ガンコナーの声(30万打企画) | ナノ
真偽の狭間を過ぎる影

「夏目、行き過ぎているぞ」


ぼんやりと考え事をして教室へ帰るうちに、廊下を行き過ぎそうになる。教室から届いた柳くんの声が私の足を止めた。確かに空気の線をふるわせて伝わってくる振動。低く淡々としていて、しかしまろやかな声。
体をくっとたぐり寄せられるかのように、何かを感じるまでもなく私は教室の戸に引き寄せられた。ふらふらと声のする方へ歩み寄る。

教室の扉に触れたところで、はっと意識が覚醒した。まるで私、甘い香りにさそわれた虫みたいだ。深みにはまれば、甘い蜜に足を絡め取られて身動きができなくなるというのに。

――気が抜けていた。

怖いはずの男の前で油断していた自分を苦々しく思う。かぶりを振ってひとつ息をつくと、思い直して教室に足を踏み入れる。彼は少しうつむき加減で日誌を書いていた。


「残りは書いておくよ。柳くん、部活あるんでしょ」

「そこまでさせるわけにはいかない。少し待っていてくれ、最後に確認してほしい」

「分かった」


私は隣に座って、彼の手元をぼんやりと眺めた。日誌はなかなか面倒くさいもので、今日の授業はそれぞれどうだったとか、教室で何があったとか、細かいことを書かなければいけない。私はいっつもその日の出来事を思い返しながらやっとのことで書くのに、柳くんは綺麗な字でためらいなく項目を埋めていく。
優秀で優等生な彼らしい。
教室にはしばらく、紙の上をすべるボールペンの音だけが響いた。


私はそっと、彼が日誌に集中していることに安堵した。こうしているなら怖くない。こうやって黙って隣にいる分にはいいのだ。

ずっとこうならいいのに。













「夏目はよく神話の本を読んでいるが、古い物語や民族伝承が好みなのか」

「えっ。うん、そうだよ」


唐突に話しかけられた。ぼんやりしていた私はぎくりと身をすくめた。心臓が口から飛び出そうだ。肺から一瞬で空気が追い出されて、声が裏返った。

彼は相変わらず日誌を書き続けている。突然何を言い出すのかと彼の様子を伺っても、何の変化も見て取れない。いつものように、何の感情もこもらない、でも低くて角のない声で彼は言う。警戒心を抱かせない声に、私は逆に身構えた。


「その携帯のストラップ、北欧のミュージシャンのものか?伝統的な手法を用いた、ミステリアス曲調で有名な。好きなのだろう」


一瞬言葉に詰まった。本の話が続くのかと思いきや、音楽。しかも、ミュージシャンのグッズのストラップなんて、目に付きにくい、人に気づかれにくいものが話題になった。彼の言葉があまりにも意外で焦る。いったいどうして。


「な、何でしってるの?それにこのグループ、日本ではそこまで知られてないのに」

「高原が言っていた。代表作を聞いてみたが幻想的な音楽だな。穏やかで美しいだけでなく深みがあっていい曲だった」


私は、さっきとは別の意味で驚いた。音楽に興味があるとは知らなかった。教養として聴いていたとしても、せいぜいクラシックや雅楽、いわゆる正統派の音楽くらいしか聴かないだろう、と。まさか私が好きなグループを知っていて、曲を聴いたことがあって、しかも良いと評価している。何重にも驚きだ。



まさか、私の情報まで集められている?



……そんな馬鹿な。今まで大した関わりもなく、もしかしたらクラスメイトの一人としては情報収集されているかもしれないけれど。趣味まで詳しく調べたりするはずがない。一人一人にそんなことをしていたらいくらあっても時間が足りないはずだ。美波と柳くんはよく話すみたいだから、「高原から聞いた」という言葉はそのまんまの意味なんだろう。


「いい曲でしょ、聴けば聴くほど世界が広がっていくみたいで。でも友達にはなかなか分かってもらえないんだよね」

「どの地域のものにせよ、民族音楽にはくせがある。好き嫌いは分かれるだろう、聞き慣れていなければ尚更」


そう、くせはある。神話でもそうだ。ギリシャ神話やローマ神話、北欧神話は日本でもよく知られているけれど、それでも日本のそれとは全然違う。文学にせよ音楽にせよ伝統的なものにはその文化のくせがあって、慣れないと違和感しかないだろう。そこまで分かって受け入れられるというのは、文学なり音楽なりが好きでもない限り、珍しい。


