何も、見えなかった。湿った空気が纏わりついている気がする。辺りを見回しても、物の輪郭1つ捕えられないくらいに、真っ暗な闇だった。自分の息の音が聞こえる。1人、そう理解した瞬間に全身が震えた。ガチガチと歯がぶつかり合う音が響く。情けない、情けなくて、格好悪い。手にかいた汗をシャツで拭う。指先は、動く。節々にも問題はない。「よし」言い聞かせるように、落ち着けと言うように。大きく息を吐く。「行くか」足を踏み出した。宙をアンカーが切り裂いていく。その背を見送るようにして、目が覚めた。カチカチと瞼の裏に衝撃。――ジャン、声のする方を向けば、トビラの前に立つナマエが見えた。


 晩御飯は何にしようか。愛した人の為に何かを考える時間が増えた気がする。何を見ても彼基準になるのは、幸せに浮かれているからかもしれない。冷えたビールを手にして、ふと思う。そういえば最近ジャン、太った気がする。少し、ほんの少しだけ顔が丸くなったから、昔より温和な印象なんだろうか。悪い事ではないけれど、体の事を考えるとなあ。そっとビールを戻して、野菜のコーナーへと向かった。


「今日はビールねェの?」

 キッチンに立っていたナマエが振り返る。「最近、ジャン太ったと思うんだよね」……は? お前が言うか、ソレを。「オレだけじゃねェだろ。つーか、ナマエすげえ太ったよな」と、大して思ったことはなかったが面白半分で口にすれば、一度目を見開いてから睨んでくる。

「そういう事、言う?」
「お前が先だろ」
「女子の方がそういうの気にするってわかってるでしょ!」
「いやいや、女子とかいうな、恥ずかしい」

 案の定、頭に来たらしいナマエがコチラへ向かってくる。「もう無理! やってらんない!」頬を膨らますような、そんな可愛い怒り方をする女なんて見たことが無い。自分自身を落ち着かせようと大きく息を吐く度に、反比例してイライラしたような表情。眉寄せてんな、冗談だから。「上手くいく気がしない」なんて、怒るなよ。未来のことなんて誰にもわからねェんだ。些細な事がきっかけで、関係が崩れていくこともあるし、修復することだってある。先のことはあまり考えなくたって、いいだろ。それより「飯、食おうぜ」お前が作るの美味しいから、早く食べたい。素直に付け足せば、つんとソッポを向いた癖に「もうちょっと、待ってて」とキッチンへ戻って行った。


 この瞬間も、形に残せばいつかいい思い出だと笑い合えるのだろうか。毎日が積み重なって、その先にあるものは何なのかサッパリ見当も付かないね。でも、ジャンがいてくれるならそれで、いいんだよ。一番最初に挨拶を交わす人は貴方がいい。ご飯を食べる時も、テレビを見ている時も、そんな些細な日常をふと思い出す時は、ジャンがそのワンシーンの中で輝いているんだろう。色あせても、きっと、ずっと。「ねえ、面白い?」ソファを占領して、薄い液晶テレビを瞳に写している。特に笑うでもなく、時折欠伸をしながら。

「いや、別に」

 何だ? というようにわたしに視線を寄越す。それだけでとても幸せなんだって、きっとジャンにはわからないんだろう。「テレビ、消していい?」そう言うと、驚いたような表情。「ああ」歯切れの悪い返事。何も、ないよ。悪い事じゃない。ただ、明日のことを話そうと思っただけなんだ。

「お休みだし、何処か行く?」
「何、行きたいとこあんのか?」
「うーんとね、サシャが言ってたんだけど……」


 ジャンに近付いて、ソファの片方を空けてもらって、くっつくようにして座ってみる。もう慣れっこだというように、昔のような反応はないのだけれど。覗き込むと視線を逸らす癖は変わってないよね。


 どんな時も側にいるから、信じてよ。未来はどうなるかわからないけどさ、わたし達のしている事は未来を切り開く糧になると思うんだ。両手に持ったブレードをぎゅっと握りしめる。真っ暗だった。みんなとの距離は離れているから、自分の息遣いと少しの音だけしか聞こえない。濃い黒の中で目を開ける。息を吸う。吐く。何でだろう、馬鹿みたいだけど、今すごく幸せな夢を見ていた気がする。いつの時代かな、そう遠くない未来だといいな。姿勢を正して、時を待つ。合図を待つ。アンカーを放ったその瞬間に、暗闇に一筋の光が見えたような気がした。



いつか消えてしまうんならどうか今だけでも幸せだと思わせて