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 あれは3時間目の英語の授業だった気がする。お腹が空いて来てどうも集中が出来ない。鳴らないようにと必死にお腹を押さえ付けていると、隣の席のアニがちらりわたしを見て「お腹、痛いの?」と、いつもの声色で言った。彼女はとても優しく、それでいて可哀想な子だった。可哀想、というのは哀れみとかではなくて。少しばかり素気ない物言いや態度から、周りの子に「なんか怖い」「冷たい子」という印象をもたれがちだった。そうだね、可哀想というよりは勿体ないに近いかもしれない。アニはとてもいい子だ。だからそんな事を言われているのを耳にすると胸がちくりと痛むんだよ。

「ねえ、痛いの?」
「――あ、ごめん! 大丈夫だよ!」
「…………そう」

 現にこうして、わたしの心配をしてくれる。本当はお腹が鳴りそうだったの、なんて言うのは止めておこう。「次、ライナー」いつの間にか当てられたライナーが、ぎぎぎと椅子を後方へ引くと立ち上がる。教科書に書かれた英文をすらすらと読んでいく。なんでも、できるんだなあ。と横目で彼を見つつ、慌ててノートをとる。

「Better by far you should forget and smile Than that you should remember and be sad.」

 顔を伏せていた(というより机に伏せていた)アニがばっと頭を上げるから、驚いて「ど、どうしたの」と小声で尋ねると、パチリパチリ、その綺麗な目が数回瞼に覆われた。「……いや、そうだな、と思って」……この文のこと? ノートに写した英文を見てもよく、意味がわからなかったのに。

「ナマエは、さ」
「うん」
「きっと、わからない」

 何だ、それ。頭の問題? 英文の横には「Christina Georgina Rossetti」という名前と白黒の小さな写真。詩人、なのかな。アニの言ってることがさっぱりわからなくて、今にも鳴りそうなお腹をなんとかしよう。とそれだけに集中した。




「……ってことがあったんだけどね」
「うん、お腹が空いてて大変だったんだね」
「ベルトルト、意地悪だね」

 わたしを見下げて笑うベルトルトが、その大きな手を頭に乗せてきた。「ごめんごめん」と笑いながら言うのは、全くもって謝る気ないことの象徴だったけれど。

 ちらちらと降る雪が頭や肩に積もる。鼻先の赤いベルトルトを見て、きっとわたしもこうなんだろうなあ、と思った。冬は、寒い。寒いから好きな人と寄り添うことがこんなにも簡単に出来てしまう。夏よりも縮まった距離に笑みが零れた。

「覚えていて悲しむよりも、忘れて微笑んでいる方がいい」

 足を止めたベルトルトが突飛な発言をした。「え、え、何?」首を傾げれば「その英文。クリスティーナの」と、笑った。今にも泣きそうな顔で、笑った。過去を振り返れば彼はいつも泣いていた。とても泣き虫だった。腕で顔を隠して涙を拭って、それでも泣き止まずに鼻を啜って。「ベルトルト、帰ろう」と手を差し伸べれば、笑って手を取る大きな子どもだった。

「何かあったの?」
「……ううん、何もないよ」
「アニも、変だったし。ライナーの声も震えてた。3人して、変なの」

 わたしだけ仲間外れなの? 小さい頃から一緒にいたのになあ。ちょっと、寂しい。「――ナマエはいつも、笑ってるね」「うん?」「今も、昔も、僕に笑いかけてくれる」そして、また歩き始める。今度は頭上のその手がわたしの手を攫った。ぎゅっと握りしめて大きく振りまわされる腕。

「笑ってて、ずっと。それだけでいいんだ」
「ねえ、全くわからないよ」
「――わからなくても僕がわかってるからいい」

 ああ、ますますわからない。なんか昔からそうだったなあ。1人仲間外れにされた気分で、寂しくなって。でもみんなは「ナマエは知らなくてもいいんだ」と笑った。小さい頃はわからなかったけど、今ではそれが無理して浮かべた笑顔だってわかってる。わかってるから、無理に聞けなくて、もやもやと複雑な感情は持て余されて溜息とともに吐き出された。

