置いてけぼりにしたバイクが回収され、副長の手術が終わり、他の隊士の手当を行った後でミツバ殿の様子を見に行くと、うなだれながら容態を聞く隊士達に混じって話を聞いている伊坂さんと目が合った。ほぼ面識のない人の事であるはずなのに、悲しげな目をしていた。
「人斬り先生、戻ったのか」
「伊坂さん、すみませんねお願いしちゃって」
「それはいい。いや、先生……またエラい状態だな」
「まあ、色々あったものでして」
確かに、目立つ場所は綺麗にしたものの、まだまだ拭いきれない血があっちこっちについているのだろう。これはクリーニングか新調か。安上がりなのはクリーニングか。
「ありがとうございました。伊坂さんが教えてくださったおかげで危険を未然に摘み取れました。……けれど、無断外出はやめてあげてくださいね」
「儂は死ぬまで自由に生きる」
お約束の会話だ。病棟が違うので強制できないし、もはや世間話に等しい。伊坂さんなりに思うところがあって外に出ているんだろうし、強くは言わない。
ちらりとガラスの内側に目を向ける。沖田姉弟が最後の会話をしているところだった。二人がどんな会話をしているのか、それは部外者のあたしにはわからない。けれど、彼女の事だ。最期の最期まで、きっと、弟である彼の身を慮ったものであるのだろう。
――僕は、姉さんが、生きていてくれて、嬉しかった。
あたしよりもずっと大きい沖田さんの背中が、今は細く小さいものに見えた。彼らの姿に、別れ際の弟を思い出す。肋骨が心臓に突き刺さったと思うような痛み。胸が痛むせいか、視界がにじむ。見ていられなかった。
「……すみません、一服してきます」
向こうには聞こえないかもしれない程度の声で一言断り、彼らに背を向ける。喫煙所を素通りして、屋上に向かう。ペントハウスと外を隔てるドアに手をかけ、ノブを回す手が固まった。押し殺した声が聞こえてきたからだ。重たい扉の向こうに、土方さんがいた。風の中に混じってかすかに聞こえる声は、泣いているように聞こえる。おそらく、煎餅を食べて、その辛さに涙を流しているに違いない。この推測はほぼ正解だろう。なんせ、意地っ張りの本人がそう言っている。
……これはあたしが入っていったらいけないな。しかし、屋上という選択肢が消えたのなら、本当にどっかで一服してくるしかないか。懐を漁ってシガリロの残量を確かめる。まだ何本か残っている。
ここ数日でもう三本は吸っている気がするけれど、たまには週に一本のゲッシュを破ってもいいだろう。
スチールの重たい扉に背を向けて、階段を下っていく。行きしなは素通りした喫煙所の硝子のドアを開ける。明け方の硝子の檻には誰もいない。当直なのに暇を持て余したセンター長がいる時もあるが、今日は彼の姿はなかった。昨夜の救急センターは繁盛したのか、彼がいないのはラッキーだ。いや、救急が繁盛するのはよくないんだけど。
灰皿が置いてある分煙機にもたれかかって、廊下に背を向ける。いつも通りに火をつけて、一吸いができない。唇がわなわなと震えて、葉巻を咥えられない。煙がしみて涙が止まらない。灰皿にシガリロを置いて、両手で顔を覆った。
どうして、善い人ほど。
どのくらい、そうしていたのか。涙を拭って、顔を上げる。北向きの窓から見える空も、少しずつ白み始めていた。
*
桜ノ宮すみれがスチールの扉に背を向けた時、扉の外側では、一人の男が松葉杖をついて、朝陽を見つめていた。土方十四郎。真選組鬼の副長である。彼は桜ノ宮が推測した通り、激カラ煎餅をかじりながら、涙を流していた。
敵意のない人間の気配にはとんと疎い桜ノ宮は屋上に存在するもう一人の人間の存在に気が付かなかった。坂田銀時。彼は集中治療室で沖田の背中を見るでもなく、さりとて帰るでもなく、ペントハウスの影で空を見上げていた。
一人分のおさえ気味の足音が階段を下っていくのを聞いた坂田はこりゃすみれ先生かな、と当たりをつけた。連中はあそこから動かないだろうし。
二人の女の顔を思い出して、そこから連鎖的に、沖田ミツバの容態が急変する前に話した事を思い出す。
また会いましょうという言葉に振り返る事なく立ち去った桜ノ宮。おそらくは屋上に向かったのだろう。
「――あら、行っちゃったわ」
「愛想がねェなあ」
「ふふ、あの人にそっくり。ああやって、振り向きもしないのよ」
「想像できらァ」
「でも、すみれちゃん、手を離すと倒れてしまいそうにも見えるの」
「あー……」
