七色の雲 | ナノ

お前の姫は、奥深くにある自分の城で、目覚めるときを待っている。




走る走る。校舎の中を。昇降口から自分たちの教室、さらにその先へ。幸い先生には会わなかった。荷物は途中で通りがかったロッカーの隅に置いてきた。軽くなった体を動かして走る。最初はなんとなくぎこちなかった体は徐々に滑らかになり、本調子からは遠いまでも俺を先へ先へと行かせてくれる。休日の夕方だからか、誰にも会わない。ただ響くのは俺の足音。久しぶりの空気は懐かしい、でも今はもっと会いたい人がいる。

はずむ息の中で、にやりと笑った柳を思い返した。情報をプレゼントするだなんてやるじゃないか。そして柳らしい。教えてもらわなかったら、彼女に会いに家へ行ってしまうところだった。

走る、走る。どんどん奥へ、校舎の端へ。

俺の姫。俺の白雪姫。彼女はお姫様のように黙って幸せを待つタイプじゃない、それでも最近の彼女はまるで眠る白雪姫だった。そうさせてしまったのは俺でもある。彼女は自分の気持ちをあまり話さなくなった。俺の弱音を聞いたり、外で起きていることを知りたがる俺の要求に応えるだけで。彼女は毎日、俺の側にいた。俺の病気について何も感じなかったはずはない。彼女は優しい。彼女は彼女なりに苦しかっただろう、ずっと心配してくれていた、それなのに彼女は俺だけではなく誰にも何も言わなかったという。自分の胸に沸く負の感情を毒林檎のように飲み込んで、彼女は黙ったまま静かに眠っている。早く目を覚まさせてあげなければ。

走る走る。早く、早く、もっと早く。校舎の端に近づくにつれ、徐々に廊下には机や椅子が積まれるようになってきた。まるで倉庫のように。窓も少なくなり、掃除もそれほど行き届いていない、少しほこりっぽい。目当ての教室が見えた。蛍光灯がついているのがわかる。いた。いる。そこに。



俺は勢いよく扉を開けて、美術室の中へ飛び込んだ。



***



また春が来て、私は三年生になった。幸村くんと出会ってからほぼ一年が経って、私は彼と同じクラスになった。しかし彼は三年の教室へは一度も来たことがない。私たちが出会ったテニスコートの側に立っても彼の姿はどこにも見えない。
春が来て、幸村くんは暗くなった。「テニスは二度とできないだろう」と医者が言っているのを聞いたと言う。テニスの話もしなくなった。いろいろな問題を抱えた二年の春も彼は物憂げだったが、今年のそれは去年とは比べようのないほど重いものだった。彼は、生きようとしていた。それでも人間には想像力がある、それが余計になることもある、テニスができない未来が彼にとってどれほど苦しいものであったろうか。頭で分かっていても私には欠片も理解できていないのだろう。

私には、何もできなかった。あれほど私を助けてくれた彼に、私ができることは何もなかった。

平日は毎日、放課後にノートを持って彼の元へ通った。休日には彼が好みそうなものを探した。画集や名画のポストカード、詩集。植物の写真を撮りに行ったり、美術館でパンフレットを買ったり。少しでも痛みを感じる時間が減らせるように。それでも、そんなものは何にも役に立ちはしない。

私ならテニスができなくても問題なかったのに、なぜ病気になったのが彼だったのか。そう思っても彼に代わることもできない。病気を治すこともできない、それどころか彼の痛みを救い上げることさえもできない。言葉も出ない。だって、いったい彼に何が言えただろう。頑張って?もう彼は頑張っている。それ以上どう頑張れというのか。大丈夫だよ?どうなるか分からない以上無責任だろう。前向きに生きよう?希望を失った人間に、なんと軽い言葉なのか。そんな言葉で希望が戻るはずはない。

言葉をかけることさえできない。ただ側にいて、休日に探したものを渡したり、ノートを見えて授業で習ったところを教えたり、できるのはそのくらいで。

幸村くんが入院するのだと、そのことを『知っていた』のだと思い出したのは彼が駅のホームで倒れてからだった。彼は関東大会には出られず、だが手術も成功しテニスコートに戻ってこられるようになるということも。『原作』ではそうだったと、薄れたかすかな記憶が呼び覚まされた。でも、その『知識』だっていったい何の役に立つのだろう。これからどうなるかは私にも確信が持てず、私の知識には根拠がない。





今日は幸村くんの退院の日だ。彼は今日から、ようやくコートに戻れる。どれほど望んだことか。ようやくこの日が来たのだ。彼は今頃テニス部の元へ行っているに違いない。
休日ゆえに部活もなく家にいた私は、朝から居ても立ってもいられず学校の美術室に来ていた。退院は家族が付き添って、そして退院祝いをするだろう。その後はテニスコートに行って、彼はテニス部のみなに会うだろう。私がもし会うならその後だ。遠めで様子を見て、彼がテニス部員たちと一緒に帰り、退院祝いでもやるつもりなら私はそっと帰ろう。月曜日になれば彼は学校に来るのだからそのときに会えばいい。もうすぐ全国大会だ。テニス部員たちに、普段以上に彼は必要とされている。

