よいしょっと立ち上がって顔をあげ、一歩足を進めると、目の前に黒が広がった。影がかかったという認識を、銀色の縁取りが否定する。これは衣服の黒だ。つまりどこぞの誰かに危うくぶつかりかけたということで。謝罪をしようとして顔をあげると、黒目がちな大きな目とかち合った。
茶髪の少年だ。あたしより背が高いけど、土方さんほどじゃない。年齢は自分と変わらないとは思うけど、目に宿った得体の知れない輝きが年上か年下かをぼやかしている。服は制服のような雰囲気を放つ黒一色の上下。銀の縁取りが余計に制服感を強めている。何より目を引いたのが腰に下げられた刀。この人、お侍さんだ。
とっさに頭を下げた。初対面の人をまじまじと見てしまうのは良くないし、なによりちょっと怖かった。
これ以上彼を見ていると、硬く封をした『箱』が開きそうな予感がして。
「あ、ごめんなさい。ぼんやりしていて」
「なんでィ。馬鹿女に突っかかって牝奴隷にでも仕立てようと思ったのに」
「牝、奴隷?」
ごくごく単純なワードの結合だ。言葉そのものの辞書的な意味はわかる。けれど、その対象と意図は理解したくない。この人やべーやつだという直感に従ってお兄さんに背を向けて元来た道を戻ろうとした。
見事に昨日のラウンジの再演になった。慣れない着物の裾を踏んづけて上半身が地面へ投げ出される。強かに膝を打った。痛い。胴が叩きつけられる寸前で手をついたはいいけど、角度が悪かったようで鈍い痛みが走った。これは泣きっ面に蜂というものなのか。
「アンタ何してやがんでィ。鈍臭ェ」
「面目ないです」
よっこいせと立ち上がって着物についた小石を落とし、痛む左手を無視して昨日やってもらったように裾を整える。完璧とはいえないけれど、やらないよりはましだと信じたい。
「あーらら、手首が腫れてらァ。こりゃ病院いかねーと」
「多分捻挫ですからすぐ治りますよ」
「そうはいかねェ。市民に怪我させて放置した事がヒジカタさんの耳に入ったらどやされちまう。安心しな。俺ァおまわりさんでィ」
つい先ほどまでホラー映画でグロッキーになっていた人の名前が突然出てきて驚く。
比地方さんとかそんな感じの同じ読みの別人という線も考えられる。いや、東京もとい江戸だから案外同姓の別人なんて偶然もあったりして……。
「言いたいことがあるならハッキリ言えよちびっこ」
「お兄さんおまわりさんだったんだって」
「ブタ箱ブチ込んでやろうかクソガキ」
「普通おまわりさんが牝奴隷とか平然と口にするとは思いませんもの」
「うるせェおまわりだって人間でィ。趣味くらいあらァ」
骨格を無視すれば女性に見えそうな綺麗な顔立ちでとんでもないことを言う。悪魔が天の御遣いを騙ることは珍しい事ではないみたいな意味合いの言葉をなにかの小説で読んだような。この少年はまさしくそれだった。睨み合いの末、痛くない方の手を掴まれる。
「ついてきな」
なんか、ここから拉致られる予感がする。不審がられてるんじゃないかなあたし。こういう時に逃げられる言葉って何があるんだろう。兎にも角にも保護者のところに逃げかえらねば。
「あ、あの、あたしお待たせしている方がいるので失礼しますね」
「送ってやらァ」
「いや、そこまでしていただかなくても」
「アンタみたいなウスノロがネギしょってヒョコヒョコ歩いてたら、あっという間に鍋にされちまうわァ」
「誰が鴨?」
「ということで連れはどこでィ。リードなしの放し飼いはマナー違反だって注意しねーと」
「次は犬?」
この男、結構な頑固者なようで、人を馬鹿にしつつあたしを送り届けるつもりでいるみたいだ。一応親切心から言ってくれている、のかもしれない。言葉がアレなせいで、いまいちそうは思えないけれど。
ちょっと考える。このままこの人を連れて行ったとして、万が一お知り合いでもそうでなくてもお侍さんだし、こんな所でいきなり殴り合う事はないでしょう。それはそれとして、知らない人を連れてくるなってどやされる気はする。仕方なく彼を伴ったまま土方さんのところに戻ろうとして、ある事に気付いて足を止めた。