「柳くん、音楽好きなの?」

「たしなむ程度だ、詳しくはない。だが興味がわいた」

「メジャーでもないし取っつきやすい音楽でもないのによく聴く気になったね」


ぱちり。柳くんと会話をしながら、私は何かに既視感を覚えた。こんな光景に見覚えがある。前にも誰かとこうして音楽の話をしたんだっけ。……いや、私が他の子とこんな風に語り合えたことは一度もない。別の話で、誰かと意気投合したときと似ている、とか?でもそれも違う気がする。何だろう。私は首をかしげた。


「俺はあらゆる物事に興味がある。全てを調べる時間はないから選ばねばならないが。その選択がたまたま、夏目の好きな音楽だったということだ」


私ははっとした。
確かに彼はそういう男だ。データマン。情報を集めて分析するのは、知的好奇心の表れなのだろう。意外に思われたことでも彼にとっては自然のことなのだ。


「そっか。あの曲ね、三年前に――」


あれだけ警戒していた彼と会話をしているのに、いつの間にか怖れは消えていた。嘘をついているようには見えない。私に対して、お世辞を言ったり媚びたりしているようにも見えない。相手に取り入りたいんじゃなくて、本当に知りたいのだ。熱心に話を聞いている。私の好きな、この音楽のことを。誰にも良さが分かってもらえずにいた私の趣味が、彼になら理解してもらえる。それも、一時しのぎに私に話を合わせているんじゃなくて、心から、本気で。


「ほう、それは知らなかったな」


自然と会話が進む。何が好きで、どこが良くて、どうしてそう思うのか、理解してもらえた嬉しさでつい語ってしまう。彼は私の話に大げさに関心するでも賛同することなく、逆に批判するでも否定することもなく、淡々と感想を述べた。
それがまた、心地良い。本当に理解しようとしてくれているのだ、彼は。口先だけで賛同したり否定したりするのはたやすいことだ。難しいのは、受け入れて自分なりに消化すること。彼はそれを当たり前のようにやる。今までは、好きな本だとか音楽の趣味を理解してもらえないことが多くて、良くも悪くも表面上の話しかできなかったのに。





いつの間にか彼への印象が好転していた。美波や他の女の子を魅了していたのは、これだったのか。ようやく分かった。彼のこういう冷静で真摯な態度。私は胸の前に置いた手をぎゅっと握った。
彼を必要以上に敵視して、怖れてしまっていたのかもしれない。チャラいと言われている男子とは違って悪い噂は聞かないし、柳くんにだまされた、とか、ひどいことをされた、なんていう話も聞かない。彼のことを誤解してしまっていた。……反省、しなくちゃ。


ぱちり。頭の中で何かが静電気のように細くひっかかった。それに気が付いて、私は眉を寄せる。何だろう、さっきの既視感といい。何か大切なことを思い出しそうで、でも思い出せない。


「そういえば、夏目は小山と仲が良いようだな」

「ん、まあ2年間クラス一緒だしね。何で?」

「この前部活の帰りに、小山がお前のことを話していた」

「ええっちょっ、あいつ何言ってたの!?変なこと言ってないでしょうね……」


彼はちょっと手を止めて、あごに手をやった。


「確か『意外と人をよく見ている』と、そう評していた」

「ええ、よく見ている?そうかな……って、意外ってなにそれどういうこと!まったく、コヤマめ」

「仲が良いんだな」


彼は口角を持ち上げて、少し冷たく、ふっと笑った。
柳くんが笑っている。愛想笑いなど全くとしてしない彼が。私は彼の口元に目を奪われた。ほんのりと血の色を帯びた薄い唇、笑みを浮かべていても決して太陽のようなそれではなく、どこまでも冷静で、客観的で、冷たく、だが愛想良く浮かべられた笑いよりもずっと正直で、深みがあって、本質的に優しい。表情を読ませぬ彼の、分かりやすい笑み。こんな表情は初めて見た。


「逆にお前から見て、小山はどういうやつなんだ」

「うーん、あんまり考えたことなかったけど……ちょっと押しが弱くて、それで……」


ぱちり。やっぱり見たことがある、こういう状態を。何だろう。私、前にもこんなことをしたっけ。ううん、でもそんな記憶はない。

でもそれなら、この既視感は何なんだろう?


「それで?」

















ヴヴヴヴヴヴヴ。





突然、机の上の携帯がけたたましく騒いだ。
ああ、せっかく話をしているところなのに骨を折られてしまった。反射的に白いそれに手を伸ばし、サブディスプレイを見る。




『メール受信:高原美波』




ぱちり。美波の名を見て一気に頭が冷えた。
ひときわ大きな音を建てて、せき止められていた記憶が決壊する。思い出した。この既視感は、これは、あのときの。


(20110624)

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