恋人ごっこは今日で終演 | ナノ
 叶わない恋をした。こんな、世界で。いつ死ぬかもわからない、そんな時代に。せめて生きているうちにたくさんの幸せを感じていたいと思っていたのに、わたしに与えられたのは、絶望ばかりだった。――そう、死ぬ間際まで。

 声が、聞こえる。女の、喘ぎ声が。ああ、この人は昨日の人とは違う。というより、毎日同じであることがなかった。部屋の扉の前でひたすらその行為が終わるのを待つ。息を吐いて、それから唇を噛みしめることは日常茶飯事だった。わたしの唇はいつも切れていて、「女が自分で噛むなよ、柔らかそうなのが一番だ」とゲルガーさんは毎度悲しそうに笑った。一層高い声が上がるのは、もうそろそろなんだろう。ドサリ、大きな物音がしてすぐに、わたしの待ち人は何気ない顔で扉を開けた。

「ああ、いたんだ」
「ゲルガーさんが呼んでいます。急いでください」

 ナナバさんは笑って、わたしの頬に触れた。思わず顔を顰めたのは、その匂いにだ。なんとも形容のし難い、女の体液の匂い。「どうかした?」「……いいえ」それでも触れられた方の幸せが勝るのは、惚れた弱味でしかなくて。ナナバさんはそれを知って、こういう事をするんだということも理解していた。

「さあ、行こうか」
「はい」

 頷けば、颯爽と歩き出す。彼は部屋を振り返ることは決してしない。その背中は、男の人にしては少々細身かもしれないが、とても強い人だ。ここまで生き抜いてきた、強者。コツコツとブーツが鳴る。若い兵士が敬礼をするとナナバさんは笑った。「いいよ、私は気にしない」ひらひらと手を振れば、張りつめた空気が一変する。その中にいた女の子の顔が赤らむのを見て、ああ、そういえばわたしもあんな風だった。少し、昔を思い出した。

「ナマエ」

 名前を呼ばれて立ち止まる。「はい」振り返ったナナバさんはとても意地の悪い笑みを浮かべていた。「ゲルガーの所、もう少し先でいい?」――懲りずにこの人はまた、手を出すつもりか。「駄目です」「それはゲルガーが? それともナマエかな?」「両方」短く答えれば、困ったように首を傾げて。

「今日はまだ1人なんだ。可哀想だと思うだろ?」
「ナナバさんが? 世の中の女が?」
「さあ」

 きっと彼は、優しさを勘違いしている。自分に向けられた好意を絶対に汲み取る。その中の1人がわたしだ。弾いたりしないし、そんな彼に嫌気が差して去る女を追ったりしない。都合の良いように自分も相手も上手に使ってしまう。……とても、可哀想な人。そんなナナバさんに恋をしたわたしを、ゲルガーさんは「不幸なヤツ」と嘲笑った。実際、そうなのだろう。わたしは傍からみたら、叶うはずのない恋に縋りつく痛い女なのだ。重々承知しているし、否定なんてしない。だって、わたしの世界はナナバさんで出来ている。彼無しじゃ生きられないようにしたのは、やはりナナバさん本人なのだけれど。

「ナマエが一番、可哀想だけど」
「……そう思うなら、優しくして」

 わたしが訴えれば「いつも優しいよね?」と、おどけてみせる。本当に優しい人は、そんなこと言わないんだよ。ナナバさん。心中に留めて、大きく溜息を吐いた。

「幸せが逃げていくね」
「ならナナバさんが幸せにしてください」

――本心だ。それに対して困ったように笑って、「行こうか」と足を速めた。この距離は、一生縮まることがないのだろうか。愛した人に愛されたいというたったそれだけのことが、わたしには不可能のようだった。辺りにはたくさん、いるのに。わたしの同期だって結婚したり、付き合ってる人なんてザラにいる。こんな世界でも、だ。もしかしたら、こんな世界だからこそ、なのかもしれない。

「ああ、そうだ。ゲルガーの用事が終わったら、私の部屋を掃除してくれる?」

 あなたと見知らぬ女で汚れた部屋、を。あなたを愛して止まないわたしが。「頼んだ」そう頭を撫でられれば、頷くしかない。その手がわたしを愛することなんて、これからも一度としてないのに、それだけで驚くほど心臓が跳ねる。「はい」細くて、まるで女の人のような指先が唇を撫でた。「あまり噛まないでくれ」「ナナバさんが、そうさせるくせに」いじけて言えば、彼は言うのだ。

「ナマエは本当に、私が好きだね」

 知ってるなら、わたしだけを見てよ。なんて、言えたらどんなに楽だろう。いや、言うのは幾らでもできる。ただ、それが現実にならないと知っている虚しさから、決して口にしないだけだ。どうせナナバさんが何か言えば、わたしに残された答えは「はい」それのみで。だけどいいのだ。彼の側に居られるなら、それだけがわたしの唯一の救いだから。


(踏みにじられた涙の上で君は誰かを愛している)
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テーマ「人外ファンタジー」
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