美術室で悶々と絵を描いていると、テニスボールの音が止んだ。もうそろそろ練習が終わるころだ。しばらくしたらそっと様子を見に行こう。元気な彼の姿が見られればそれで満足だ。





もうそろそろ後片付けも終わるころだ、様子を見に行こうと立ち上がったとき、私は遠くで誰かが走る足音を聞いた。休日に校舎を慌しく走る生徒がいるとは、珍しい。だいたいは外に運動部員がいるくらいなのに。その足音はみるみる近づいてきて――バン、と勢いよく扉が開いて、誰かが飛び込んできた。

彼は息を切らしてその場に立ち止まった。手には何も持っておらず、肩口まで伸びた髪は乱れていた。立ち尽くして、私たちは黙ったまま見つめあった。
口を開いて何かを言おうとしたけれど、何を言ったらいいものか。ためらって、ようやく出てきたのはまるで人事のような口調だった。何を言ったらいいものか。どの感情を出したらいいのか。胸では感情の嵐が暴れているのに、ふさわしいのが何なのか、何も分からない。


「退院おめでとう」


彼は言葉を言わず少し頷いた。表情をあまり変えず、肩で呼吸をして私を見ていた。どうしたらいいのだろう。何を言ったらいいのだろう。何かを言わざるを得ず、でも言うのが怖い。


「良かったね、またテニスができるようになって、すごく嬉しい」


彼はふう、と息を整えるとこちらへ向かって歩いてきた。4メートル、3メートル、2メートル。彼はまっすぐよそ見をせず私を見ている。

この場面、見たことがある。既視感に私は石像のように動けなくなった。そうだ、あれは去年の今頃、いやもう少し前か、夏の大会が始まる前。彼は私が描いたテニス部の絵を見に来て、それで――

1メートル、0.5メートル、そして、さらに近くへ。彼は私の両腕をつかんだ。あの時のように。


「ありがとう。でも違う、そうじゃない。別に言うこと、あるだろう」


彼はそのまま私の後ろに手を回した。


「そうじゃない。俺が入院している間、そして今、何を見て、何を感じているんだ。そのまま話してごらん」


別に言うこと、というのは何だろう。言いたいことはいっぱいある、感じてきたものだっていっぱいある、でもそれは口にしてもどうにもならないことだし、ずっと戦っていた彼に言うようなことではないだろうと、そう思っていた。


「ほら、言ってご覧。何でもいいから、君の言葉が聞きたい」


穏やかな声と熱に押されて口を開く。とりとめのない言葉が、どうしようもない言葉が、でも間違いなく私の心を宿した言葉がころがり出た。


「今年から、切原くんに英語教えたりしているんだ」

「うん」

「預かった観葉植物、少し大きくなったよ」

「うん」


本当に、とりとめもない、まとまりもない、それなのに私の口は止まらない。


「最近ね、柳くんにお前は白雪姫だって言われるんだ。意味が分からないよ」

「うん」

「さっきの退院おめでとうも本気だよ」

「うん、知ってる」


幸村くんはさっきとはうって変わって、うん、うんと相づちを打つ。幸村くん、幸村くん、あのね、あのね。聞いて。私は、こんなことを見てきたんだよ。幸村くんが入院している間に。ずっと言ってなかったけどね、私。
突然、言葉が出てこなくなった。言いたいことはいっぱいあったんだよ、ずっと。でも、なんでだろう。確かにそこにある幸村くん、彼の存在を伝える熱はいつだって私の心を溶かしてしまう。言葉になりそこねた思いが発熱してこみ上げる。視界がゆらりと揺れた。
彼は私の背中をゆっくりとなでて、耳元で優しく言う。


「分かってるよ。君のことだから、俺の方が大変なんだから何にも言うべきじゃないって思ってたんだろ。ずっと我慢してくれてたんだろ、俺のために」


違う、そんなんじゃない。だって何もできなかったんだもの。私は知ってる、幸村くんは精一杯病気と戦っていて、真田くんや柳くんもまたテニス部を守ろうと戦っていて、あの切原くんだって彼なりに部長の不在を埋めようと奮起していたのだ。どうして自分のことなんて考えられるだろう。どうして自分のことなんて話せるだろう。辛いのは私じゃないのは確かだ。

でも。

涙がこぼれて、ぽつんと幸村くんの肩に落ちた。一回落ちると止まらなくて、ぽろぽろとそれは流れ落ちる。声はでなかった。ずっと。でも、でも、ずっと言いたかったのだ。ずっと。


「幸村くん、私」

「うん?」



怖かった さびしかったよ ずっと

うん 俺もだよ


彼はようやくふっと笑って、ぎゅっと腕に力を込めた。心配かけてごめんね、と言う彼の肩に顔を埋める。その変わらぬ彼の香りに気持ちが満たされていく。心配、したよ。こうしたかったよ。怖かったよ。寂しかったんだよ、ずっと。


「幸村くん」

「うん」

「おかえり」


こつん、と頭と頭がぶつかる。彼の髪が私の顔をくすぐった。彼は間違いなくそこにいる。ただいま、と言った彼は、濡れた私の頬に唇を寄せた。


(20111113、fin)

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朔良さんリクエストありがとうございました!

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