目を覚ますと11時を回っていた。ああ、やってしまった。お休みの日の半分を既に睡眠で使ってしまったことになる。昨日の予定では午前中に部屋を片付け、布団を干し、使わなくなった毛布をコインランドリーで洗濯しようという計画だった。午後に回すのも億劫だなあと思いながら、のそのそと布団から這い出る。階段を降り、洗面所へ向かう。まだまだ霞む視界。働かない脳味噌。歯ブラシを口に咥えながらリビングへと移動する。テレビを付ける。お昼のニュースが映った。あ、今日雨じゃん。布団干せない。天気予報から視線を窓へと移すと、まだ本降りではないが確かに小雨程度には雨が降っている。

 なら、1日籠って本でも読んでようかな。

 今日の朝が遅かったのも、夜な夜な読書に更けていたせいだった。児童文学とはいえ侮れない。ページを捲る手は止まらないし、一文一文が映像となり脳内を駆け巡るから興奮冷めやらぬとはこういう事を言うのだと思った。――姉が好んで読んでいた本だった。登場人物の名前が星から取ったものだとは聞いていたが、大して興味も湧かず(第一、姉の興奮するポイントは星ばかりで、あらすじの説明をされたことがなかったので)部屋に置かれた本棚の隣のダンボールに入ってあったのを、掃除ついでに取り出し読み始めてしまったのだ。

 3巻までしか入ってなかったけど、全部なのかな。買いに行くのは面倒だなあ、雨だし。

 そんな事を思いながら、冷蔵庫を開ける。朝食兼昼食を作らなければ。何にしよう。歯ブラシの柄を持つ右手を懸命に動かしながら考えていると、ピンポーンとチャイムが鳴った。突然の訪問者に慌ててあちらこちらに跳ねていた髪の毛を手で溶かし(何もなおってはいなかったが)うがいを済ませ、玄関へと赴く。

「あ、俺だけど……」

 インターフォン越しの声に思わず「柊くん!」と上擦った声が出た。「昼飯食べようと思って。オムライス、作って欲しいんだけど」となんとも勝手な申し出を告げ、ドアノブが回り、彼が入ってくる。

「起きたばっかなわけ? もう昼」
「うん、だからあまり見ないでくれるかな……」
「別に今更だし。――俺も手伝うから、オムライス」

 今、柊くんの脳内にはふわふわのお月様みたいなオムライスの事しかない。「チキンライス作らなきゃだから、玉ねぎの皮剥く係ね」と、支障のきたさない雑務を押し付け台所へ向かう。

「あ、鶏肉ないからベーコンでいい?」
「ベーコンライス?」
「ケチャップライス?」
「卵がふわふわならそれでいい」

 そう、嬉しそうに言うものだから何故か見ているわたしが気恥ずかしくて彼から視線を外し、玉ねぎを手渡す。どの角度から見ても美形だ。そりゃあそうだ、モデルさんだもの。ペリペリと皮を剥ぐ姿は雑誌には掲載されないし、わたしと2人で作るオムライスの味も世間は知らない。それだけで十分すぎる程の幸せだった。

 包丁を持つ手は危なっかしく、明日撮影があると知っていたわたしは「切るのはわたしがやる。炒めて?」とお願いしてみる。特に何を言うわけでもなく小さく頷いて、立ち位置が変わった。2人で立つには少し、狭い台所。時折物を取る際に触れ合う体の一部が火照ってどうしようもない。


「これでいいか?」
「うん。じゃあ盛り付けお願い」

 お茶碗を2つ取り出し、その片方にご飯を詰める。茶碗で蓋をして溢さないように注意を払ってそれを振る柊くんを片目に少しだけ牛乳を入れ溶いた卵を油のひいたフライパンへ流し込んだ。じゅう、音がする。彼がその音だけで笑みを溢す。コロコロと丸くなったライスを平たいお皿に盛りつけた柊くんは、「ああ、美味そう」とポツリ呟いた。

 柊くんもオムライスも大好きだけれど、まあるいオムライスは嫌い。お月様みたいなまんまるなオムライスなんて嫌いだ。それでも彼が喜んでくれるから作るのだ。姉には勝てないと知っていても、「うまいな」と褒めてもらえるのなら幾らでも作る。とっても単純で、それが死ぬほど嫌。



 柊くん、泣かないで。お姉ちゃんがお月様プレゼントしてあげるから。

 わたしと7歳違う年の離れた姉だった。星が大好きで、いつも空を見上げている人だった。中学1年生の自由研究では家の天井に映すプラネタリウムを作って、その出来栄えが良かった為に何かの賞を受賞していた。部屋には星や宇宙の図鑑、誕生日に貰った天体望遠鏡、そして天窓とその下にベッド。わたしはすっからかんとした姉の部屋があまり好きではなかった。寂しいのだ。暇を潰すものがない。マンガもゲームもテレビもない。その部屋が大好きで入り浸っていたのが柊くん。