「あ、息が白い」

 ついつい、口にしてそれもそうかと笑った。「冬だもんね」寒いもん。握られた手は温かいけれど、それ以外は冷えていく一方だった。「――は綺麗だね」そうベルトルトが呟くように言った言葉は、しんしんと降り続ける雪片が攫ってしまった。より低い「綺麗」という声だけが、その文字通り透き通った綺麗な音となって耳に入って来た。はっとして頭を上げてから、はて、何を思ったのだっけ。と自問自答をする。ただなんとなく握っていた手に力を込めて、その腕に頭を寄せた。すると少しばかり硬直した体、彼が大きく息を吐くと、それもゆっくりと溶けていく。

「何、どうしたの?」
「ううん、こんなこともあったなあって」
「……え?」

 記憶を幾ら遡っても、見つからない。「ここは粉雪だから」とわたしの疑問に疑問を上乗せするようなことを言っては悪戯に笑った。「なあに?」「なんでもないよ」ほら、またそうやって、何かを独り占めしているみたいにさ。つんとソッポを向いて、それから足先へと視線を落とす。薄く積もった雪からところどころ地面が見え隠れしていて、冬もまだまだだなあ、となんとなく思った。

 時折どちらでもなく鼻を啜る音以外、消えてしまった。会話もなければ、ただ茫然と立ち尽くしているので足音もしない。辺りも車通りもなければ人もいないし、雪の降る音が聞こえて来そうで耳を澄ませた。「こんな幸せが、あるんだ」――思わず身を捩る程に驚いた。

「幸せ? 何の?」
「望んだことが叶う幸せ。……ナマエと粉雪を見れた」
「えっと、わたしたち昔からここに住んでて、それでずっと、」

 しどろもどろになった発言を、すっと口で塞いで「こういうこと、とか」やっぱり訳のわからないことを言う。質問に対しての答えをはぐらかされているのは、それはもういつものことだったし、今更口出ししようとも思っていない。一瞬触れたその熱で、唇に触れた雪が水となった。それが恥ずかしさを上塗りする。触れただけのキスだった。それなのに、こんなにも恥ずかしいキスは初めてだった。冷たくて、熱くて、やっぱり冷たかった。

「真っ白な世界もいいけど、色づいた景色も見たいね」
「ベルトルト、もう訳わかんないよ」

 ぐっと身を屈めたベルトルトが、その赤くなった鼻先を頬に摺り寄せた。まるで大きな犬だった。時折無意識にあたる柔らかな感触にドキリ、心臓が跳ねることも知ってか知らずか、クツクツと耳元で笑うのは、反則だ。

「ねえ、帰ろうか」
「――う、うん?」
「僕、寂しそうに見える?」

 ようやく離れたかと思えば、また不思議なことを言う。「わたしが隣にいて寂しそうなんて言ったら、存在価値がないんだけど」わたしの。

「……昔はこの白い息になりたかった。ふと消えてしまいたかったんだ。でも、今は違う。ナマエの隣にいたいし、帰る所はナマエの所がいい」

 遠くを見据えて、それからわたしを見て笑った。その顔がいつもに増して綺麗に映ったのは、彼以外のものが全て白く色づいていたからに違いない。この光景を収めたくて、ついつい足を速めて、遠ざかった。くっきりとした境界線が、長身痩躯なベルトルトをさらに頼りなく見せたのだけれど、なぜかこれには見覚えがあるような気がして頭を悩ませた。

 わたしの5歩は彼にとっての2歩だった。伸ばしたその手でわたしの手を攫った。「……ただいま」そうベルトルトが泣いた。どうして、なんで、泣いてるの? そんな問いかけも出てこないくらいに、開け放しの口から白い息が漏れては消えていくだけだった。そんな緩い口の端に、ベルトルトはまた触れた。より積極的なのは、冬があまりにも寒くてひと肌が恋しいからなんだと思う。ゆっくりと離れて「ただいま」と今度は笑って言ったので、「おかえり」と笑ってみたら、なんだか胸が苦しくて、切なかった。

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