「どうした」
「その、迷いました」
盛大なため息。ただただ申し訳ない。ぼんやり歩いていたせいで出発点がわからなくなっていた。都会にある割にはこの公園広いのか。土方さんに心配されてるかもしれない。土方さん、岩尾先生に怒られてなきゃいいけど。
「公園の中にいるのか」
「はい。まだ予定がありますから」
「別れたのはどの辺でィ」
「噴水のそばの自販機があるあたり、です」
「随分歩いたな」
「考え事を、していたので」
顔を覗き込まれてどきりとする。この人といい土方さんといい、彼らの目を見ているとどうしてかすべてを読まれているような錯覚に陥る。警察官という職業のせいか。少し怖くなって目をそらすと、顔をガッと掴まれた。土方さんならそこで追撃はしてこないんだろうけど、この人はそういう誤魔化しは許さない性質みたいだ。
「生きてりゃ少しはいいことあらァな」
あれっ。あたし、何を考えていたと思われているんだろう。この分だと適当な通過列車に飛び込みそうとかそんな解釈をされていそうだ。その心遣いそのものは嬉しいけれど、非常に不本意。というか、言葉自体は励ましなんだけど、顔を掴む手はどう考えても励ます意図が見えない。
「別に、自殺企図とかそういうのじゃありませんよ」
「どうだか。アンタは気付いてないみてーだが、今にもおっ死にそうな顔してるぜ」
そんな酷い顔なんだろうか。頬に手を当てて考えてみるけど、鏡がないのに分かるはずもなし。
考え込むあたしをよそに、あたしの腕をグイグイと引っ張り木々の間をすり抜けていく。そういえば、昨日もこんな感じだった。土方さんが腕を引いて、あたしが背中を追って。やり方はまるで違うのに、なぜだか土方さんとこの人は似ている。
「おまわりさん、お仕事はいいんですか?」
「アンタのおかげで仕事サボる大義名分ができて万々歳でィ」
税金泥棒だ。税金泥棒がここにいる。オンブズマンの皆さん、ここに税金泥棒がいますよ!
思わず現実逃避をしてしまうほど清々しいサボります宣言。そのダシに使われているのがあたしか。……うん?サボり?そういえばサボり魔の部下がいるって、あの人言ってたよね。共通の知り合い土方さん。この人の口ぶりから彼の言う土方さんはこの人の上司。そしてこの人もおまわりさん。
「つかぬことをお聞きしますが、おまわりさん、真選組だったりしますか」
「だったりする。……江戸にいながら俺達を知らねーたァ、アンタお上りさんかどっかの姫さんか」
「じゃあ前者で。それで」
――おまわりさんの下の名前、総悟さんじゃありませんか?
続けてそう質問しようとして、厳しい声で自分の苗字を呼ばれた。出会って1日も経っていないけどこの声が誰だか知っている。10分ほど前までベンチに並んで座ってた人だ。体をひねって後方を見ると、冬だというのに額に汗を浮かばせた土方さんが立っていた。「あ、土方さん」と、ほとんど同じタイミングで後方からも一音違わぬ言葉が聞こえたので、沖田さんと二人、顔を見合わせる。やっぱり、彼とあたしの『土方さん』は同じ人を指していたらしい。
「桜ノ宮、てめっ一体どこまで行ってんだ馬鹿野郎!」
「すみません。迷子になってしまって」
「ったく、散歩で迷子たァガキかよ。つーかその手どうした」
「転んじゃって」
「またかよ。大股で歩くんじゃねーって昨日も言ったろ」
「ごめんなさい」
「土方さん、このガキと知り合いですかィ」
土方さんは初めて総悟さん(推定)の存在に気付いたように一瞬固まった。明らかに『見つかったらマズいやつに見つかった』みたいな反応だ。それを嗅ぎつけたらしい総悟さんがニタリと笑う。本性がにじみ出ている笑顔にちょっと引いた。悪魔って契約の時にこんな笑顔を浮かべるんだろうなあ。でも、ああいう反応されたら突きたくなるのは理解できる。この人と気が合いそうだって言ってたのはそういうところかな?
