煙草の匂いに包まれた食事を終えて、屯所に帰り着くと、屯所がざわついていた。
「なんだァ?仕事はどうしたてめーら」
「あ、副長!それが、ついさっき、すみれ先生宛に」
妙だなと思った。わざわざ屯所に届け物してくれるような知り合いなんていない。大抵は岩尾診療所宛だ。嫌な予感で覚悟を固めて人垣を押しのけようとすると、隊士の一人にやんわり止められた。
「先生、気をお確かに」
「……はい」
意を決して人垣の中央に躍り出る。そして、箱を開けて中にあったものに閉口した。そりゃいきなりの配達だったらX線にかけて、開封して騒ぎになるわ。
「動物愛護法違反だな。撮影は済んだのか」
「勿論です!」
「先生、アンタ誰か心当たりは?」
「思い浮かべている人は同じだと思いますよ」
箱の中には黒い猫の死体があった。無言で両手を合わせ、使い捨て手袋とマスクを装備して、死体を検める。
クール便で送られたせいか痛みが少ない。伝票にある受付日時は昨日だから、死んだのはそれ以前。センター持ち込みだから、センターの防犯カメラに写っているかも。死因はおそらく生きたまま四肢を切り刻まれた事に起因する失血性ショック。黒い体毛に微黄色の着色あり。おそらく猫の腹側から35度程度の角度でかけられた液体が乾燥したものと思われる。どれも見覚えのある状況だ。記憶をたどる。弟の状況が近いか。
あっちにとっては何時の事だか知らないけれど、あたしにとっては13年も前の事をこうして律儀に再現して寄越してきた。多分あっちは本気なんだろう。
「下の方に手紙があります」
猫の毛が付着した紙片には、二日後の日付と夕暮れの時間、それと江戸中心街から武州方面に向かう古い隧道の名前が書かれていた。字に覚えがある。間違いない。
「あの人ですね」
「この隧道っていったら、天人が来たばっかの頃に掘られた奴ですぜ。新道もできたし、狭いし、崩落の危険があるってんで、直に通行止めになるっつー話でしたが」
どうにも臭えな、と彼は鼻をつまみながらそう漏らした。確かに、温まってきたせいか、死臭がする。
猫の死体を見下ろす。昼間、土方さんに言われた事が頭をよぎる。
――アイツはな、過去の行いに満足しているわけでも、ましてや悔いてるわけでもねェ。
――すみれ、あの男はお前の大事なもんをまた奪いに来るぞ。
それだけは阻止しなくてはいけない。自分は約束したのだから。
「決闘の申し込みなんてするような殊勝な男かアレ……?」
「なんにせよ、こうして公衆の面前で、それも名指しで喧嘩売られましたし、受けて立ちますよ」
土方さんは誰もが顔をしかめる光景にも関わらず、小さく笑いを漏らした。彼を見上げると、状況にそぐわない笑みを浮かべていた。
「野郎に声掛けられてた時はどうしたもんかと思ったが、イイ面してんじゃねーか」
信頼された以上は報いたい。それだけなんだけど、この場で言うのは少し照れくさい。そっぽを向く。それはそれでなんかニヤニヤしている隊士の視線とかち合ってイライラするので天井を睨んだ。なんでこんな状況で笑ってるんだこの人らは。
「解剖と、体毛についたのを採取して鑑定したら寝ますか」
「寝る前に報告書もってこいよ」
「はーい」
「おい山崎、その猫鑑定室持ってけ」
「俺ですか……」
死体を運ぶ事になってしまった山崎さんが肩を落とした。まだ腐ってないのが不幸中の幸いだった。
*
月を眺めつつ縁側を歩く。春の冴えた空気が気持ちいい。しかし、気候とは裏腹に気分はあまりよろしくない。液体の正体は察していたけれど、そうか、あの時のもそうだったのか……。気持ち悪い。せっかく美味しく頂いた定食が戻ってきそうだ。
副長室の前で深呼吸。いつも通り入室の許可を得て障子を開けると、煙草の香りが降り掛かってきた。体には悪いけれど、死臭よりはずっといい。室内には近藤さんも正座していた。
「失礼しまーす……」
「報告書できたか。つーか、顔色悪ィぞ」
「今日は災難だったなあ先生」
「近藤さんのお顔の方が災難だと思います」
顔が腫れ上がっている。大方志村姉にどつき回されたのだろう。それ以外だったらいつぞやみたいな大騒ぎになるからそうであってほしい。
「ん?俺はお妙さんに会えて最高に幸せな日なんだけどな」
「アンタのそれは毎日だろうが」
「あ、報告書です」
「おう。ご苦労だった。下がれ」
「はい、失礼しました」
「ゆっくり寝るんだぞー」
「はーい」
副長室を出たら医務室に戻り風呂に入って寝るだけだけど、何故かそんな気にはならず、少しだけ夜の屯所を歩く事にした。都会の眩さに霞んでしまった星を数えながら、足音は最小限に、歩き慣れた場所をさまよう。すぐに一周できてしまった。それでも医務室に戻る気がしない。
思いつきで、屯所の屋根によじ登ったところで、先客の存在に気がついた。
