※あまり描写していませんが、DVっぽいのがあります。苦手な方はブラウザバック


 どんなに頑張っても上手くいかないことってあるじゃない。伝えたいのに伝わらないこととか、好きだけどそれだけじゃ駄目なんだってこととか。きっと、大人に近付けば近付くほどに、そういう思いが募って雁字搦めになって、溺れていくんだと思う。怖いと思った瞬間に、体が勝手に硬直して水面下に沈むように。でも、なんでかな。大丈夫だって言い聞かせても、少しずつ、少しずつ底に引き寄せられて苦しいと感じてしまうのは。「痛ッ……」温くなった浴槽の中、呆けていたら顔だけが辛うじて水から出ている。擦り剥いた手首から肘を付けまいと必死になっていたこともすっかり忘れていた。じわじわとお湯が傷に沁みていく。また1つ、傷が増えた。痛いよ、とっても、痛い。


 目を、疑った。「何だ、その傷は」声をかけるとハッとして、腕を降ろす苗字。転んだの、それだけ。視線を合わせずに口早にそういうと、制服の袖を引っ張り中指から薬指でぎゅっと掴む。そうしてまた、デジカメを構え直した。

「手当はしたのだろうな?」
「えっと……水で洗ってきたけど」
「それは駄目だ。痕が残ってしまう」

 傷のついていないもう片方の腕を半ば強引に掴み、部室へと向かう。「大丈夫だよ、東堂くん。部活の邪魔して、ごめん」ごめんなさい。と、謝り続けるものだからついつい眉を顰めてしまう。邪魔だとは思いもしなかった。ただ、一瞬目にした傷口がじゅくじゅくとしていたので、消毒をせねば、とそれだけだった。「そこに腰を掛けて、腕まくって欲しいのだが」「う、うん」救急箱を持ち、彼女の側へ寄る。苗字は罰の悪そうな顔をし、こちらを伺うように上目で見てくる。どうかしたのか、首を傾げて消毒液を手に持ち待機していれば、大きく息を吐いてからゆっくり袖を捲った。「なっ……!」手首だけではない。肘にかけて、擦れたような傷がついている。無論、オレ達も自転車からの転倒でアスファルトと接触すればこうはなる。が、酷すぎる。

「何故、保健室に行かなかったのだ!」

 消毒液が垂れぬよう、傷口の近くでティッシュを添える。ツンとするアルコール臭。容器を軽く押せば、透明な液体が傷口へとかかった。「――ッ!」染みたのだろう、ぎゅっと目を閉じ、痛みが去るとそっと目を開ける。「まだ、終わらんぞ」手首から、肘にかけて、可哀想だとは思ったが、丁寧に傷口に液をかけていく。白いティッシュに薄い赤が散りばめられる。絆創膏では到底足りない傷の大きさに、さてどうしようかと救急箱を覗き込むと、「何してんだ?」と入口から声をかけられる。彼女の腕が大袈裟に跳ねた。それからオレの手から滑り落ちる。

「荒北、大変だぞ! 苗字が大怪我をしているのだ!」
「へぇ……。大丈夫だろ?」
「……うん」

 ……何だ、何なのだ。この雰囲気は。傷口を見ようともせずに大丈夫だと言う荒北にも、先ほどまで泣くのを我慢しながら消毒に耐えた苗字が頷くのも、到底理解に及ばぬ行動であった。「荒北、酷い男だな。彼女をもっと大切にしてやらねばならんよ」「ソイツが平気だって言ってンだ、平気なんだろ。邪魔だ、早く帰れ」苛々しているらしい。何故?

「東堂くん、ごめんね。ありがとう」
「あ、ああ」
「靖友、頑張ってね」

 スカートがふわり、浮いた。そのままコツコツと、ローファーが地面を鳴らす音が遠のいていく。荒北は何もなかったかのように、汗を拭き始めた。「荒北!」声が上がる。面倒くさそうに首をゆっくり傾げて答えた男に、更に腹が立った。

「どういう、事だ?」
「何がだよ」
「可哀想ではな、」

 ダンッと大きな音がした。先程まで彼女が腰を掛けていた椅子が床に転がっている。何故、こんな奴が自転車競技などやっているのだろう。いや、ついさっきまでは認めていた。懸命に自転車を漕ぐ姿を評価していた。入部当初はすぐに辞めると思っていたが、今も1人で漕ぎ続けている。荒々しい、男だとは思っていたが。「出てくる。アイツに何か言われたら、すぐ戻るって伝えろ」……何だ、その顔は。泣きそうなのだ、もう何もわからんよ。ただ、彼女を追いかける荒北の背中がとても小さく見えた。



 「待て、待てっつってンだろ!」腕を掴んで、後悔した。怪我をさせた方の腕だった。声にならない声をあげ、地面に膝をつく。慌てて腰を抱きかかえ立たせれば、今にも泣きそうな名前と目が合った。思わず顔を背け、目を瞑る。見たくねェ。苛立って、お前に当たって、傷つけた。こんなことしたいわけじゃなかった。上手くいかない苛立ちを外にぶつけてしまうのは、どうしてだろう。コイツに当たるのは、きっと何をしても「大丈夫だよ」とへらへら笑うからだ。それにも無性に腹が立って、また当たる。悪循環。「悪ィ……」無意識で謝る。また、いつもの「大丈夫」が聞こえる。ワザとじゃねェんだ、ついカッとなって、押したら……力加減出来なくて悪ィ。痛いか? ゆっくり視線を戻せば、やっぱりへらへらと笑っていた。

「わかってるから、大丈夫。平気だよ」

 部活、大変そうだもん。今日はあまり天気が良くなかったけど、良い写真撮れたよ。現像したら、見せるね。ほらほら早く戻って? 練習、しなきゃ。インハイ、目指すんでしょ? お前が言いたいのは、それだけか。怒らないのか。なら、もう何も言わねェ。膝を軽く払うその手を制して、上を向いた名前に唇を合わせる。この行為に幸せも喜びも感じた事はなかった。ただ、離れたその瞬間に恥ずかしそうにコイツが好きなんだ。こうしてまた、悪循環に飲み込まれる。日の沈みかけた景色。くっきりの影のように浮かび上がる背中を見送って、部活に戻った。何もなかった事にしてしまえ。自転車漕げば、忘れンだろ。


君は嘘つきだね
(みんな嘘をつくから誰も浮かんでこれないんだよ)