「――こんな世界、なくなればいいと思わないか」
自分は一体何か。何をすべきなのか。
答えのない迷路に迷い込んだ人間に、それは甘い誘いだった。闇夜に煌々と輝く誘蛾灯と喩えると丁度いいか。自分を焼く光だと理解していても、飛び込んでしまいそうになる光。
でも、違う。自分の奥底が、違うと叫んでいた。
ちらりと弟を見る。突き動かされるような感情は、父親と約束した時と何も変わらない。
映像の中の『彼女』を思い出す。あの時、言いそびれた事があったのだ。もし、ここにいるのならそれを伝えたい、そう思うのも、昔と変わっていない。『彼女』がタダでやられるタマなものか。
過去に思いを馳せる。いくつもの手の温かみを覚えている。みんな、碌でもなかった自分にも手を伸ばしてくれた、大切な人だ。……自分はそれをマトモに受け止められなかったけれど。
今に目を向ける。清々しい笑顔で笑う近藤さん。いつも通りに飄々としている沖田さん。それに、仏頂面で煙草を咥える土方さん。周りにはたくさんの隊士がいる。
おそらく新型兵器と思しき刀。護るべき対象の存在。そして、好きだった人。自分が置かれた状況を考えて、その上で答えを出す。
「興味がない」
答えるよりも早く抜刀し、刀をぶら下げた右腕を斬り落とした。あっさりと肉と骨を断つ感触。鋼が突き刺さる音が制御室に響く。白い部屋に赤の装飾が描き足された。
「痛いな」
「自分が何から生まれても、例え別物であっても、関係がない。あたしが桜ノ宮すみれを名乗っている限り、やるべき事は変わらない。桜ノ宮すみれの願いは、何一つ変わっていない」
悩む事なんてなかった。名前を借りた別物であっても、変わらないのだ。守れなかった約束を、今度こそは守りたい。取りこぼしたあの日から、ずっと願い続けていた。出発点が同じ限り、何から生まれても、願いはきっと、変わらない。
「その願いを折ろうと言うのなら、次も地獄に送る」
「強いな。それが、心底鬱陶しい」
太いコードやパイプが、腕のない胴体から飛び出した。蛇のようにうねる束の先には、転がっていたはずの紅い刃がある。
一閃が見えたのは日頃の鍛錬の賜物と言う他ないだろう。背後にあった制御室の硝子が粉々に粉砕される。
この太刀筋。居合で有段者だった父親より上かもしれない。目の前の彼がそこまで剣の達人だったとは聞いてないから、多分これは刀の恩恵だ。人間が剣を振るうのではなく、剣が人間を使っている。
どっこいしょと制御盤に体をもたれさせた。うねうねと蠢くパイプ類が、こちらを威嚇するように、尖った先端を向けてくる。
「寄生」
「コイツは人工知能を有していてね。使用者に寄生し、戦闘経験を重ねそれを元に体を操る」
「なるほど、それで戦艦並みの戦力か。そんな大層な
機械の割に、しょっぱい太刀筋だ。遣い手の腕が悪いな」
振り落とされる斬撃を制御盤を飛び越え向こう側に飛び込んで避ける。硝子の破片が服に突き刺さったのにも構わず逃げる。逃げるだけなら、この兵器にも負けない自信がある。しかし問題は反撃だ。相手がアレなら、一撃入れられるかさえ正直怪しい。
真正面からやりあっても負けはしないけれど、勝てもしないだろう。それは分かりきっていた。
バリケード代わりに倒した本棚が斬り飛ばされて、隣の棚が吹っ飛び、中に押し込んであったタブレット型端末が飛んできた。偶然キャッチして、目を通す間もなく持って逃げる。
このまま逃げ回っても、勝てはしない。弟から引き離せたのはいいけれど、この先どうするか。
