―その日は蒸し暑い夜だった。
 アリババは熱る身体を夜気に晒そうと、ふらりと外に足を向けた。今日はどうやら星も少ないらしい。月の光のみ煌々と冴え、アリババには可笑しくも安っぽく見えた。

パシャリ、

(…?)
微かに耳に届いた水音に足を止める。そうして時折跳ねるその音に耳を澄ませ、ゆるりとそちらへ歩を進めた。
「、あ」
「うん?」
続く木々の中、まるで誘われるように足を動かしていたアリババは、急に広がった目の前の景色に目を見開いた。
 月光を反射し僅かな星々を映す、まるで巨大な鏡のような湖が其処にはあった。そしてそんな水鏡の中に人が一人。
「…シンドバッドさん」
「やあこんばんはアリババくん。いい月夜だね」




 そう言って微笑んだ王は腰元まで水に浸っていた。
「なに、してるんですか」
「今夜は蒸し暑いからね。ちょっと水浴びを」
 依然笑顔のまま言葉を紡ぐシンドバッドに、アリババは眉を顰めた。
「服を、着たままですか?」
訝しげなアリババを視界に捉えながら、シンドバッドは笑みを深くした。
「それを聞いてしまうのか」
 若い証拠だと快活な声を上げるシンドバッドだが、声色に乾きが混じったことをアリババは感じていた。やはり突っ込むべきではなかったかという考えが一瞬頭を過ぎったが、今更後の祭りである。…それにどうしたって一瞬間の素直な情の動きが総てであって、それこそ後悔なんてお門違いだろうと思い直した。

「おいで、アリババくん」
 ふっと沈んでいた思考が引き上げられる。アリババが改めてシンドバッドに顔を向けると、彼は静かに手を差し出していた。そんなシンドバッドにアリババはどうすべきかと頭を悩ませる。右往左往しつつチラリともう一度顔を窺うが、シンドバッドは同じ姿勢のまま微動だにしない。最後の躊躇いは静けさに消され、アリババはその身を水の中へと滑らせた。
 パシャリ、パシャリ、
 跳ね散る水音の中、鏡は円く波紋を回し、結んだ筈の像を揺らした。
 飛び込んだ腕のはやけに冷えていた。けれどアリババはそれを不快だとは思わなかった。重く水を含んだ衣服は、まるで水底に帰りたがっているようで。
「シンドバッドさん」
「ああ、すまない」
「違います。謝罪を聞きたいんじゃないんです」
「うん、そうだね」
 そうだ君はそういう子で。
 だから俺は君がとても怖いよ。
 一滴落とされたのは薬か毒か分からない。分からないからこそ怖いのだと。
「…ただ、俺も帰りたかっただけだ」
 生き物の世界。映り壊されるのではなく、身の内と外界の死こそ忌避望むべくもなく。
 アリババは無言でシンドバッドの背に腕を回した。幼少であれば届かなかった手は、確かに掴める世界を広げていた。途方も無いと思われたものが気付けば目の前に差し迫り、そうとは分からず選択を委ねられるかのように。
「ここに来たのが君で良かった」
 シンドバッドの解かれた髪…その毛先の行方は目を凝らしても見えなかった。夜が食んで隠してしまった。




 何故だかは分からないけれど、七つの瀬の先に答えがある気がした。閉じられた湖の中で、アリババは深海の母胎に手を伸ばす。そうすれば誰も彼もが幸せになれる気がした。
 世界の端で泣けるほど平坦であれば良かったのか。
 互いの心音に意識を傾け、アリババとシンドバッドは涙も流さず呼吸をしていた。





もしも一つ星に願うなら、羊水に還りせめてのひと時を

(―あなたに安らぎの眠りを)





【終】