 いつもは大人しい彼が泣き喚いて手がつけられない日があった。確かブルームーンが出るという日が1日中の雨で、見上げた夜空は分厚い雲と糸のような細い雨が降り続けていた。ぐずる柊くんに「お月様をプレゼントしてあげる」なんて、当時5歳のわたし達にとっては、驚きしかなかったが、20分後に手にしたお皿の上にころんとしたオムライスがあったので、なんだそういう事かと理解した。ケチャップでお皿に「すーぱーむーん」と下手くそな字で書いてあった。わたしは思わず顔を顰めたが、柊くんは「すごい!」と笑った。

 あの日からわたし達のオムライスはまんまるお月様なのだ。



 そんな事を思いながらオムライスを食べていると、柊くんがわたしを見て首を傾げた。「なに?」「静かだから」「ああ、ごめん。ちょっと考え事してた」「ふーん」カチャリ、スプーンが月の欠片を救う。ほろり、赤い粒が皿へ落ちる。

「髪、降ろしてると」
「うん?」
「余計、あの人に似てる」
「……お姉ちゃん? そういえばもう同い年だしね。似てるなんて親にも言われたことないよ?」

 雨の日に交通事故で息絶えた。星も月も見えない日。お気に入りの傘を持って、当時付き合ってた人と遊んで来た帰りだった。運転手の前方不注意で車に轢かれた姉は、搬送先の病院で死んでしまった。17歳だった。

「オムライス作ってる時も思った」
「へー」
「学校も、髪降ろしてきたらいいんじゃないか?」

 彼はきっと、その言葉がわたしを傷つけるなんて思ってもいない。他の人がそれを言うなら、髪の毛を降ろしてる方が似合ってるっていう事だけなのに、柊くんのその言葉は、お姉ちゃんに見えるから髪を降ろして、という事と変わりない。

「……食欲、ない?」
「え、あ、ああ、ちょっと」
「俺、何か変な事言った? 名前、元気ないから」
「ううん、そんなことない。ほら、雨だし。お姉ちゃんも柊くんも星見れなくて残念だろうなあって。わたしも本買いに外に出るの億劫だし。そう、雨だから! あんまり、テンションあがんない」

 笑ってみる。柊くんは「そうだな」と眉を下げた。わたしはまだ半分以上残っているオムライスを掬っては口に運ぶ。でも、と柊くんが口を開いてそれから手を伸ばした。彼の手はわたしの効き手の手首を掴み、スプーンの上の卵がべちゃりと皿へ落下した。

「俺、お前が元気ない方がテンション上がらない。星が見れないのは辛いけど、名前の笑顔見れない方がもっと、辛い」

 数回の瞬き。ぎゅっと力の入った手にハッと意識が戻る。「食べて。俺が玉ねぎ剥いたし、炒めた。丸くしたのも俺。あの人が作ったオムライスも美味しかったけど、俺達が作ったオムライスも負けてない。ちゃんと食べて、笑ってくれ」なにそれ、変なの。真剣すぎて、妙な空気がわたし達の間に流れた。頷いて笑って見せる。緩む手。熱を持った手首が少しずつ、冷えていく。

 こうして彼は無意識にわたしを落ち込ませ、悲しませ、笑わせ、幸せにさせ、好きにさせる。そんなのズルイ。敵いっこない。

「……今度、星型にしてみよっか」
「星?」
「うん。型があったから買ってくるよ。少し薄く卵焼けば形は整えられるし」
「卵ふわふわか?」
「あ、最初に半熟のやつ乗せてそれに薄いの被せたらいいのかな? どう?」

 これでもかってくらいの笑みをわたしに向けて、「楽しみにしてる」なんて子供みたいに無邪気にはしゃぐ。それは、わたしに向けてくれた笑顔だ。

 その時はケチャップで何を書こう。物語に出て来た主人公に振られた女の子の名前でも書いてみようか。真意は伝わらなくとも、その星がどの時期に出てどんな形でどんな色でどんな意味があるのかを柊くんは楽しそうに教えてくれるんだろう。図鑑を開くかもしれない。お手製の星図を片手に外へ飛び出て夜空を仰ぐのかも。そして言うんだろう。「あの人が好きな星が、あれ」と。

 外の雨が強くなる。このまま永遠に振り続ければいい。星が見えなければ、柊くんはわたしを見てくれる。もっと、強く。雨の音しか聞こえないくらいに。そんな馬鹿な事を考えながら、三日月程度のオムライスを彼へと押し付ける。お腹は空いていたけれど、お姉ちゃんと柊くんが大好きな月なんてまっぴらごめんだった。


雨粒みたいな約束を、いっぱい集めて降らせたら