さっきまで充電スタンドに放置されていたらしい端末は十分稼働する。パスを要求されて、適当な番号を何度か打ち込むとあっさり通った。これ、個人的に持ち込まれた端末だな。パスは誕生日の逆打ちっぽい。
「うーんどれがどれやら」
適当なアプリを開くと被験者のリストが出た。興味はあるけれど、今はそんなものを見ている場合じゃない。弄っている内に研究所内の地図が表示された。
「現在地は……」
今自分は奥の緊急脱出口に向かっているらしい。その出口付近に、気になるものがあった。
「起爆スイッチ」
よく見ると、坑道のように山に張り巡らされたこの秘密研究所の壁に、爆薬が埋め込んであるようだ。隧道に崩落の危険があるって、わざと崩すから危険なのか。起爆スイッチはこの爆薬を起爆するためのもののようだ。端末からシャッターも操作できるようだけど、流石にこの起爆スイッチはいじれないようだ。
仕方ない。自分で行こう。回り込んでこっちに来た刃を躱して出口めがけて走る。懐の無線の感度は良好。
「土方さん聞こえますか、桜ノ宮です」
「どうした」
「トンネルの真ん中あたりに出入り口があるのでちょっと探してもらえますか。そこから進んだ先にちょっと保護して欲しい人がいるので、その人だけ回収して、後は山から離れてください」
「何?」
「相手は新型兵器を使用。真正面からは無理です。研究室ごと埋めます。後で追いつきますから、早く」
「おい、何するつもりだ」
待ての声を聞き入れずに一方的に無線を切った。階段を駆け上がり、シャッターの制御スイッチを押して閉じ込める。
「使えるものは何でも使えってね」
紙のように引き裂かれるシャッターの音を聞きながら、階段を上りきった。
出口は山の山頂付近にあった。なんとしてもそこまでたどり着かないと。
「桜ノ宮、聞こえるか!?出入り口を破壊して突入した。今階段を降りてる。早まったマネするんじゃねーぞ!」
カンカンと階段を駆け下りる音をBGMに土方さんがそんな事をがなった。それが相手にも聞こえていたのか、彼はこちらに背を向けた。それはまずい。背骨を叩き切るつもりで振り下ろした刃は、妖しく光る巨大な刃に押し止められた。
「ようやくやる気になったのかな」
「喜んだらどうだ。やっと一撃入れるチャンスが来たって」
逃げに徹したあたしに一撃も入れられないくせに。暗にそう言ったのが伝わったのか、眉間にシワが寄った。狭い廊下だ。横に薙ぐのは難しかろう。突きを躱し、鉄槌のように降ろされる正中を捉えた一撃を避けて、心臓めがけて剣先を突き出した。
確かに当たるはずだった。でも、直前で、嫌な事を思い出した。大学構内で一人ぽつんとベンチに座って弁当箱を膝に乗せていたこの人と、並んでご飯を食べた。満ち足りた頃へ戻りたいと願う心が、土壇場で剣筋に迷いを産んだ。
必殺を狙った一突きは、がくんと勢いが落ちて、軽く皮膚に突き刺さっただけだった。勢いを殺したのは迷いだけじゃない。胴体に、チューブ類が巻き付いている。
管を断ち切ろうとして、不意に父親と弟が居た頃の思い出が頭を過ぎった。弟とこの人と、遊んだ思い出が、今度こそ完全に剣を止めた。
息が止まったと思ったら、背中が痛い。自分が背にしていた壁まで飛ばされたみたいだ。紅色の光が、視界を埋める。退路なし。刀は男の向こう側に落した。これはダメかもしれない。諦めに目を閉じようとして、気弱を弾き飛ばすような低い声が、頭の中に響いた。
――喧嘩は剣だけでやるもんじゃねェだろ!!
