恋人ごっこは今日で終演 | ナノ
 何もなかったかのように、彼は何食わぬ顔でわたしの名前を呼んだ。返事をすれば、いつものように「片しておいて」そう頭を撫でて笑った。――わかっていた。それなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。「ああ、バカだなあ」思わず声が漏れたけど、涙は出なかった。

 これがわたしの日常だ。ナナバさんと見知らぬ女が汚したシーツを洗う。そして、あれは夢だったんだ。そうに違いない。そう、思うしかない。ああ、そういえば、そろそろ壁外調査、だ。その手前と後は、特に酷い。だから、最近洗い物が多いんだ。

「ナマエ」
「……ああ、ゲルガーさん。何か用ですか?」
「――ナナバに聞いた。お前、ほんとうに、」

 バカなヤツだな。そう、吐き捨てるように言われてしまった。……知ってるよ、そんなこと。ゲルガーさんに言われなくても、わたしが一番、知ってる。バカな女だって。「もっと、大事にしろよ。頼むから、折角生き延びてんだから、もっと、人生考えろよ。なんで後悔するようなことばっか、お前、本当に」――見てられねぇよ。どうして、ゲルガーさん泣いてるの? わたしの為に、泣いてるの? 茫然としてその光景を見ていた。ゲルガーさんは腕で乱雑に目を擦ると「悪ィ」と何故か謝った。

「わたし……死ぬとき後悔するのかなあ」

 まるで独り言のように、浮ついた声だった。天を仰いで、それから目を瞑る。幾度となく見てきた無慈悲な場面。巨人に喰われて死ぬ、その瞬間。わたしは何を考えるだろう。死にたくない、そう思うのか。それとも、ああ死ねるのか、そう受け止めるのか。――想像して、結局何も答えは出てこなくて、止めた。「ナマエ、そのまま目、瞑ってろ」言われた通りにしていると、ゲルガーさんはわたしの後頭部に手を置いて、そのままわたしを引き寄せた、ようだった。「ゲルガーさん?」目を開けても、視界は真っ暗で。ああ、ジャケットだ。片手が背中をゆっくり撫でる。

「オレはよぉ、ナマエが可愛くて仕方ねぇ。いいか、妹みたいなもんだ。だって、そうだろ。15の時からお前を知ってるんだ、当然だろ。――妹には幸せになって欲しいじゃねぇか」
「……こんな世界でも?」
「こんな世界だからこそ、だ。オレはお前よりナナバとの付き合いが長い。アイツはいい奴だ。だけど恋愛感情を抱いちゃいけねぇよ。わかるだろ? 人を愛せない。ナナバは自分を守る為に、人を愛さない」

 自分を守る為に、人を愛さない……? なに、それ。意味がわからなくて。傷つきたくないってこと? 誰かを愛したら、傷つくなんて、それって「すごく臆病者」つい口にしたけれど、ぎゅっと力の入ったゲルガーさんの手がわたしをもっと体に押し付けたので、くぐもってしまった。

「もしかしたら次が最期かもしれねぇし、次の次かもしれねぇ。お前もオレもアイツも。ただ、後悔はお互いしないようにしたいな」

 肩を掴まれて引き離される。「……ゲルガーさんは、後悔する?」見上げて、そう言えば、ゲルガーさんは肩を竦めた。「ああ。死ぬ間際に酒が飲めなきゃあ、後悔して死ぬだろうな」そうして笑った。

「そんなことで?」
「そんなことって何だよ、オイ」
「……もっと深い話だと思ってた」
「この野郎!」

 わしゃわしゃと頭を乱暴に撫でるので、「やだ、髪の毛崩れる!」と小さく抵抗して。「反抗期か、妹」止んだと思えば抓られる頬。「うー」「すっげえ面」「へるひゃーひゃん」「誰だよ、それ」豪快に笑う彼は、いつものゲルガーさんで。まるでさっきの涙は幻だったようだ。――こんな日々を幸せっていうのかな。ありふれた日常も、幸せに含まれるんだろうか。だって、わたし、今すごく満たされている気がする。指が離れて、少しヒリヒリと痛む頬を擦っても、何故か笑みが零れて。

「わたし、すごく幸せだよ!」

 ゲルガーさんは目を見開いて、それから「そうか」と笑った。「祝い酒でもするか」「ううん。それはしない」「それも後悔の1つになる。絶対な」「ううん、それはない」大きな溜息。それから「じゃあ、行くわ」ゲルガーさんはそう言って、去っていく。残されたわたしは、既に洗い終えたシーツを干して、ナナバさんの部屋へと向かうことにした。