「そ、総悟。てめーは何サボってんだ。黙って仕事に戻れ」
「俺ァ迷子のちびっ子を送り届けようとしただけでさァ。サボりじゃありやせん」
でも口実にしようとしてたよね。
それよりと、総悟さん(確定)が悪魔のスマイル(無料)を浮かべながら続けた。
「おふたりともどういう関係でィ」
言葉に詰まる。下手打ったら取り返しの付かないことになる気がする。この直感はきっと間違ってない。墜ちる墜ちないの瀬戸際に立って足がすくむような感覚、これが安易な発話を不可能にしていた。けれど名案が浮かぶわけでもないのでとりあえず曖昧なことしか言えない。
「お世話になっているというか。なんといいますか」
「ちょっとな」
土方さんの両手から、がちゃんと金属がハマる音がした。いつの前にやらあたしと土方さんの間に立った総悟さんが、土方さんの手にワッパつまり手錠をかけていた。初めて本物見たよ。見ちゃったよ。
「13時2分。ロリコンの容疑で逮捕」
「なんでだァァァァ!!!!」
昼下がりの公園。人気がない一角。土方さんの魂の叫びが曇り空へとこだました。
*
あたしと土方さんは一つのわっかに視線を注いでいた。冷たい輝きを放つ鉄の輪は、身体だけではなく、心さえも拘束する代物だったのだろうか。
まずい。非常にマズイ。あたしも土方さんも、バレたらヤバい。落ちゲーの連鎖みたいな感じで死ぬ。この人を連れてきてしまった責任があるし、あたしがなんとかしないと。
そう思ってとりあえず言い訳を口にする。まずは土方さんとあたしの関係性だ。総悟さんが思うようなやましいことはない。別の面でやましいことはあるけれど。
「……なるほど。親戚中をたらい回しにされていたアンタを引き取ったのが岩尾先生で、土方さんは先生に頼まれて面倒を見ていたと」
「はい、そうなんです。だから先生には感謝しています。もちろん私のわがままに付き合ってくださった土方さんにも」
「へェ」
あ、これ信じてないわ。無い頭を捻って無理やり出した方便なんだけど。一部真実混じってるからリアリティは自信あったんだけど。さじを投げたい衝動にかられる。もういいかなあたし関係ないし、なんていいたくもなる。とはいえ手錠をかけられたままの土方さんを捨て置くわけにはいかない。なんとかうまく弁護せねば。
「おまわりさんが不当逮捕とかしていいんですか」
「俺が正義でィ。俺がロリコンだと思ったので逮捕しやした」
「どんだけ偏った正義だ!!」
土方さんの抗議もご尤も。この人本当に警察?しかしこのお兄さんは意に介さない。これ、あたしの手には負えないな。真選組の方みたいだし、先生に助けを求めたほうがいいんじゃないかな。
「嘘だと思うのなら岩尾先生にご確認なさったらどうですか」
「よし、確認のためにこのまま先生のとこいきやしょう」
「あの、土方さんがロリコン云々は事実無根なのでそれ外してあげてください」
「アンタが本当のこと話してくれたら考えてやらァ」
「本当のこと?さっきので全てですが」
「ウソつけ。昨日の夜、土方がガキ連れて歩いてたって隊士共が噂してたぜィ。連れられてたガキってアンタだろォ」
視界の端で土方さんが露骨に動揺する。ここで、やっとこ踊らされたことに気付いて、機嫌が急降下する。思わず舌打ちが漏れた。地が出てるとかもう関係ない。この人に会ってからかなりボロ出てるし、もう今更だ。
「そう睨みなさんな。折角の顔が台無しでィ」
「最初っから全部知ってて、私がカラッカラの雑巾絞るような感じでひねり出した方便聞いてたんですね。それで顔色全然変えないとかお兄さんの面の皮って戦艦の装甲並みですか?」
「なかなかうまい方便だったぜ。で、
本当のところはどういう事情でィ」
「とりあえず、土方さんの手錠を外してもらえますか?先生のところに戻るので」
ふててる自覚はある。それがあまりに子供っぽい姿なことも。そう、土方さんがぼそっとガキ呼ばわりしてるのもちゃんと聞いてるけど、そんなこと言われなくても分かっている。でもこれ、意地でも付いてくるやつじゃん!あたしにはどうしようもないやつじゃん!どうしろっての!?こうなったら意地でも動かないぞ!