「あれ、沖田さん」
「すみれさん、さっさと寝ないと身長伸びねーぜ。あ、すみません。とっくに成長期終わってた事忘れてた」
「沖田さんこそ夜ふかしは美容の大敵ですよ」
「そっくりそのままアンタに返してやらァ」
「ところでこんなところで何を?」
「空見上げたくなるときだってあるだろ」
「そうですね」
ちゃっかりタオルを敷いた上で屋根に寝っ転がった沖田さんは星を見上げているらしい。
「少ないですね、星」
「あんな灯りがあるんじゃ星だってお役御免でィ」
「そうですね」
寝っ転がらずに、屋根の上から塀のはるか向こうにあるターミナルを眺める。真っ直ぐに建つ塔は、夜にも関わらずまばゆく照らされて、遠目からでも存在感がある。
「で、すみれさんこそ、こんなところで何してんだ」
「寝る気分でもなくて」
「だろうねィ」
そういえば、この人とは入れ違った時に一緒に互いの状況を知ってしまったのだったか。あれ以来なんでか手温い沖田さんに戦いて、何度も夢を見たのも今となっては笑い話だ。
「沖田さん、明後日死んだらどうしよう。明日中に引き継ぎ用の書類作んなきゃ」
「死ぬな。俺が教えた奴に死なれちゃ一番隊隊長の名折れだろ」
「それ言ったら一番隊の最古参が2年前入隊の神山さんな時点でね」
カチコミで先陣を切る一番隊は、警察組織の中でもトップクラスの高さを誇る高死亡率の原因の一つだ。何のための火線救護、衛生隊長かと幕府のお偉方から突っ込まれる事が往々にしてある。けれど、最前線でできる処置は止血帯を用いた止血のみだ。前線を押し上げるまでに死なれたら医者は次の患者を優先するだけだ。
……そういえば、神山さんが辛くも生き延びた六角事件は、妙な案件だったな。なんというか、そこはかとない偽証と隠滅の香りがしたというか。岩尾先生と二人で首を傾げた事を覚えている。最終的には一番隊隊長の報告を信用したけれど、2年経ってもアレは怪しいと思う。
「まあ、何が起きるか分からないでしょう?」
「……死んだら墓に馬鹿の墓って書いてやらァ」
「もともと分かりきってた事なのでノーダメージ」
「じゃあ土方の性奴隷の墓」
「なんで関係ない土方さんに飛んでった?」
土方さんいじめはこの人のライフワークみたいなものだから仕方がないか。空を走る船が頭の上を通り過ぎた。後方乱気流が髪を揺らす。上は風が強いのか、ずいぶん低いところを飛んでいる。
「約束してくだせェ。絶対に生きて帰ってくるって」
沖田さんらしからぬ殊勝な言葉。その声の主は、屋根に寝転がったまま、こちらをじっと見上げていた。淡々とした表情の読みにくい目は、どこか懇願の色を帯びているように見える。
「約束、約束。なんであたしと知り合う人間はみんなその言葉を好んで使うかな」
「アンタは鎖持っとかないとどっか消えそうだから」
「そう見えます?」
「アンタをあの公園で見たときから、ずっとそう思ってた。土方もそう思ったから、アンタを手元に置いてたんだろ」
屋根の上を吹き抜ける空気は、どこか煙たい。煙草の匂いとも違う煙たさに目を眇めた。
「野郎とは他にどんな約束をしたんでィ」
長くて、しっかりした指を思い出す。なんとなく、左手の小指を握る。こうしたら、骨筋張った指の感触を思い出せる気がした。
「――真選組を護る事と、土方さんが弱った時は顔ひっぱたく事」
「じゃあそこに一つ付け加えてやらァ。絶対に死ぬな。土手っ腹に穴が開こうがその指が落ちようが戻ってこい」
「ん」と沖田さんの左手が差し出される。立てられた小指はやっぱりいつぞやと同じだ。
積み重なった約束を背負って、自分がどこに行くのか。それは全く分からない。どこを歩いているのかも未だに判然としない。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます」
「――指切った」
自分の重みが増していく感覚を、ひどく心地良く感じながら、屋根の上に寝転がった。
*
煙草をふかしながら回想にふける。
今日はとにかく慌ただしい一日だった。
昨日に引き続いて縮んだままだった桜ノ宮は、屯所に戻る途中で目を離した隙に過去の因縁に絡まれていた。天下の往来にも関わらず抜刀し、脇に構えた桜ノ宮をたしなめるよりも先に、相手の顔を見て、頭に血が上った。
沖田のイタズラグッズが巡り巡って桜ノ宮の枕になった時に、当人の意思に反して無理やり見せられた悪夢に出てきた男だ。顔見知りの弟バラしながら、ガレージでセンズリこいてた胸糞悪ィ男だ。
――お前が未だにすみれにくっついてる亡霊か。
これ以上アイツから何を持ってこうってのか。俺ァ柄にもなく熱くなって、今にも飛び出さんとする
桜ノ宮の頭を抑えて間に割って入った。あっさりと去っていったが、どうにも嫌な予感がする。あれで引き下がるたァ思えねェ。