こうなったら駄目で元々だ。ホルスターから銃を抜いて、盲撃ちで弾倉が空になるまで発砲する。狭い廊下に銃声と薬莢が落ちる乾いた音が満ちる。遊底が動かなくなったのを確認して、肩で息をしながら立ち上がった。
銃弾を払いのけようと手狭な場所であんなデカブツを振り回したせいで、試作兵器は壁に突き刺さっている。
横をすり抜けて逃げながら、刀を拾い、新しい弾倉に取りかえる。やっぱり、正面から戦えない。どうやってもパワーで負ける上に、自分が迷っている。昔の思い出と、今朝の占いが頭の中でぐるぐる回っている。勝てないかもしれない。無線ががなる。
「おい、俺達はジジイを回収して研究室から離脱した!お前はどうなってる!?」
「早く、逃げてください。この爆薬量です。旧道は危険です」
「また、約束を破るのか」
「物事には、順番がありますから」
自分が居なくても、真選組はきっと回る。けれど、みんなが居なかったら回らない。
「夢があるんです。真選組が、どんな逆境にも打ち克って、正義の味方を貫いてくれる。そんな夢です」
背中を叩きつけられたせいで未だに息が整わない。背骨や肋骨が折れてないのは奇跡だ。震えそうになる足に喝を入れて階段を上がる。端末はさっき壁に叩きつけられた時に壊してしまったけれど、道は覚えている。メモリーカードも回収した。記憶が間違っていなければ、もうすぐ頂上だ。
*
土方は桜ノ宮の言葉を聞いて、黙り込んだ。真剣な顔つきでやり取りを見守っていた隊士らは、あまりの出来事に絶句していた。
「馬鹿だ馬鹿だと思っちゃいたが、ここまでたァな」
「どうするんですかィ」
「拾ったやつが最後まで面倒見るさ。お前らはさっさと下山しろ。アイツはやる奴だ」
「俺は突入します」
言うなり背を向け隧道に向かおうとした。土方はその肩に手を乗せて静止した。
「やめとけ。アイツにたどり着くまでに生き埋めだぞ」
そう言って土方は携帯に仕込まれたGPSの座標を沖田に見せた。どうやら山頂付近にいるらしい。
「黙って見てろって言うんですか」
「土砂崩れに巻き込まれる可能性もある。今捜索するのはまずい」
「それじゃ生き埋めになっちまったら手遅れじゃないですか」
今度こそ背を向けたところで、ずしんと腹に来る衝撃とともに、地面が激しく揺さぶられた。
*
階段を上りきって、出口の直前で、足を止めた。何らかの要因で局所的に崩落してしまったのだろう、壁が崩れて出口が埋まっている。多分あの兵器でもこの距離をぶち抜くまでに生き埋めだろう。これは僥倖だ。
スイッチは周辺が埋まってるせいで押しにくいけれど、無事なようだ。鞘で保護硝子を叩き割って、中の赤いボタンを押し込む。まもなく爆破するというアナウンスと、赤い光が廊下を駆ける。
いろいろなトラブルに巻き込まれたし、飲み友達兼集ってくる人もできた。生まれてこの方、幸というものに縁が薄く、割と散々な目に遭ってばかりの自分にしては、意外と楽しい3年間だった。生きるか死ぬかの局面で迷うヘタレの割には上等な人生だったと胸を張れるような気がした。
あの話が事実であれば、あたしはあの時に死んでいる。原本は地獄に落ちたのか、どこぞをさまよい続けているのか、それはわからない。複製の自分はマンションにさえ戻れないのに、それでも怖さはない。この3年間が楽しかったから、人生に満足しちゃったのかしら。
紅い刀身を更に真っ赤に染めて、男がやってきた。今更逃げも隠れもできない。心のなかで爆破のタイミングをカウントする。
「酷い事するねえ。もう逃げ道がないのに」
「相打ちならなんとか許容範囲です」
「鬼の目に泪を浮かべさせようだなんて相変わらずひどい子だ」
じわりじわりと距離が詰められる。男が刀を振り上げて、照明が翳ったその瞬間、突き上げるような衝撃が襲いかかった。爆破だ。
頭を激しく打ち付けて目を閉じるほんの一瞬、走馬灯のように約束がいくつも脳裏をよぎった。返せと言われたものがあった。返すと言われたものがあった。
