戸籍と住民票。現代日本を生きる上で重要な役割を果たすこれらは、あたしにとって喉から手が出るほど欲しいものだった。なんせ部屋を借りるにも就職するにも必要になる。保険証がなくて病院に通えないでは困る。風邪をこじらせて死ぬアメリカンサバイバルは勘弁だ。
そんなわけで、血液鑑定の結果を待つ間、二人で住民票やら戸籍やらを作ってもらいに行こうとなった。
間違っても「異世界人です。戸籍ください」なんて言えるわけがないので、攘夷戦争の孤児で今まで無戸籍者として生きていたとして通すって土方さんは言っていた。けどそれって戸籍法とかその辺の法律に見事に違反すると思う。バレやしないか内心怯えていたら、案外すんなり通った。情勢が不安定だった頃の生まれと推定される年齢だからか、土方さんの公務員という身分のおかげか、住所の診療所のおかげか、お役所仕事は雑なのか、あるいは全部か。いずれにせよ今後この人と先生に頭が上がらない。
役所を出て土方さんと並び歩く。平日のブランチの時間は袴の上に羽織といった格好のいかにも仕事中ですって感じの人とか、暇そうな若者、稀にスーツを着た分かりやすいリーマン、こんな感じの人間で構成されていた。
「あっさり手に入っちゃいました」
「まァ特例かつ偽証だがな」
「バレたらどうなるんですかねコレ」
「そん時ゃ仲良く切腹だな」
「痛そう」
「背中から長ドス刺されて失血死よりはマシだろ。なにせこっちは一瞬だ」
嬉しくないし正直思い出したくないので勘弁してほしい。刺されたのは紛れもなく自業自得だけど、それでも自分の意識が失われる瞬間を思い出すのは気分が良くない。アレを思い出すと、できれば忘れていたい考えまで脳裏をよぎってしまう。顔色が変わったことに気づいたのか、小さく謝罪の声が聞こえた。
「これで病院にかかってもなんとかなるな」
「そうですね。ありがとうございます」
唐突に話が変わったけれど、ありがたく乗らせていただく。国民皆保険制度がある先進性にびっくりしているけれど、あればありがたいので機会があれば利用させてもらおう。
「あとは今度小型自動二輪車の免許取りにいかないと」
「二輪!?」
その顔で?とすごく失礼なことを言われた。せいぜい通学にコソッと使ってた程度だけども。
「50ccのをあえて51ccくらいで申請してるだけですよ」
「あーいるなそういうの。明らか50ccのカブをちょっと多めに申請して小型自動二輪に仕立てる奴」
「二段階右折とか、時速30km制限とかなくなって便利なんですよね」
「いや、ちゃんと小型自動二輪買え。事故ってその辺の猫みたく死なれちゃ困る」
「確かに、そんな死に方したら土方さんの枕元に化けて出そうですね」
「局中法度第45条、死してなお化けて出る事なかれ。武士たる者潔く成仏すべし。お前も武士を見習って死んだら成仏しやがれ」
「いやまあ、現にこうして妙なところに転がり出てますし」
「今度の話だ今度。次は迷わず逝けってこった」
「……なんかかっこよさげなこと言ってますけど、要は幽霊怖いんですよね」
幽霊が怖い、というのは直感に過ぎない。けれど急に真選組の法度を持ち出す土方さんは怪しい。まるでそこを突っついてほしいと言わんばかりだった。
「い、いや、そんな事ないから。幽霊とか俺がメンチ切っただけで退散するから」
土方さんの動きが目に見えてぎこちなくなる。煙草を持つ手が震えている。ニコチン切れ、というわけでもなさそう。
「あ、あそこに足がない女が……」
がしゃん、ばちゃんと音がしたのでそちらを向くと、道端にある消火用の桶に頭を突っ込む不審な着流しの男がいた。さっきまで談笑しつつ隣を歩いていた男と同じ背格好だ。他人のふりをしたい。もちろん自分が原因だって分かってる。
「いいいや、これは別にゆゆゆ幽霊が怖いとかそういうんじゃねーから。胎内回帰願望が」
「羊水にしては冷たくない?」
予想を超えた反応に一瞬地が出たけれど、動揺する土方さんは気づいていないみたいだ。煙草の火をつけるのに四苦八苦する土方さんを横目にこっそり息をつく。そして冷静ならざる土方さんを観察してみる。
唇が震えているせいで煙草の先端が上下して落ち着かない。顔を手拭いで拭っても、冷たい雫が彼の肌を濡らしている。顔色の悪さも寒さとマヨネーズのせいだけじゃない気がする。怖くないっていうのは強がりなんだろうな……。それにしてもこれは面白い情報だ。怖いものなんて何もないって顔をしているこの人が、実際には幽霊に怯えている。これをいじらない手はあるだろうか、いやない。
「そうですよねー。土方さんともあろうお方が、幽霊が怖いなんて、まっさかそんなことあるはずがありませんよね〜」
「なんだよその目。俺ァ別に幽霊なんて怖くねェよ。なんならホラー映画とかお化け屋敷とか大好きだし?行けるなら毎日行きたいぐらいだし?」
