ドキドキ、ドキドキ

 心臓が口から飛び出そう。ドキドキ、ドキドキ。お願いだから、もっと走って。早く、早く。この電車に間に合えば、最後に会えるから。足が千切れそう。制服のスカートが何回、翻ったかわからないし、髪もボサボサだし、顔だって鬼みたいなんだと思う。でも、わたしには巻島くんから教わった自転車を、前へ、前へ進ませることしかできなかった。巻島くんが漕いでくれたあの日は、もっともっと景色が流れていた。決して後ろを振り返らず、前だけを見据えていたね。――大好きだよ、巻島くん。ねえ、それだけなの。伝えたいことは、それだけだよ。





 人が多いし、全然来ないからよくわからないし、間に合ったかどうかもわからない。必死に辺りを見渡して――あ、玉虫色。本当に、彼は良く目立つ髪の毛だ。丁度電話を切って、搭乗口へ向かっている所だった。「巻島くん!!」呼んだら、ユラユラ、髪の毛が揺れた。それから勢い良く後ろを振り返る。「予想外っショ……」瞬きを数回、それから首を傾げる。分かれよ、馬鹿。見送りに来たってことはもう察してよ、恥ずかしいでしょうが。とは思ったものの、最初から巻島くんに女心が分かるなんて思ってはいない。

「こっちのが予想外だって! イギリスって、留学って、まだ、何も、恩返しとか……して、なくて、巻島、くん、行くって、もう、なんでよ」

 泣くな、泣くなわたし。笑って送ってあげようよ。案の定オドオドとした巻島くんが「わ、悪ィ」とか謝ってきた。「謝るなら、最初から――」ああ、言っちゃ駄目だ。嗚咽と一緒に呑み込んで、顔を上げる。滲んだ世界に、キラキラと彼の髪の毛が輝いていた。わたしの青春の色。玉虫色。「ありが、とう」巻島くんが走ってたから、追いかけたくなったよ。自転車に乗りたくなった。教えてくれて、ありがとう。支えてくれて、ありがとう。「自転車、楽しいね」たぶん、ぐしゃぐしゃな顔だ。笑えてるかだってわからない。

「ああ」

 わざわざ、ありがとな。――下手くそな笑顔だった。あの時から変わらないね。巻島くんは時計を見て、搭乗口へと視線をやった。もう、時間なんだろう。ギリギリなんだろう。

 どんなにどんなに走っても、追いつかないなんてわかっていた。気持ちが通じることだってある訳がなかった。アナタの隣をずっと走っていたい、なんて言える筈もなくて。ただ1つ、許して欲しいのです。「すき」笑えていないその笑顔も、楽しそうに坂を登る姿も、不器用なりに優しい性格も、センスの悪い私服も、馬鹿みたいに目立つ玉虫色の髪の毛も「だいすき」それだけを伝えたくて、走ってきました。巻島くんが乗り方を教えてくれたから、わたしはここに立っているんだよ。

「多分、ずっとすき。会えなくてもすき。誰かと付き合って、結婚して、子どもがいても、巻島くんがすきだって思う」

 巻島くんは顔を伏せ「クハ」それから、わたしを見て口の端を上げた。「出国前にストーカー宣言ショ、それ」…………あ。本当だ。わたし、気持ち悪っ。色んな気持ちが込み上げ過ぎて涙が止まらなかった。

「返事、聞くか?」

 わたしは頭を激しく振った。「そうか」巻島くんは小さく頷いた。ポン、距離はあったはずなのに、長い腕が伸びてわたしの頭に手のひらが乗る。「もう、時間だ。行ってくる」優しくて、優しくて、だから余計に辛かった。突き放してくれればいいのに。いっそ嫌いになれるくらいに。

 巻島くんは大きく息を吐いて、わたしに背を向けた。ゆっくりと、でも確実に前へ進んでいく。きっと彼は振り向かない。ユラユラと、玉虫色の髪の毛を左右に揺らして進んでいく。右手が、上がった。あの時と同じだった。苦しくて、苦しくて、まるで坂の途中。

 歓声が聞こえる。近くの団体が、お見送りで来ているようだった。「がんばれよ」「帰ってきたら、飲みに行こう」そんな言葉を背に受け、何度も振り返りながら頭を下げて歩いていた。拍手が、喝采が、ここがレースの最中なんじゃないかと錯覚させる。山の終盤、巻島くんが自転車を倒し、髪を揺らし、登っている。「総北のピークスパイダーだ!」声援が上がる。彼には喝采が良く似合う。応援を背にぐんぐん山を登る。――ねえ、例え見えなくなっても、追い続けてみようと思うんだ。わたしもクライマー向きな性格でしょう? 

 大きな窓の向こう側で、飛行機が宙を切って羽ばたいた。

喝采にまぎれる


 あ、あの! 小野田くん? 次の日の朝、階段を上がっている最中に声がかかる。「どうかした?」もしかして、洋服のことかな。約束したんだった。小野田くんは、大きく息を吸って「コレ!」わたしに手を差し出した。

「……え?」

 不思議な色合いのシュシュだった。本当にセンスを疑ってしまうくらいに。「ま、巻島さんが」……何、どういうこと?

「じ、実は、インターハイ前のえっと、ゴム? が、返せなくて。なんていうか……その、えっとですね」

 そういえば、あの時のシュシュ返してもらってなかった。失くしたから新しいのってこと? 

「巻島さん、切っちゃって! そのお詫びだって、渡して欲しいって」
「切った?」
「切って、ジャージの襟に、縫って……す、す、すみません!」

 なにそれ、なんなの。寒咲ちゃんに持ってもらってって言ったじゃん。馬鹿じゃないの。人が貸したもの切った? 縫った? ……一緒に走ってくれたの? 馬鹿、巻島くんの馬鹿。「あと、伝言、です」小野田くんがわたしを見る。

「絶対、返しに来い! だそうです」
「……ッ、何で上からなの、ムカツク」

 最後まで巻島くんはわたしを突き放してくれなかったね。――絶対好きな人作って、結婚して幸せな家庭を築いてやる。子供に自転車の乗り方をわたしが教えるんだ。中途半端に期待をさせたことに後悔させてやるんだから。

 シュシュを受け取り、おおざっぱに髪を結った。

 きっと、自転車を漕ぐたびにわたしの世界は玉虫色に染まる。わたしの青春の色。キラキラ輝く、玉虫色。センスの悪いお守りが、わたしの背中を押してくれているような気がした。

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