――コンコン。軽くノックをしても何も反応がない。いないのかな? そっとドアノブを回す。「ナナバさん?」覗いてみれば、ベッドに横たわる彼がいた。一定のリズムで動く身体。ああ、寝ているんだ。珍しい。興味本位で少し、側に寄ってみる。壁側に顔を向けているから、表情はわからないけれど。無意識のうちにシーツをなぞった。やっぱり夢だったのかな。痛い部位はあったけれど何かの間違いだったのだろうか。

「この、臆病者」

 小さな声で言ってみる。「わたしなんて傷ついてばっかだよ、ナナバさんのバカ」ポタリ、頬を伝った涙がシーツに染みをつくった。「それでも、いいって、思えるくらいッ、すき、なんだから」――いつも抉られる傷。上塗りされた安っぽい幸せ。そしてまた傷。一生治ることがないんだよ、知っていますか?

 ふと、シーツを見て思い出した。そういえば、わたしが汚したシーツ、洗っていない。捨てた……のだろうか。いや、まさか。備品も足りないこのご時世に、そんなことありえない。3枚を毎日洗って、ようやく間に合わせている状態だった。そういえば、どうして現実味を失っていたかって、わたしが自分の部屋にいたからだった。ちゃんと服も着ていた。ナナバさんが、やったの? それとも他の子?

「……ナマエ?」

 呼ばれて、ハッとする。「あ、ナナバさん」「……また、泣いてた?」体を起こして親指を目尻にあてる。「慰めようか?」わたしは首を振った。「あんな痛いの、もう嫌です」正直に言えば、ナナバさんはそっと視線を逸らして「残念だよ」と言った。それからぐっと身体を伸ばす。

「どうかした?」
「シーツ、干したって報告に。あとは、顔を見に」

 俯いて「そう」と小さく答える彼が何故か儚く映った。「おいで」そう言いながらナナバさんはベッドから足を投げ出して座った。隣を軽く叩いていたけれど、わたしは首を振った。

「……何もしないからさ、頼むよ」

 一度躊躇して、それから遠慮がちに腰掛けてみた。人が1人座れる程度の距離を空けると、ナナバさんは困ったように笑った。「そんなに警戒されると落ち込む」違う、と言いたかった。これ以上好きにならないように、わたしなりのケジメなんです。と。もう、歯止めが利かないの。愛されたわけじゃないのに、たった1度の過ちで、何が幸せなのかわからなくなったって。でも、ナナバさんが膝に肘を乗せて俯くから、何も言えなくなった。

「悪かったよ、本当に思ってる」
「……なに、が?」
「この前のこと。痛かっただろう? 今は? 平気?」

 ――ナナバさんは、本当にズルイ。こうして優しく言われて、引き止められる。離れようとしても、それを一切許してくれない。こうしてわたしは溺れていくんだ。もう、沈む以外に残されていないんでしょ。死ぬまで、ずっと。

「大丈夫、です」
「もう、しない。約束する」

 そんな優しさいらないよ。欲しいのはナナバさんだけ。なのに、そんな気持ちも知らないで酷い人。好きな人に触られてどれだけ嬉しかったか、痛くても怖くても、ナナバさんだから逃げられなかったの。ねえ、わからないでしょう。人を愛せない、アナタには。

「……はい」

 でも、そんなこと言えない。だって辛くなるだけだから。これ以上、この人を好きになってしまったら、わたしはどうなるんだろう。やっぱり後悔、なのかな。ゲルガーさん。

 ナナバさんは顔を上げて、それから力無く笑った。「ありがとう」そしてわたしの頬に触れた。「触れるだけ、許して」悲しそうな顔。ナナバさんの考えていることなんて1つもわからなかった。「はい」ゆっくり、目を伏せた。唇が、触れた。一瞬だった。

「私もわからないよ。この世界でどう生きていけばいいかなんて」

 わたしを強く抱きしめてそう呟くナナバさんは、とても弱い人のように思えた。この人にとって、何が幸せなんだろう。いいや、きっと何も望んでいないんだろう。ただ、その強さで生き抜いたと同時に、失うモノが多すぎたんだ。だから、もう、放棄したのかもしれない。――わたしにもいつか、そんな日が来るのだろうか。傷つくだけ傷ついて、更に自分を陥れるような日々がやって来るだろうか。それとも既にその状況下なのだろうか。

 何かに縋らなければ生きていけないのは、わたしもナナバさんもゲルガーさんもどうやら同じようだった。

(望まなければ失うこともなかったのだ)
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