午前8時、外に掛けられた木の板をひっくり返してアリババは大きく伸びをした。オープンを掲げる看板のインクがキラキラと陽光に照らされ、今日も天気が良さそうだと表情も綻ぶ。


「おはようアリババくん!」


身に付けた黒いエプロンを翻しながら振り返ればニコニコと明るく笑っているアリババの友人がいた。


「おはようアラジン、モルジアナはどうしたんだ?」
「モルさんは何か用事があるみたいで先に学校に行ったんだ」


そっかーとわしゃわしゃアラジンの髪を撫でるとアラジンも嬉しそうにアリババに飛びついた。ぎゅうぎゅうと抱きついてくるアラジンとそのまま少々会話をしてから学校に送り出した。アラジンの姿が見えなくなってから、アリババは今日も頑張ろうと店の中へと戻った。




アリババが営むこの店の名前は「喫茶バルバッド」という。多くの子会社を持つ企業の社長である父が、ずっと自分の店を持ちたいという夢を掲げていた母へと贈った店である。こじんまりとしているが落ち着いた佇まいは客への配慮を忘れず、繰り返し訪れたくなる雰囲気を持つ。アリババは幼少の頃から殆ど毎日この店に入り浸り、楽しそうに動き回る母を見ていた。時には母を手伝い、常連客の話し相手になり、アリババにとっても大切な店となっていた。……そんな日常の転機が訪れたのはアリババが17歳の時である。急に母が病気で倒れ、父の勧めで環境の良い土地へ移って療養することになったのだ。初めこそ渋っていた母だが、父と父の意見に賛成したアリババが熱心に説得してようやく首を縦に振った。アリババも母について行くかと聞かれたが、慣れ親しんだ街を離れ難く感じて残ることにした。何より店を畳まないで欲しいと多くのお客さんに言われて、ならばと母が帰ってくるまで自分が営んでいこうと決意を固めたのだ。幸い父の方針で通常受けるような授業に加えて経営学や社会に出るに当たって必要な知識は幼い頃より叩き込まれていた。更にそんなアリババのために何かあれば助けになると父は約束し、当面の金銭的な問題や人手、必要になる資格の取得等に関して協力を惜しまず施してくれた。手伝いを進んでやっていたアリババは、そこに母の助言も加えられて何とか無事に店を再開させられたのだ。






「おはようございます、アリババくん」
「あ、ジャーファルさん!」


チリンと軽やかな音を立てて開かれた扉へ視線を向けると、母の頃からの常連客であるジャーファルがいた。その片手には花束が抱えられており、それに首を傾げながらアリババは歩み寄っていく。


「お疲れ様です。また泊まりがけですか?」
「ええ困ったことに、またシンが逃げ出しましてね」


無理矢理ひっつかまえて数時間前に仕事用の椅子に縛り付けてきたのだと疲れたように漏らすジャーファルに相変わらずだなぁとアリババは苦笑した。


「その花はどうしたんですか?」
「ああ、これはアリババくんにと思って持って来たんです。しばらく前に立ち上げた企画が無事に終わりまして…お祝いに沢山戴いたのでお裾分けです」


はい、と手渡された花束は色鮮やかに咲き誇っており、ふわりと香った良い匂いにアリババは思わず微笑む。


「ありがとうございますジャーファルさん。早速店に飾らせてもらいますね!」


ふにゃりとはにかみながら笑うアリババをジャーファルは愛おしげに眺めながらどう致しましてと応えた。


「ふふ、アリババくんには花が似合いますね」
「え、いや、俺なんかよりジャーファルさんの方が…」
「とんでもない、大変目の保養になります」


日頃から可愛い可愛いと愛でる対象にしているアリババと可憐な花の組み合わせは、上司に日々振り回されるジャーファルの疲れた心を癒してくれる。オープンしたての店を訪れたのも、入れ代わり立ち代わり様々な人がやってくる時間帯だとゆっくりアリババと話すことが出来ないためだ。贈られた花を見た瞬間にアリババの顔が浮かんだジャーファルは、是非とも花を抱えるアリババを堪能しようと即決したのだ。…その時シンドバッドも同じようなことを言い出したがこればかりは譲るつもりは無かった。可愛いものが好きなことを自覚しているジャーファルは、幼少期から自分に懐いてくれ、ずっと見守ってきたアリババが特に可愛くて仕方がない。今よりもっとアリババの身長が低かった頃、キュッと服を掴みながらあのまん丸い瞳で見上げられる度にどこか危ない所が切れそうになった。小さい時から自分を慕ってくれているアリババを大事にしたい反面奥底から滲む独占欲のようなものがたまに暴走しかけるから困ったものだ。いつもは振り回す側であるシンドバッドもその時ばかりはジャーファルを止めに掛かるので、よっぽどらしい。



「それじゃあいつものお願いしても?」
「あ、はい!ちょっと待ってて下さいね」
「慌てなくて良いですよ。…本当はもう少しアリババくんと話していたいんですが、そろそろ戻らないとシンが心配ですから」


これはシンドバッド自身の心配というより仕事の心配である。何かにつけて会社から逃亡する上司の尻拭いをするのは自分なのだ。一重に有能な部下であるジャーファルを信頼しての行動だとして、許容出来る範囲は勿論存在する訳で。それを軽くぶっちぎる相手に容赦の心など存在する筈もない。そんな言葉の裏など分からないアリババはジャーファルに憧憬の念を抱きつつ、シンドバッドさんは幸せ者だなぁとのほほんと考えていた。







店内に置かれた椅子の一つに腰掛け、温かなコーヒーが入ったカップを傾けつつ手帳を捲っていたジャーファルの目の前にバスケットが置かれた。目線を上げたジャーファルの視界にはにこやかな表情でこちらを見るアリババの姿が広がる。


「いつものサンドイッチのセットと、焼き菓子を作ったのでそれも入れておきました」


どうぞと差し出されたバスケットに被さった布を退け中を覗けば成る程、いつも頼むサンドイッチの横に可愛らしくラッピングされた菓子があった。


「良いんですか?」
「はい、いつもお世話になってるお礼です」


あ、勿論こんなんじゃ返しきれないですけど、なんて。照れながら言葉を紡ぐアリババをすぐにでもガッツリ抱擁したい衝動を抑え込みながらジャーファルは頭を下げる。


「ありがとうございます。大切に食べますね」
「そんなに大したものじゃないですけど、甘いものって疲れも取れるし……えっと、今日も仕事頑張って下さい」


ね、と微笑むアリババはふんわりとした焼き菓子の甘やかな香りと合わさってジャーファルの目には殺人的な可愛さに映った。固まってしまったジャーファルを不思議そうに見詰めるアリババの視線に正気に戻されたジャーファルは、アリババくんも頑張って下さいそれじゃあまたと返答しつつどこか挙動不審なまま店を出た。素早い動きにポカンと呆けていたアリババはやっぱり仕事が忙しいんだろうなぁと心配しつつ、貰った花を飾る為に花瓶を探しに歩を進めた。