「あ、ちょうどいいところに映画館がありますよ。せっかくの休暇なんですし行きましょうよ。大好きなホラー映画を見に」
「あ、ああ……そうだな……」
おどろおどろしい文字でタイトルが書かれた大きなポスターを指差すと、土方さんの顔色が更に悪くなった。頑張って笑みを浮かべようとしているみたいだけど、迫力満点の泣く子も黙る感じの雰囲気。既に通行人の皆様はドン引きしている。下手なホラー映画よりもこの人の顔のほうが怖いに違いない。非力なパンピーにとっては、幽霊よりも生身の人間のほうが怖いものなのです。
あたしは笑いを堪えるのに必死だ。自ら墓穴を掘っていく人間を直ぐ側で見守る。なんと面白いことか。恩人に対してこの仕打ちはないんじゃないのとか、頭が上がらないって言った矢先にこれかよとか、あんまり他人と仲良くすると怖いなとか、そんな風に思ったりしなくもない。けれど、それはそれとして面白いものがあったら遊びたいと思うのも人情。我が事ながら趣味が悪いとは思う。けど、こんな風に、ある種の色眼鏡なしで他人と接するのは、随分久しぶりで、正直気が楽だ。つまり気が緩んでちょっと趣味が全開になっている。
「じゃあ行きましょう!……あ、でも、私はお金持ってないので、土方さんが一人で観に」
「いや、映画代くらい大した事ねーよ。ポップコーンとドリンクを付けても良い。お前を一人で待たせてナンパか人さらいにでもあったらコトだ」
男前なことを言ってくれているのは嬉しいけれど、引きつった顔のせいで魂胆が読めてしまう。あたしの手を握る土方さんの手が、じっとりと汗ばんでいるのには突っ込まないことにした。あんまりからかいすぎると可哀想だ。
「そうですね!張り切っていきましょう!」
「なんでそんなテンション高いの?」
そりゃあ、土方さんがすごく面白いから。
口に出さずにこっそり笑った。
*
映画はいつだったかに観た、ホラー映画を観ない人でさえ知っている彼女のやつだった。これ、こっちにもあるんだ……。世界の違いか多少記憶と食い違う部分はあれど、何度か観た話だったのでポップコーンを食べながらぼけーっと観ていた。映画そのものよりも隣の土方さんが面白かった。なにせ、怖いだろうにスクリーンから一切目をそらさず、上映中ずっと手を離そうとせず、と強がりのせいで一歩も引けなくなった哀しい大人の姿を晒してくれたのだから。ただ、恐怖の山場で手を握りつぶさんばかりに握られるのは痛かった。
人間って素直なのが一番生きやすいんだね、きっと。素直なのがかっこいいかは別にして。
昼下がりの往来は賑やかだ。土方さんはどこかげっそりした感じで歩いている。なぜか手は繋いだまま。彼にとっては、ロリコン扱いよりも映画の方が怖かったらしい。
「面白かったですね」
「そう、だね……」
「すみません。つい調子に乗ってしまって。その、そこの公園で休みましょうか」
「いや別に俺は大丈夫だ。全然怖くなかったから。もう一回観たいくらいだから」
申し訳ないと感じる心が追いやられるくらい見え見えの強がりだ。ここまで筋金が入っていると、最早天晴と言うか。煙草を取り出す手が携帯のバイブみたいに震えているのに、怖かったとは言えない辺り、エグいレベルでプライド高い人なんだな。ここは気付かないふりをして、機会があればもう一度映画に誘ってあげよう。今度は普通のアクションとか。
「んー、すみません。私、慣れない下駄で足が疲れちゃいました」
「体力ねーな。仕方ねェ、休憩するか」
仕方ないと口では言いながら、公園のベンチにたどり着くなりぐったりと座り込んでしまう土方さんを見ていると、なかなか大変な生き方をしている人だなと思ってしまう。そんな人を振り回してしまったことに、わずかばかりの罪悪感。それはそれとして楽しかったんだけど。
「温かいお飲み物でも買ってきましょうか?」
「ああ、悪ィ」
自分の財布を片手に自販機の前まで歩いて、はたと気付いた。お金違うわ。材質は似通っていた記憶があるから、もしかしたら通るかもだけど、まさか警察官の前でそんな
詐欺はできない。自販機の下を覗き込みたい衝動にかられて、いやいや見苦しい事はできないと首を振る。渋々土方さんのところに取って返した。
「どうした?」
「すみません、お金違いました」
「間抜け」
非常にシンプルな罵倒だった。というかこの人曲がりなりにも17歳の少女相手に全く遠慮しないな。いや、あたしが遠慮してないのに、あっちが遠慮する義理はないな。昨日の夜はベッドを巡ってずっと言い争いしてたし、さっきなんてお化けの類が苦手って知っててホラー映画観せたもんね。そりゃあもう遠慮なんてされるはずもなし。
「行ってくる」
「もういいんですか?」
「足疲れてんだろ。休んでろ」