守るものを守って相討ちなら許容範囲だ。でも、どの約束も叶わない。
信じられ、答える。信じ、返される。それはやまびこのようなものだ。自分でこだまが途絶えてしまう事が、悲しくて仕方なかった。
「すみれ!返事しろ、すみれ!」
何度も繰り返し名前を呼ばれて、目が覚めた。気がついたら暗がりの中にいる。意識が飛んでいたらしい。
目を開けても視界は真っ暗だ。死んだのか?それにしては頭が割れるように痛む。辛うじて動く左腕で周辺を探って、状況を把握する。どうやら自分は岩をベッドにして眠っていたらしい。掛け布団は土砂だ。至れり尽くせりで涙が出そうだ。
もともと崩れていた岩盤に、崩れてきた岩がいい具合に引っかかって、胸部まで埋まらずに済んだみたいだ。即死とじわじわ死ぬのとで、結果は大して変わらないけれど。刀はどこだと探って、辛うじて引っ張り出せた。これで、少し安心できる。無線からノイズ混じりの声が漏れた。これに名前を呼ばれていたらしい。壊れなかったのは運がいい。
「生きているのか!?」
「土葬の手間が省けた状態を生きているというのなら」
「つまり生き埋めか。携帯のGPS座標を元に場所は推定する。それまで耐えろ」
頼もしい言葉を聞きながら、少し眠った。
おきろ、と起床を呼びかける声で、目を開けた。月を背に、気遣わしげな顔がいくつもある。全員見知った顔だ。起き上がろうとして、痛みに呻いた。
「未だに体が埋まってる。まだ息があるのが奇跡だ」
息はしているけれど、今も埋まっている左足の趾の感触が全く無い。多分圧迫で血流止まったか。天人の技術で切断の憂き目は免れそうだけど、それより先にクラッシュ症候群を心配した方がいいか。頭の止血をしてもらいつつ、貰った水をがぶ飲みし、自分の状態を分析した。これ復職できるのか?それ以前に生きて明日を超えられるのか?
もし明日を超えられないのだとすれば、アレの驚異を知る人間が居なくなる。命がある内に報告しなければ。
「土方さん、高杉の開発している、新型兵器と接触しました。和田一輝が所持していたものです。奴は高杉一派から離反して試作品を持ち出していました」
「ああ」
「あれは危険です。あの刀は、破壊しなければなりません」
一拍置いて、ヘリが巻き上げる土埃に咳き込みながら、続けた。土方さんのスカーフが口元を覆ってくれたので、少し快適になった。
「灯りに照らされて、紅色に輝いて、夜桜のようで――。そして、生き物めいて禍々しかった。あれは人工知能を搭載していて、戦闘データを蓄積し、寄生した使用者の動きにフィードバックしている。おかげで逃げるだけならまだしも」
「もういい。十分だ。よくやった」
「高杉の奴、江戸を火の海に変えるつもりです。あれは壊さないと」
「もういい。後は俺達に任せろ」
「あれ一振りで、戦艦並みの戦力を有すると、聞きました。あたしは、遣い手の悪さに救われたに過ぎません。あれがもし達人の手に渡れば」
「黙れ!!」
ヘリの音だけが、周囲の音になった。誰もが辛そうな顔であたしを見ている。自分はそんな姿をしているのか。強く、強く、手を握られた。熱くて、大きくて、硬い手だ。路地裏から引っ張り出されて、触れた手と何一つ変わっていない。
「話は後で聞く。だから、報告はいい」
しばらくして、何人もの男性が岩を持ち上げて、重たいものがどけられた。ずるずると体が引っ張り出されて、久しぶりの外に出た。
「何時間、埋まってました?」
「1時間と少しだ」
「止血帯を両方の膝上に、それと水のおかわりを」
講習でやった通りに、手早く止血帯で挫滅部位からの血行が止められる。壊死部分からの血流にはカリウム等が多く含まれており、これが全身に回ると心停止や腎障害に陥る危険がある。止血帯を不用意に使えば脚を落とす可能性が高くなるが、命を失うよりは脚を失ったほうがマシだ。ここまで戻ってきて一足先に地獄行きは腑に落ちない。土方さんが担架に体を固定して、ヘリに合図した。