「もし、今もあたしが――」
すみれはいいかけて止めた。答えが想像ついたのか、それとも望む答えがわからなかったのか。いずれにせよ、俺ができるこたァ、ともすればケツまくって逃げ出そうとするバカを蹴っ飛ばす事だけだ。
こっちに流れ着いてから3年。コイツがなんもかんも失ってから13年。コイツももうじき成人だ。いい加減、ケリを付けなきゃならねェ。促すが、どこか気乗りしないような表情だ。好いた男を二度殺す事に抵抗があるのか。
ねっとりとへばりつく声。歪んだ性根が表層に出た顔立ち。分からねェな。なんで桜ノ宮はあんなのに惚れたんだ?つか、なんで未だに惚れてんだ?野郎の妹の件で懲りたろ?そう言っても通じそうな顔にゃ見えねェ。
ったく、女ってやつァ……。
一言も会話せずに夜になって、桜ノ宮が予測した時間が来た。医務室に顔を出す途中で、上機嫌に竹刀を担ぐ総悟に出くわした。
「随分張り切ってんじゃねーか」
「ナマクラ見たら叩き直したくなるのが人間ってもんでさァ」
「お前は叩き直すですまねーだろーがドS教官」
「アンタはあのヘタレ見て腹たたないんですか」
不甲斐なさを感じないと言えば嘘になる。本当にできるのかと不安に思うのも分かる。どうにも惚れた人間にゃ弱いらしいからな。
「お前がケツ蹴っ飛ばしたろ。なら、迷いながらも進むさ」
「立ち聞きたァ趣味がわりーや」
「言いがかりはよせ。たまたま通りがかっただけだ」
「ふーん。じゃあ先に行って待ってるって先生に伝えといてくだせェ」
ひらひらと手を振って奴は道場に向かった。空を見ると、青白い星が塀から顔を出していた。
*
「トシ、何してるんだ?」
「近藤さん、静かに」
総悟達が寝っ転がっているのと反対側の屋根に登って、ターミナルを背にして二人の会話を盗み聞きする。本当は聞くつもり無かったんだが、好奇心にかられてやっちまった。生きろ、か。これでアイツの妙な諦めムードが解消されりゃいいんだが。
「仲いいな、あの二人」
「そうだな」
「トシ、いいのか?総悟に取られちゃうぞ?」
「……何の話だよ。第一早まりすぎだろ」
「いや、お前がミツバ殿を――」
「その話はやめねーか」
「すまんな」
近藤さんとゆっくり空を見上げるのはいつ以来だったか。これで酒でもありゃ月見酒になったんだろうが。ごろりと屋根に転がった近藤さんを横目に名前も知らねェ青白い星を見上げた。
「懐かしいな、武州にいた頃を思い出さねェか」
「あの頃はもっと星が多かったがな」
「ああ、江戸は地上に星が多すぎる。お妙さんとか」
「ありゃ星は星でもブラックホールかなんかだろ」
恋は盲目たァよく言ったもんで、俺の言葉は近藤さんに届かないらしい。アバタもエクボフィルターがほぼ全員に掛かってるのはいつもの事だから気にしちゃいねーが、もうちょっと聞き入れてくれてもいいんじゃねーの。
「明後日か。トシ、行かせていいのか?」
「心配要らねェよ。俺と総悟が寄ってたかって叩いたんだ。これで負けて死んだら地獄でしばき倒してやる」
「そりゃ安心だ」
「だが万一バカが討ち漏らした時のために、隧道の前後に何人か貼り付ける」
「うん、いいんじゃないか」
「俺も、アイツを待ってる」
「うんうん」
「だから、アイツは負けねェ」
「そうだな。俺達がついてる」
あの時、奴は一人だったが、今度ばかりは違う。アイツの背中を支えるやつがいる。だから、負けねー。
「喧嘩売ったのがどこの誰か、野郎に思い知らせてやる」
近藤さんは満足気に頷いた。
*
「喧嘩売ったのがどこの誰か、野郎に思い知らせてやる」
聞こえてないと思っているのだろうか、この距離で。二人顔を見合わせた。
「ったく、また盗み聞きか。趣味が悪いったらねーや」
「まだまだ心配されてるんですかね」
「成人がどうこう言う割にゃ一番心配してるのが野郎たァ笑えねーぜ」
忌々しいと言いたげに膝を抱える沖田さんに少し笑ってしまう。
「沖田さん、ちょっと困りました」
「なんでィ」
「心配されてちょっと嬉しいです」
「アララ、こっちもまだまだガキでしたかィ」
そうだ。有事に背中を護られるありがたさからは、なんだかんだ離れられないのだ。この分じゃまだまだ巣立ちは遠い。
「あっ、お、お前らいつまで起きているんだ!子供は早く寝なさい!」
まるで今の今来ましたと言わんばかりのセリフと表情に笑ってしまう。顔から変な汗を垂れ流している近藤さんとは対照的に、土方さんは涼しい顔で一服している。その横顔に突っかかる沖田さん。いつもの三人だ。
何を引き換えにしてもいいから、この場所を守れればいいな。
柄にもなくそう思った。
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