視神経に刻まれた紅は例えようも無く自分を焦がした。

「あ、」
長い廊下を進む途中、アリババは目の前でハラリと落ちた花弁に目を奪われた。鮮明に焼き付いたその紅。知らず進んでいた足はそこで止まる。

前日に降った雨の為か、空気はしっとりと水分を含み漂っている。朝も早い今の時。未だ薄暗く朝靄に包まれた景色は明度を落とし、薄っすら吐息さえ白く震わせる。そんな世界を横切り歩くアリババは、よく見ればその腕の中に書簡を大事そうに抱え込んでいる。やや大きくゆとりのある衣服はアリババの指先までを覆う程で、不格好に思えても仕方がないその様相はだが彼には何故か似合っていると感じられる。それはこの衣服を誂えた人物への賞賛とも繋がるがしかし、当初は着用対象であるアリババはこの衣服に対し一番に否を口にしたのだ。

―それは遡ること数日前。
急に呼び出され、どうしたのかとアリババは伝えられた部屋へと駆けつけた。通された部屋を見渡し目的の人物を見付けた瞬間、急に両脇から身体を拘束され、あれよあれよと言う間に見知らぬ衣服を着せられた。混乱の最中抵抗することも出来ずに衣服を剥かれ、気付けばやけに肌触りの良い衣服を着せられていた。恐らく服飾師なのだろう男がにこやかなままにどうでしょうと姿見の前までアリババを移動させた。そこに映された姿に目をぱちくりと開閉している間に、自身の主人である人物がこれで良いだとか何だとかやり取りをしていた。一体どういうことなのだろうとそちらを振り向く寸前に両肩を掴まれ、そのまま姿見に正面を向いた状態で固定される。後ろに立つがっしりとした体躯を持つ人物に逆らうことも出来ずにじっとしていると、しばしして姿見の中の主人…練紅炎が笑った。そうして自身の見立ては間違っていなかったようだと頷き始める。そんな紅炎にアリババは呆れたように脱力する。見立て…なるほど自分は今まで寸法の一つも測ったことがない。
「どういうことなんですかこれ」
「どういうこととは?」
ひらりとゆるく揺れる布を触ってみると滑らかで、着せられたそれを観察してみると派手でこそないが場所場所に凝った刺繍がされており、布地も技術も安いものでは無いことが分かる。何故自分がこんな上等な品を身に着けているのか…アリババは理解出来ない現状に眉を顰めた。
「俺からお前への品だが。気に入らないか?」
「気に入る気に入らないの問題じゃないです」
姿見の中で小さくを溜め息を吐くアリババを紅炎は黙って見つめる。真っ直ぐなその視線に居心地悪げにするアリババは、けれどこれは受け取れないと首を横に振った。
「こんな高そうなもの…受け取れる訳ないじゃないですか」
高そうというか、絶対高いに決まってる。既に部屋にはアリババと紅炎の気配しか無く、退出したのであろう人物の懐はさぞや潤ったことだろう。自分なんかのために何故お金を使うのか。自然と苦くなる顔を隠せずにいると、紅炎は悪びれた様子もなく軽く肩を竦めた。
「俺がお前に何かやりたくなっただけだ」
そう、乱暴な物言いをしてしまえば紅炎にとってアリババが喜ぶかどうかや受け取るかどうかという問題ではないのだ。それ以前にただ自身がアリババに衣服を贈りたくなった。それだけだ。
「そ、れでも…こんな良いものじゃなくたって」
アリババにとってみれば上等な絹だろうが安物の麻だろうが着てしまえば同じこと。自分は女ではないのだ。綺麗で高価な衣服を贈られたとしてどう反応すればいいというのか。…それに何よりも。
「俺はあなたを護るために在るんです。そんな俺がこんな服着ても仕方ないでしょう」
繊細に波を立てる布は美しい。だがこれを着ていればあなたを護れる訳ではないのだ。

アリババは一年前に紅炎の剣となった。元はバルバッドの王子という肩書きを持っていたアリババではあったが、相次ぐ内乱の中その立場上様々な思惑が絡んだ盤上で命すら危うくした。あわやという所でアリババは紅炎に出逢い、救われたのだ。何が紅炎の琴線に触れたのかは分からないが、バルバッドの実情を知った紅炎はすぐに煌を動かした。そうしてアリババの目の前で事態は驚くほどあっさりと収束したのだ。だが火種は未だあちこちで燻っており、王族やその関係者は一時ばかりでも国を去る覚悟を決めなければならなかった。各々が足を遠ざける中、気付けばアリババは紅炎に手を引かれて煌の地へと降り立っていた。そうして煌内でどういう取り決めが交わされたのか詳しいことは分からなかったが、アリババは紅炎の護衛として煌の地を踏みしめることを許されたのだ。

アリババはもしもこれを着ていることで紅炎を護れるというならば、アリババは喜んでいくらでも着るだろう。だがこれはただの綺麗で高価な布。なんの力も無く、むしろ普段の衣服よりも動きにくい点からみれば困る代物でもある。
「」
「」
「何より俺の護衛として自覚があるというなら、その主人である俺に恥をかかせてくれるな」
「っ、」
ひゅっと息を呑み込む。紅炎の剣として自分は公表されている身だ。つまりは自身の行動や言動、そして身に着けているもの一つとってもそれは紅炎の評価にも繋がる。そして何より救われた身であり、忠誠を誓った身としてこの言動はどうなのだと。指先がカタリと震え、冷たくなってくる。
「ぁ、ごめんなさ」
「というのは建前だ」

いつだって甘やかしてくれるひと。
好きだ。この人が好きだ。自身の総てがそう訴える。全身で叫びたいくらいに…この人が好きだ。