子供にやるみたいにくしゃりと頭を一撫でして土方さんが自販機に向かった。さっきまで繋いだ手を離せなかったとは思えないほどにしっかりした足取りだ。ホラー映画のショックは抜けてくれたみたいで安心した。小銭を落とすことなく自販機にお金を投入するのを見守って、視線をずらした。和服の市民の向こうにはビルがあって、四角く切り取られた空がある。今日は鉛色の雲が垂れ込んでいる。行きしなに付けたテレビでは雪が降ると言っていた。確かに、今日がそうであるように、雪が降る日は湿度が高いから暖かい。予報は当たりそう。ちょっと憂鬱だなあ。慣れない和装で雪って。転びそう。
などと考えている内に土方さんは買い物を終えたらしい。片手に缶コーヒー、もう片方は……ほうじ茶ラテ?元いた場所でもそんなのあったなあ。美味しいのかな。マヨネーズ中毒の味覚ってどのくらい信用できるんだろう。失礼なことを考えながら彼を眺めていると、顔が背けられた。寒さのせいか耳が赤い。
「女子供なら、甘いもん好きだろ」
それは偏見な気がするけれど、いちいち突っ込んでも仕方がないのでとりあえずお礼を言って受け取る。あたしは甘い物好きだし。ぶっきらぼうに返事をした彼は、静かにベンチに座り、缶コーヒーのプルタブを開けて缶を傾けた。あたしも彼に倣ってペットボトルのキャップをひねる。寒さで指がかじかんでいたけれどすんなり開けられた。
「あ、おいしい」
「ならいい」
新発見。ほうじ茶とミルクって合うんだ。日本茶に砂糖なんて邪道なんて偏見を今の今まで抱いていたけれど、それを一発で吹き飛ばす美味しさだ。なんというか、無名のスポーツ選手が世界大会に出てきて「何だコイツ?」と思ったら、すごい活躍をしてみせたときみたいなシンプルな驚き。
「降りそうですね」
「そうだな。飲み終わったら一旦戻るぞ。さっきからジーさんがうるせー」
こちらに向けられた携帯の画面を見ると、そこには不在着信がいくつか。全部岩尾先生からだ。映画見に行くなんて言ってないものね。心配させてしまったかもしれない。
「ったく、明らかに疑ってた癖に、一体どういう風の吹き回しなんだか……」
不満を漏らしながらリダイヤルする土方さんを尻目に、あたしは少し歩いてみようと思い立った。指二本を地面に向けて歩くように動かしながら地面と水平にぐるりと回して、『ちょっと歩いてきます』と伝えたら、犬でも追い払うように手を振られたので、多分大丈夫だ。
歩いているといろんな人がいる事がわかる。杖をついたおじいさん。それにゴザを引き鉢を置いてじっとしている托鉢僧。……にしてもこのお坊さん、お坊さんなのに髪長いな。そして、寒いのに元気に走り回る子供。
不意に、固く封じた『箱』が開きそうなのを感じて、首を振る。ただでさえ平常じゃないのに、それまで開いたら、自分は平静を装っていられない。
気を紛らわせるために、人気のない場所にふらりと入り込んでいく。
公園を一人歩きながら思うのは、死ぬ、いや意識が落ちる寸前のこと。
もうすぐ、罰を受ける時間が始まるから、楽しいことなんてもう永遠に起こらないのかもしれない。
あの時はそう感じたのだ。あの娘は、『彼女』は、そう思ってしまうくらい、好きな人だった。だけど、そう思ったのを今の今まですっかり忘れていた。土方さんをからかうあたしは、楽しかったし、笑ってもいた。薄情だなと思う。あたしってこんなに薄情……だったか。あんなことをしてたった一人生き残っても、つい昨日までのうのうと生きていられたんだ。これで薄情じゃなかったらなんなのか。
なんで今も生きているんだろう。この命は何のためにあるのだろう。約束も家族を守れず、この手を汚し、沢山の人を傷つけ、そして仇討ちされて倒れた人間が、なんで今も息をしているのだろう。やらなければならない事があると仮定しないとつじつまが合わない。自分が生きているのは道理が通らない。じゃあ、その、やるべきことって一体なんだろう。ないはずは無いのに、見つからない。
医者になって、土方さんに恩を返す?違う気がする。それに、意図的に目をそらしていたけれど、先生の目を見て思った。あたしみたいな人間、あたしみたいな人殺しに、医者になる資格なんてないんじゃないかって。
あたしは、どう生きればいいんだろう。
歩いている内に苦しくなってきて、ここが往来だってことも無視して座り込む。誰もあたしを知らない。あたしも誰も知らない。戸籍があっても、あたしは自分が何をしたら良いのかわからない。宙ぶらりんだ。自分の足元さえおぼろげな暗闇に放り出された気分。
嫌だなあ。こんな風にしてるとこ土方さんに見つかりでもしたら、また心配される。あたしはぴしゃりと一発、両頬を打って立ち上がった。大丈夫。まだ歩ける。
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