、彼女はにこにこと私に笑いかけながらとんでもないことを言い放った。


「ほら、ゆっくり愛を育んでいるのよ。ね、長崎さん?」


彼女はそうよねえ?と得意満面に笑い、女の子たちはああなるほどと納得したようにうなずいた。
私は、絶句した。


(20111202,続く)

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