堕落した生活 | ナノ




 視線が何か一点に集中するのは、よく見る光景だった。きっと彼は気付いているはずなのに、ぴくりとも動かずにわたしに背中を向けている。その黒いコートを見たのは実に1年ぶりで、この期間に、わたしの想像もつかない出来事が相次いで起こったことはシャルくんから聞いた。

「――クロロ」

 久々に呼んだその名前は、驚くほどに小さかった。「クロロ」もう一度、ゆっくりと紡ぐようにして声に出せば「何だ」と振り向きもせずに言う。


「みんなとは話せないって、聞いたから」
「ああ」
「……ご飯、食べに行こう?」

 お腹が空いたの、と付け足せば、彼はゆっくりと立ち上がった。「準備してくる」と振り向いて笑ったその男の心境が掴めるはずもなかった。髪を降ろさずに、似非た笑みを浮かべるのは恐怖でしかないことを知っていて、クロロはそうした。――背筋が粟立って、その感覚が暫く消えなかった。



「何が食べたい?」とスーツを着込んで、額にバンダナを巻いたその姿はまさに好青年というに相応しくて、それなのに、あの日の彼を思い出すと、どうも上手く話せない。「……お肉とお酒」ウボォーも、パクも大好きだったでしょう。クロロがわたしを見て、笑った。

「美味しいお店、知ってる」

 そう、笑った。




 洒落た店だった。けれど、敷居は高くない。安くて美味しいを掲げたような、そんなありきたりなお店。出された料理は全て美味しかったのだけれど、会話はないに等しかった。ひたすら口に運んで、咀嚼して、飲み込んだ。じわり、溢れる肉汁が口に残るので、ワインが進んだ。

「飲み過ぎじゃないか」
「……そう、かな」

 ようやく口を開いたクロロがそう言って、視線をお皿に落とす。「顔が、赤い」ああ、そうなんだ。言われてみれば、いつもよりは飲んでいる気がする。ウボォーは「飲め飲め」と豪快に笑うだろうし、パクは冷静に「明日に響くわよ」と釘を刺すのだろう。それを考えると、自然に涙が溢れた。何も言わずに去った自分が愚かだとも思った。最後に交わした言葉も、何をしたかも曖昧で、やっぱり嘘なんじゃないかなあ。と心の中では思ってしまう。

「お前がいたらもっと死んでたんじゃないか」
「……なに、それ」
「お前を人質にとられたら、蜘蛛を優先するのは誰だと思う」
「……さあ」
「誰も、いなかったかもな」

 クロロはそれだけを言って、口を閉じた。椅子を引いて、立ち上がる。「帰るの?」声を掛けても反応はなかった。慌ててその背中を追った。外に出ると、さっきまではからりと晴れていたはずなのに、雨が降っていた。強い、強い雨だった。きっと、通り雨に違いない。少し待てば上がるのに、クロロはその中を歩いた。わたしは後ろを付いていくしかなかった。


 暫く歩くと、細い通りに入る。来るときは通らなかった道だった。ピタリ、足が止まって、クロロは振り向いた。「――アカが、キライだったな」急になんのことだろうと、わたしも足を止めた。「赤?……うん」血の色だから。「夕焼けは好きだったか?」……そうだ、夕焼けは好きだった。だから、何だというのだろう。

「なら、いい」
「……クロロ?」
「いいんだ、それなら」

 辺りは暗くて、ほんの少し遠いクロロの表情はわからなかった。髪がぺたりと張り付いていたし、それをはらう素振りも見せなかった。黙々と歩き続ければ、いつの間にか雨は止んでいた。クロロは大きな道へと出ていて、道路を挟んで向こう側の煌びやかなお店に足を踏み入れていた。ガラス越しに彼を待った。彼には似合わない、玩具屋さん。トン、トン、トン、太鼓を叩くクマのお人形。倒れてしまった螺子巻のサル。ぼーっと眺めていると、大きな袋を持ってクロロがそこから出てくる。無表情は相変わらずで、何を言うでもなく、また歩いた。だんだんと見慣れた風景。そして、クロロがいたその部屋へわたしもお邪魔する。

 手渡された大きなタオルに一瞬驚いて、「ありがとう」と受け取った。クロロは、椅子の前のゲーム機ちらりと見てから、その横に袋を無造作に置いた。「暇なんだ」そう言って、取り出されたのは大きな大きなパズルのようだった。

「パズル?」
「ああ」
「……綺麗」

 箱には完成形のその絵があった。海に夕陽が沈む、綺麗な絵。「夕陽……」そうわたしが呟けば、「昔から好きだったな」とピースを床にばら撒いた。

「……これは奪えない」
「クロロ?」



「お前が欲しいものは、なんでも奪えると思ってた」

 戸籍も、知識を得る為の本も、飢えを凌ぐための食糧、着飾る服……ただ、自然にあるものは手に入らないから「アレは酷似してた」と、クロロはやはり迷うことなくピースをはめていく。

「アレ?」
「結局は要らなくなって金にした」
「なに、どういうこと? クロロ、わからない」

 わからなくて、いい。そう言って、また1つピースがはまった。「去るなら、いまのうちだ」隅が段々と絵になっていくのを眺めて、わたしも近くにあった1つを手に取った。悩んでも合わせてみてもはまりそうにないそれをクロロは奪って、すっとはめ込むのはやっぱり格好良いし、癪に障るけれど、それも結局は昔から変わらない。

「――側に、居たいの」
「ナマエ?」
「縋りたいし、甘えていたい。クロロ、死ぬときはあなたに殺されたい」

 ピタリ、その手が止まった。「勝手にしろ」と吐き捨てるように言って、まだ濡れているその髪をかきあげた。指先をそのバンダナにかけ、上げてみる。クロロはあの時のように、驚いたような表情を見せた。額に浮かんだその十字架に、そっと唇を寄せる。――わたしは、いつもこれに祈りを託していた。きっと、神様なんかじゃなくて、クロロに運命を委ねていたんだと思う。「何だ?」「別に」「……誰が、殺すか」聞いたことのある台詞。

 そういえば、あの時どうしてあんなことしたの? そう聞く前に唇が塞がれた。一瞬だった。

「……クロロ?」

 名前を呼んでも返事は一向になく、パズルに夢中のようだった。「楽しい?」「ああ」そんな他愛無い会話を繰り返して、ふと思った。

「クロロ、スキだよ」

 ふと顔を上げ、わたしを見て、クロロは首を傾げた。「何だ?」「何だって何?」「急に、どうした?」「……言っておこうと思って?」わたしも合わせて首を傾げると、クロロがクツクツと喉を鳴らす。

「信じられないな」
「何で?」
「家族としての好きならお断りだ」

 ああ、そういうこと。忍んで笑えば、クロロが眉を顰めた。「意外と慎重なんだね」と口の端を上げてみせれば、「ああ」とだけ発して、パズルをはめた。

「俺も大概、お前には甘いらしい」

 そう言って、ぐっと距離を縮めてくるので、わたしもそっと目を閉じた。どうか、少しでも永く、あなたの側にいれますようにと願って、そのキスに応えた。




(はい、誓います。なんて口約束は幾らでもできるから、もしも破ったら、わたしを殺して構わない)



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