「でも、勝ちで、いいんですよね。だって今度は――」
隊士の一人がふっ飛ばされて斜面から転がり落ちた。落ちただけだから軽傷だ。だが、どうして?隊士がいた場所に目を向ける。
見てはならないものを見た。とっさに土方さんを引き倒した。頭の上を斬撃が通り抜ける。あとコンマ数秒反応が遅れれば、土方さんの上半身が無くなっているところだった。それに比べれば膝の怪我なんて軽い軽い。
「桜ノ宮!」
「先生!」
「来るな!」
彼の細かった身体は見る影もなく膨らんで、全身のあちこちから触手のように太い管が飛び出している。その目に意識の光は見えない。
拘束を取り払って、両膝上の止血帯も解く。刀を支えに立ち上がろうとして、出来ない。左下腿がどうやっても直立に耐える状態じゃない。やむなく左の膝を地面につけて、右足で踏ん張ろうとして、右膝が笑う。地面を芋虫のように這いながら、夜空を仰いだ。
ヒビ割れた刀身が紅くきらめく。叩き潰すような一撃が来る。やるしかない。他の誰にも、やらせるわけにはいかない。この男は、自分こそが斬らなければならない相手だ。……なのに、どうして立ち上がれない。
「総員、突撃だァ!先生を守れェェェ!」
いくつもの白刃が、兵器に乗っ取られた彼に突き刺さった。近藤さんの鋭い一刺しが男の心臓を貫いている。けれど、男は未だに動いている。太い管の先、鋭い刃が近藤さんに向かう。
全身の筋肉に無茶を言って上体を起こし、狙いを定めずに撃った。戦闘経験を重ねたのなら、おそらくこの音に反応して、こっちを狙うはずだ。
予想通り、剣先は銃弾を弾くために軌道を変えた。その隙に、近藤さん達が離脱してくれた。
「すみれ」
大きな手が刀を構える自分の手に重なった。さっき引き倒して庇った人が、背中を支えるようについてくれていた。
「支えるくらいは許してくれよ」
誰よりも心強い支えだ。
土方さんの声が端緒となって、受けたアドバイスが脳裏を巡る。
――後悔しない道を選ぶといい。
――全部持ってかれるの黙って見てるつもりか。
――俺達はその先生を信じるよ。
――迷うなよ。
たくさんの言葉、そして坂田さんの目、それらに背中を押され、あたしは、思い出を断ち切った。
映画のフイルムをゆっくり回した時のように、斬撃がひどく緩慢な速度で襲い来るのが分かった。命の危機に瀕した脳が、助かる道を探すためにより多くの情報を取り入れているのだ。
斜め下より、ヒビの起点めがけて、突く。10年以上前と全く同じ、けれどあの頃よりも研ぎ澄ませた一撃。あの時は、自分だけを護る剣だった。でも今は、真選組のみんなを護る剣だ。そして自分の後ろには土方さんがいる。
物打とふくらがぶつかって一際明るい火花が散る。重い一撃に崩れそうになった身体を大きな身体が支えてくれた。
風が土方さんの頭上を通り過ぎた。
愛刀が真ん中ほどから破断して、くるくるとスピンしながら地面に突き刺さる。
愛刀は折れた。けれど向こうもただじゃ済まなかった。ひび割れた紅い桜が小さな破片を落とし、それが呼び水になって、次々に刀が崩れていく。
無数の破片がきらきらと月明かりに輝いて、桜が散っているようだった。最後の紅い花弁が地面に落ちると同時に、彼は体から力を失って斜面を滑り落ちた。そして、ピクリとも動かない。月が雲に隠れて、暗がりに彼が消える。
彼の足だけが、あたしを照らすヘリの投光器のおこぼれに預かっていた。
あの時と似た構図。けれど、この手から溢れたものは、唯一を除いて、ない。
「やった……やったよ、お父さん、創真ぁ……」
10年以上経って、やっとできた。やっと成し遂げたのが嬉しいのか、結局殺す事しかできないのが悲しいのか、涙が止まらない。
土方さんの胸で、しばらく泣いていた。
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