「土方さんにやけに執着してるねィ。惚れたかィ?」
「恩人ですので」
「マジでそれだけ?」
「マジでそれだけです」
お兄さんの目を見上げる。からっ風があたし達の間を通り抜けた。
……人間として好きかと言われれば、まあ好きだけど。それが恋愛かというと、違うんじゃないかな、と思ってしまう。正直、ひよこの刷り込みみたいなもの、拾った人間には懐いとかないと生死に関わるっていう強迫観念込み、そんな好意な気がしないでもない。いや、それはそれとして普通に出会ってても嫌いになるような相手ではないことは分かるけどさ。少なくともこのお兄さんが期待もしくは懸念するような感情を持っていないように思える。
というか失恋確定したわけでもないのに他に目移りは自分が許せないというか。『彼女』が最初っからあたしのこと好きじゃなかったとしても。
「こりゃ重症だ」
「なにが?」
「アンタの無自覚」
「対象は?」
「土方」
「意味がわからない」
「そういうとこでィ」
睨み合いの末、総悟さんは深々とため息をついて土方さんにかけられた手錠を外した。土方さんはやっと人心地ついたと言いたげに深々とため息を付いた。すかさず煙草に手を伸ばしているのはご愛嬌だ。火のついた煙草を咥えて一息。吐き出された紫煙は雲に溶けた。
「で、本当のこと話してくだせェよ、土方さん」
「てめーに話すこたァ何もねェよ。帰れ。今ならサボりも見逃してやる」
「そこまでこの小娘のこと話したくないんですかィ」
「知る必要はねェ。帰れ。命令だ」
今度は土方さんと総悟さんが睨み合っている。自分が関わっていることだけに非常に居心地が悪い。折れそうにない頑固者同士の静かな戦いに逃げ出したくなってきた頃、両手を上げたのは総悟さんだった。
「命令とあっちゃ逆らえねェのが公僕の悲しいところですねィ」
上意下達がはっきりした組織は時に力強く、時に恐ろしいものだ。命令系統の明確化は作戦行動において力を発揮するけれど、命令を至上とする姿勢は時として不適切な方向に突き進む。今起きたのは命令で部下の疑問をねじ伏せる軍隊や警察のあるあるだった。総悟さんも一応組織人なのか、不承不承矛を収めたように見えた。
いや、自分と彼は似ているってあの人いってたよね。……自分が彼の立場だったらどうするか、ちょっと考えて、嫌な予感がしたのでそっと二人から離れる。
「ということで死ね土方」
土方さんが力を抜いた一瞬の隙をついたのだと思う。総悟さんはどこからか照準器が付いた太くて長い筒、携行式の無反動砲、いわゆるバズーカらしきものを取り出し、土方さんに向けて砲撃を行った。横切る後方噴射。前髪を揺らす爆風。上がる土煙。降りかかる土砂。それらを見て満足げな総悟さん。前言撤回。上意下達さえアレな武装集団は軍隊とは言わない。人はそれをチンピラという。
土方さん、大変だなあ……。というか、生きてる?これ死んでない?というかこのお兄さんの頭の中に作用反作用の概念ある?弾の推進のために使うエネルギーはそのまま後ろに筒抜けだからね
無反動砲は。そんなのが頭にかかったら普通に死ねるからね?なんとなく気付いたから良かったものを。
「総悟ォ……てめェ何しやがる!!」
土煙を切り裂いて土方さんが飛び出してきた。しかも抜刀して。バズーカを放り投げた総悟さんも刀を抜いて応じた。鋼と鋼がぶつかりあう硬い音。昼の明るさにも負けない火花。両者は体を退いて互いの呼吸を伺っている。
「しくじったか」
「何年一緒にいると思ってんだ。てめェの腹なんざ読めてるっつーの!」
総悟さんは速度に重きを置いていて、土方さんは……なんだろうな、喧嘩殺法じみている。剣の腕そのものは総悟さんの方が上のように思えるけど、今は拮抗している。
なかなか目にすることのできない高度な打ち合い。お転婆娘を気取っていた頃を思い出して、体が熱くなった。
ダメダメ。自分を律しろって院長先生に言われたんだから。
首を振って二人の打ち合いを見守る。
お互いの軌跡を知っているかのように何度もぶつかり合う剣。それが、土方さんと総悟さんの関係に見える、かもしれない。仲が良いのか悪いのか。
「死ねェェ土方ァァ」
「死ねェェ沖田ァァ」
あ、この人の苗字沖田なのね。真選組の沖田総悟さん。覚えた。これで親しくもなんともないのに名前呼びせずに済む。うーん、この人の名前もなんかで聞いたことあるような、ないような。やっぱり、日本史を選択すればよかったかなー。この際、お二人が平然と死ねって口走ってるのは気にしない。
それにしてもすごい光景だなあ。かたや探し人を放置して剣を振り回す男、かたや仕事と迷子を放置して剣と上司を振り回す男。しかもどっちも警察官。恩人に対して失礼を承知で言いたい。警察官ってこんなのでいいの?これは幕末という動乱期だからこそなんだろうか。……ホント、この世界、いったいどうなってるんだろう。
途方に暮れるあたしをよそに、剣戟は続いた。
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