真っ白な部屋に空っぽの金魚鉢。ゆるやかな曲線を画く透明な色合いはひどく不鮮明なのに、その場に落とされた影は色濃く、陰すら白と距離をとっている。
白と黒。
そうこの場には白と黒ばかり。
目の前にポツンとある金魚鉢はただ淡々とその存在を誇示している。淡い水色に縁取られたその形。入っているべきものが何もないというのはさてさて如何なものか。
―白と黒…白と黒。
果たして今の自分の顔色はどうなっているのか。眼前に掲げた手は肌色なのだが、ふうんと我ながらつまらなそうな声が上がる。
白い部屋に肌色。
どうしたことか現実を見失ってやしないのに、何故か生命をここに感じられない。くるくるくるくると回り続ける……その、

ぱしゃん、
水音が響く

(あれ、なんで…)

白い部屋が掻き消え、目の前には金色が。
(ここは、現実か)
「どうかしたんですか?」
心配そうに此方を窺ってくる少年。全く以って意識は接続された。
「…いえ、ちょっとぼうっとしていました」
 すみません心配を掛けてと口角を上げるがしかし、少年の表情は晴れてくれない。
「ジャーファルさん、最近寝てますか」
「…なぜ?」
 僅かに強張る表情筋を自覚しつつも笑みは崩さない。標準化されたソレに苦い気持ちが浮かんでくる。…勿論今更ではあるが。
「だって、ほら、」
 スッと伸びてきた相手の指が、自身の目の下をなぞる。ああそんなにも分かり易かったのかと思わず舌打ちをしたくなった。
「ジャーファルさん」
 へにゃりと弱々しく下がった少年の眉。薄っすらと潤んだ瞳がやけにきらきらしていて、場違いにも綺麗だな、なんて思いが過ぎった。
「そんな顔しないで下さいアリババくん。私にとってはよくあることなんです」
 もう慣れたことなので、きみがそんな顔をする必要は無いんですよ。




 カルキ臭い水の中、そんな意味を篭めてアリババの濡れた髪をそっと撫でる。水面に照る陽光は凝集されて目を焼くようで。目を眇めたくなるのは反射する光の所為か、それとも。
「折角きみが来たがってたプールにいるんですから楽しみましょう?」
「ね?」ともう一度笑えば、少しずつ表情を和らげていくアリババ。水中に漂う手を取られ、きゅっと優しく握られる。アリババに視線を投げると、今度こそ満面に浮かべられた喜色を視ることが出来た。
ゆるく引かれる手に逆らわず一歩を踏み出した。―その瞬間ぐらりと世界がブレた気がして。一度強く目を閉じてから世界を見渡す。…何の変哲もない市民プールだ。下に視線を落とせば胸部まである水、水。

映し身に、カルキ。

(嗚呼、)
「アリババくん」
「え?、…っ」
バシャンと本日最高の水飛沫。彼の腕を掴んでいる手に感覚がない。神経がまるごと消失したかのように。
ごぽごぽと彼の口から漏れ出る命を繋ぐ気泡は鮮やかに散る。水に抱かれて空へと還ってゆく。
ゴポリ、
ああ透明・・・透明な世界
絶対的な水量を生身に迎合、歪んだ視界は金色で満たされる。…きれい、だ。
水充ちる色のグラデに私は掴んだ腕を引き寄せる。自然近付く彼を一度強く抱きしめた後、逃げる気泡に唇を添わせた。






―金魚鉢のある真っ白な部屋。
私は現実でないそこの確かな住人なのだ。肌色に目を留めぬようにしつつ、スラックスに膨らみを感じてポケットに手を差し入れる。固い感触を感じ、この現実でない世界に持ち出すことにした。
…そしてそれはただの箱で。それも部屋と同じく真っ白した四角いもので。動きを停めた私の手から箱は滑り落ち、カシャンと落下し粉々に砕け散った。そして白と黒と見たくもない肌色した室内に広がる鮮やかな色光。じゃらじゃらと広がる広がる。




硝子、それは色とりどりのおはじきだった。私は呆然としつつも妙に納得した。
(成る程、金魚鉢の欠陥は水でもなく酸素でもなくましてや金魚ですらなかったのか)
欠けていたのはこのおはじきたちだったのだ。私は静かに且つゆっくりと、迷子になったおはじきたちを拾い上げた。光には透かせない。
(これはこんなにも透明なものだったか)
 過去を振り返ろうとしたが、思えば私は弾き当てる楕円硝子で遊んだ記憶が無い。
仕方なしに小さく溜め息を吐いて、拾い上げた色をひとつずつ金魚鉢に落としていく。
カチン、カラン、
硬質な音は波紋のように。まるで金魚のヒレのように揺らめいては美しく。ひとつ落とす度に溢れるのは何なのか。やがておはじきたちは金魚鉢の中で互いに身を寄せ合い水に溶けた。
水分は私から。
確かにとめどない涙はぽろぽろと頬をしょっぱく伝っているから。


 ふ、と彼に会いたくなった。あの金色に光る少年に。眩しいものは苦手なのに。
 ただ、会いたかった。


…たぶんきっと、再び光溢れるあの世界へ帰る時、その時にようやく私はそれらの意味を知ることが出来るのだと。確実で無くとも確信だけは満ち満ちていた。
 呼吸も温度も共有できる、厭わなくていいものがずっと欲しかった。
 これを、「 」と呼ぶのだろうか。





 そうして私は今夜こそ夢さえ見ずに眠れるのだろう。






【終】