知識を得るということは、時として人生を大きく変える出来事の発端となったりする。

 例えば、わたしが中学生の頃、初恋の味を友人と議論した際に「レモン」「イチゴ」「メロン」などと、自分たちの好きなフレーバーの意見が飛び交う中で、「バカみたい」と鼻で笑った同級生の話をしよう。彼女はそう、群を抜いて大人だった。1つ1つの仕草が色を帯び、周囲の憧れの的だった。男子の間では「マドンナ」と呼ばれ、好意を寄せられていた。すらりと背が高く、綺麗な顔立ちだった。化粧などしていないのに、驚くほどに唇が赤かった印象だけが今も残っている。その赤が、過去の思いでの中で「バカみたい」と紡いだ。覚えている。よおく覚えている。その時のわたしは、わたし達は「何なの、アイツ。モテるからって調子に乗ってさ」と、憤りにも似た感情を彼女に抱いた。わたしは知っているのよ、という見下されたような、ツンとした態度が気にくわなかったのだ。そうするといかに彼女を悪者にしようかと、議論が始まった。「レモン」「イチゴ」と照れながらいう少女は既に死んだ。「ねえ、隣のクラスの陸上部の子がね、見たんだって……」声を潜めて、低い声で話始める女の誕生であった。

「先生とキス、してたって」

 これが知識だ。わたし達のではなく、彼女――マドンナの知識。異性と唇を合わせるという経験。更には愛という形のないものの認識。まだ、早すぎた。人生が大きく変わってしまったのは、時期が悪かったからに違いない。いつの間にかわたしの通っていた学校には、その教師もマドンナもいなくなっていたのだから。




「……で?」

 淹れたてのコーヒーもいつの間にか冷え、苦みが一層に増した気がする。乾きを潤す為に口に含んだはずなのに、なぜだろう、まだまだ足りない。「珍しく人の話を聞いてるとは思ってたけど、続きまで求めるなんて」驚いた。と素直に付け足せば、うるせェ。と反撃の声。テーブルを挟んで向こう側。2人掛け用のソファに1人でふんぞり返り腰をかけている彼は、大きく息を吐いた。「急に何だ? よくわかんねェ」「知識と人生について、だよ」「そこはわかってんだよ」苛立ちが増したようだった。蘭丸がテーブルに置いてあった煙草ケースを手に持ち、雑にソレを叩く。リズムを奏でていた訳ではないのに、なぜだろう。彼がそうすると、自分の為に歌われている気分になる。箱からひょっこりと顔を出した1本の煙草が、今度は机をコンコンと控えめにノックした。喫煙者にはよく見受けられる光景のようだが、彼は特別なんだと思ってしまう。――そう、彼は特別だ。特別な、人間だ。本来ならば、こんな一般人の前でこんな恰好を晒してはいけないのだ。いや、逆? わたしだから、スウェット上下でノーメイクでもいいの? 高校の時からの腐れ縁だから? アイドルの生態とはよくわからない。

「長ったらしい話聞かされて、オチはねェのか」
「お笑い芸人でもないのにオチとか期待されてもさ」

 カチッ、ライターに火が灯り、それが煙草の先へ。じわり、じわり赤くなる先端。吐き出される煙。わたしが知らない、その味。「おいしい?」「あ?」「だって、いつも吸ってる」「吸うか?」「嫌だ。不味そう」「そうか」なんだかんだで会話をしてくれる蘭丸はとても優しいと思う。彼を優しいと知ったこと、これも知識でわたしの人生を大きく変えたと言ったら、彼はどんな反応を示すのだろう。――きっと、わたしはマドンナと同じになる。消えて、いなくなる。ぼうっと淡く灯る火が、あの子の真っ赤な唇と重なる。あれは、知っていた。女として愛される喜びを、少女として周りとは圧倒的な差が生まれた自身の位置を、それを知ったが故の赤さだったに違いない。

「教えてよ、蘭丸」

 首を倒して言ってみる。あれは少女だった。わたしはもう、大人だ。愛される喜びも、捨てられる悲しみも幾度かは経験した大人だ。「あ?」不機嫌そうな声が、わたしの鼓膜を刺激する。「ねえ、美味しい?」ゆっくりと紡いでみた。きっと、人生は大きく変わる。だってわたしは、知ろうとしてる。彼の知識を得ろうとしている。――ダンッと机上が派手な音を立てた。思わず反射で体が跳ね、目を閉じる。乱暴に触れた唇は、あの時想像していた甘さも優しさも愛もなかった。割って入ってきた舌も、口の中も、苦くて苦くて堪らないのに、彼の掌が優しく後頭部を支えるから変な気分だった。ガチャン、音がする。冷えたコーヒーが零れる音がする。気にも留めずにテーブルに乗り上げ、乱暴に引き寄せるこの男が好きで、好きで、堪らない。

 ゆっくりと離れた彼を見据えると、赤い赤い唇が濡れて、光っている。「1本無駄にした」何事もなかったかのように、ケースを叩きリズムを奏でる。彼から視線を外すと、ぐしゃりと先端の潰れた煙草が灰皿に置かれていた。人生の末路を垣間見たような気がして、いたたまれない。「これ、バレたら、アンタのファンに吊るされるの?」「さァな」わたしが消え去るその日までにどれだけ愛されれば、この恋にとどめを刺すことができるのだろう。彼女はその一瞬でも幸せだったろうか。それともわたしを今も何処かで恨んでいるのだろうか。トントン、蘭丸の癖。その音と一緒に「バカみたい」愛を知った赤い唇で、あの時のように見下した声が聞こえるような気がする。


マリヴォダージュ

 ほら、染みになっちゃうから、コーヒー拭かなきゃ。そう伝えたかったのに、口から出るのは悲鳴にも似た嬌声、なんて。

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