坂田は、桜ノ宮と飲んだときのことを思い出した。
おそらくは例の決闘の末に大怪我を負ってそれから復帰したあの女は、一人で酒を飲んでいた。彼はたまたま入った店に彼女がいるのを発見して、ちょうどいい金づ、ではなく知人がいるとすり寄ったのだ。しかし、近づくにつれ、彼は足を止める。
愛用のシガリロをふかす彼女の目があまりにもうつろだったからだ。彼女は昏い目で、グラスに浮かぶ氷を見つめていた。それで怖気づかないのが坂田銀時という男だ。彼女の尋常ではない顔を見ても、彼は平然と隣に座り、彼女と同じ伝票で酒を頼む。
「景気悪そうな顔してるねェ」
「あー、旦那ですか。こんなところ知ってたんですね」
「この街のことならなんでもござれだ」
「知り合いに出くわさないからここにいるんですけどね」
わかったらとっととどこかに行けと言わんばかりの態度だ。このふてぶてしさ、彼女の上司の、坂田が心底気に入らない男によく似ている。
「なんか悩みがあるなら万事屋に依頼とかしない?今月も家賃溜まってんだ」
「働け」
「いまここで求職してますゥー」
「あたしに集らんでくださいよ。……ただ、取り返しのつかない事を悔いている。それだけです」
そう言って彼女は榛色の目を伏せた。
「――銀さん?」
沖田ミツバの声に意識を引き上げる。あの昏い目は、彼女の脆さを端的に表している、坂田にはそう感じられた。この女も聡いから見てわかったんだろうな。坂田はそう結論づけた。
「悪ィ。今日の夕飯考えてた」
「あら、何にするつもりなんです?」
「豆パン?」
控え目な笑い声が上がった。しかし、少し困ったように目を伏せたミツバは、話を戻す。
「彼女、倒れてしまいそうだから、お願いしちゃったの」
「へェ、弟さん?」
「ううん、違うわ。――あの人の事」
「そりゃまた……」
門外漢に近い立ち位置の坂田にさえ、ミツバと土方の間には並々ならぬものがあるとわかったのだ。おそらく、少なくとも彼女は彼を愛している。その彼女が、愛する異性を他の女に託す。それにいかほどの覚悟が必要だったのか。
「きっと、彼女は、約束を破らない。あの人についていくと決めたら、きっと最後までやり遂げる」
「健気だねェ、アイツも、アンタも」
ミツバは笑い、そして思い出した話があるかのように、話を変えた。
「――銀さんは山崎さんと何をお話していたんですか?」
その後、ミツバは喀血し、集中治療室で手当を受ける事になり、そのまま息を引き取った。
銀時はミツバとのやり取りを思い出しながら、激カラ煎餅をひとかじりした。
*
葉巻の煙が目に染みたせいで出た涙を拭い、喫煙所の入り口に目を向けると、土方さんがいた。彼は硝子の檻のドアの取手を握ったままの状態で固まっている。慌てて立ち上がり、引きつった笑いを浮かべた。
いつからいたのか、表情を伺っても、少しうつむき加減なせいでわからない。いっそ何か言ってくれれば、話を合わせるんだけど、そんな様子もない。勘弁してくれ。
「あ、いや、煙が目に染みて。吸い方、あんまり上手じゃないみたいで。はは、煙草吸うの、向いてないんですよね、きっと」
喋っている内容にまとまりがない。あまりにも言い訳がましすぎてかえって怪しい。これなら何も言わない方がマシかもしれない。
「ほ、本当ですからね!?」
土方さんは無言でドアを引いて入ってきた。
「いっこも吸わずに目に染みたのか」
灰皿から一本つまみ上げて、涼しい顔で言われてしまう。燃焼剤が入っていないシガリロは、吸わなければすぐに火が消える。確かに一口も吸っていなかった。どうやら結構な長さが残っていたらしい。
「そうなんですよハハハ。それでは失礼します〜」
「待てよ。ライター忘れたから貸せ」
「じゃあこれ」
「手がふさがってるからお前がつけろ」
その言葉の通り、土方さんは煙草を取り出して咥えたまま、手を動かす様子がない。逃げようにも土方さんの手の片方は自分の腕をがっしりと掴んでいる。振り払ってもいいかもしれない。でも、今のこの人にそんな事はできない。仕方ないとため息をついて、もらったライターの火をつけて差し出した。
「悪かったな。俺達が出払っていたせいでお前一人に『大蔵屋』を任せちまって」
「私も、伊坂さんがいなければ、ここを戦場にしていたので、お礼や謝罪は伊坂さんに」
「あのジジイか。紅桜の話もそのジーさんから聞いたんだったな」
「はい。影の功労者ですよ。それはさておき、脱走には困ったものですけれど!」
「大丈夫か」
「伊坂さんなら――」
「違ェ。お前だよ」
思わぬ言葉に土方さんの顔を仰いだ。映画館を除いては滅多な事じゃ涙を流さないこの人が泣いていたのだ。大丈夫かって言いたいのはこっちの方だ。だってのに、なんで自分を気遣うんだろうか。胸が痛むのに気が付かなかったふりをして、声を張る。
「私は、大丈夫です」
「そうか。自衛以外で自発的に斬りに行ったのはこれが初めてだったろ。だからもう少し精神的にきてるんじゃないかと思ったが、そうでもねェみたいだな」
こちらが気を遣うべき人に、自分が気を遣われるのはかえって辛い。
「これでちょっとはヘコんでたら可愛げもあったろうに」
「そんなの今更ですよ」
「そうかもな」
喫煙所に沈黙が下りる。彼の唇から煙が吐き出されたタイミングを見計らって、声を出した。
「土方さんは、大丈夫ですか」
「……誰が死のうが、俺達のやる事ァ変わらねェ。浪士共たたっ斬るだけだ。俺ァ最期まで真選組として生きるだけだ」
その生き方では、彼女を幸せにはしてやれない。だから、彼女と連れ添うことができなかった。なら。
「なぜ、あたしの話は受けたのですか」
「言っただろ」
知っている。けれど、聞かずにはいられなかった。なぜ彼女は拒み、あたしは受け入れたのか。それがどうしても理解できなかった。
「俺が死んでも真っ直ぐに立って歩ける女の心当たりが、お前しかいなかったんだって」
知っている。けれど、自分は、自分の感情を信用できない。この恋慕らしきものは、何に根ざしているのか。路地裏からの刷り込みなのか。それとも。
第一、本当に好きだったとして、それはそれで、問題が生じてくる。医者と患者は、そこに余計な関係を持ち込んではいけないという医療倫理の問題だ。要は、医者と患者の間の恋愛は断じて認められないって事だ。怪我や病気をしていない間は患者さんじゃないけれど、ここは真選組だ。今回みたいに何があるかは分からない以上、職業上の境界線を踏み越えて、結果彼に対して不利益をもたらす事態はあってはならない。
二度と不誠実はしない。彼女の手紙を受け取ってから、そう誓った。
どちらも不誠実だというのなら、大きな不誠実よりも小さな不誠実を選ぶ。
「やっぱり、あの話なかったことにしませんか」
「断る」
「どうして」
「さあな」
吐き出すように言われたそれには、嘘や誤魔化しは感じ取れなかった。それ故に何かを言う事もできず、黙り込むしかなかった。
小さく切り取られた青空を睨む。こんな時だってのによく晴れている事で。
*
葬儀の日は快晴だった。あまり接点のない自分が葬儀に参加するのはいかがなものか、と最初は屯所で留守番していようと思ったのだけど、沖田さんに引きずられるようにして参加した。
お経が唱えられて、線香が炊かれている畳の部屋。覚えている限り3回は出たけれど、どれ一つとしていい思い出がない。
物思いにふけりながら、沖田さんの背中を見る。背筋をしゃんと伸ばしていても、いつもよりも少し弱々しく思えてしまうのは、この葬式が彼の最愛の姉のものであるからか。そう。沖田さんの姉上、沖田ミツバ殿は亡くなった。伊坂さんが言うには、あたしがどっかに消えてからしばらくして、息を引き取ったらしい。沖田さんの事は敢えて聞かなかった。
焼香を終え、出棺し、火葬場に向かうバスに乗る。いつも霊柩車の方に乗っていたから、バスに乗ったのははじめてだ。車内には重苦しい空気が満ちている。誰も何も言わない。自分も何も言わなかった。
やがてバスは火葬場についた。棺を焼く前に、手を合わせてお経を唱える。それも終わっていよいよ焼骨だった。
「沖田さん、大丈夫ですかね」
「お前、総悟と同じ事言うんだな」
「え?」
「お前の弟の葬式の時もアイツ、お前と同じ事言ってたんだぜ」
「そうだったんですか。心配をかけてしまいましたね」
「奴なら大丈夫だ。今はそっとしておいてやれ」
「そうですかね」
「後追いしそうなら俺達で止めりゃいいだろ」
「……あの人、絶対土方さんより先には死にませんよ」
「だろうな。俺もアイツより先に死ぬつもりはねェ」
まあ、この人がいる内は、沖田さんは意地でも死なないだろうな。男性のそういう関係って少し羨ましい。
「あたしも土方さんより先には死にませんから」
「だといいがな」と鬼は笑った。
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