夢か現か幻か | ナノ
Spica part.1
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五体満足で新年度を迎え、着任式も終えて、初仕事。といってもやる事自体はこれまでと何も変わらない。せいぜいが、責任がより重くなった事、そしてそれまで岩尾診療所でまとめられていたデータが全て屯所で完結するようになった事くらいだ。つまり、それまである程度こっちでまとめて診療所に送信して、そこから美智子さんが保険者に送っていたレセプトの処理を、全て自分の手でしなくてはならなくなった事を意味する。それ以外にも備品の管理発注その他もある。給料は増えたけれど、仕事の量が多くて無理みが強い。これで症例稼ぎの救急科非常勤もあるのだからたまらない。

診療所と両立していた岩尾先生って本当にすごかったんだな。慣れてくれば少しは楽になると信じたいけれど。

「あー終わらない。沖田さんの手も借りたいです」
「なんだそりゃ」
「猫みたいなもんでしょあの人」
「書類関係に限ってはそうだな」

優雅にお茶をすする土方さん相手に愚痴りながらレセプトとカルテを見比べて、必要に応じて言い訳めいた書類を作成していく。この屯所では岩尾診療所の影響で電子カルテシステムに対応しているからまだマシだけど、これが全部紙の書類だったらと思うとゾッとする。

「終わらない。期限まであと1週間も無いのに」
「1週間なら余裕……いや、今月は健康診断と新隊士募集ん時の身体検査があんのか」
「そうなんですよ。だから今のうちに終わらせたいのですけど。ところで副長、健康診断と身体検査の計画あれでいいですか」
「いいけど、お前一人で大丈夫か?」
「年齢的に要らない項目はカットするので大丈夫ですよ。大変なのは初めて健康診断受ける隊士の心電図取るのと、全員のレントゲンくらいです」

岩尾診療所から中古でお買い上げしたレントゲンが置いてある撮影室をちらりと見る。いかんせん古いせいで、今やデジタルが当たり前のこのご時世に、撮影室に隣接する暗室で現像しなきゃならないけれど、無いよりはだいぶマシだ。調整をすべき場所が減るのはいい事。

ちなみに、全て手動の現像なので、うっかり現像液と停止液を逆に入れないか、現像液につける時間が長すぎて真っ黒になったりしないか、いつもひやひやしながらやっている。一回やらかして謝り倒しながらもう一回撮影させてもらったなんて失敗があるのだ。被曝はできれば増やしたくないので、二度とそんな事がないようにしたい。

まあ、健康診断の時は忙しいから自動現像機使えるからまだ楽だけれど、普段は週に数枚とかだから現像液の維持ができないのだ。あ、そうだ現像液発注しないとヤバイ。そろそろ劣化して使えなくなってくる頃だ。

自分で現像したレントゲンフイルムを見ながらため息をつく。この際沖田さんでもいいから人手がほしい。

「あーん医療事務欲しいなー」
「悪ィな。そんなもん雇う財政的余力はねーよ。その代わりと言っちゃ何だが、どうしても無理そうなら適当な人間融通するから言え」
「今はなんとかなると思います多分」
「そこは自信もって言って欲しいもんだが」
「力及ばず申し訳ございません。ところでご用件は何でしょうか」
「お前が苦しんでるって総悟が言ってたから見に来た」
「冷やかしかよ」

思わず舌打ちが漏れる。状況が状況だからそれなりに苛立っている。陳述書らしきものを打ち込む指に力がこもった。

「舌打ちたァ生意気だな」
「今日は反抗期の気分なんです」
「お前は万年反抗期だろうが。いっぺん眠るか?」
「許してもらえるのなら、そうさせてほしいですね」
「減らず口を……」

顔は全く見ていないけれど、声だけで苛立ちがよく分かる。しかしそれまでの環境で培った気性はどうしようもないもので、ストレスが溜まっているせいか、他人に八つ当たりをしてしまう。これ医者失格じゃない?いやそれ以前に恩人に当たり散らすとか人間としても割とアレでは。まあ人間性の欠如は大分昔からか……。自分でもどうしてこうなってしまったか分からなくて嫌気が差してくる。

「すみません。八つ当たりして」
「いや、俺も邪魔して悪かったな」

頭に手を置かれ、そう言われてしまうとそれ以上何も言えない。自分の機嫌を取るのに失敗して人に不機嫌を押し付けただけなのに、この人はそれをあっさり許してしまう。年上の余裕、そして自分の至らなさを感じて唇を噛んだ。

「これやる。山崎から貰ったもんだが、休憩中にでも食え」
「ありがとうございます」
「それとコーヒーも淹れたから飲め。ブラックで良かったな?」
「ありがとうございます」
「終わらなくてもキリがいいところで休め。体壊したら元も子もねェぞ」

思わず打鍵する指が止まった。パソコン机の上、少し離れた場所に置かれたチョコレートとコーヒーは見慣れたものだけど、これを差し出した人間が問題だ。

普段ならば這ってでも働けと平然と言ってのける鬼が、何故か優しい。オマケに、「コーヒーなんて何で淹れても一緒だろ。飲めりゃいいんだ、飲めりゃ」って言って憚らないこの人がわざわざ七面倒臭いサイフォンでコーヒーを淹れている。明日の天気は雨じゃなくて核ミサイルかな?

土方さんの顔をまじまじと見つめるけれど、彼は普段通りだ。熱がありそうな様子はないし、アルコールが入っている様子もない。

「……ありがとうございます。でも、土方さんが優しいなんて」
「部下を労るのは上司の責務だろ」
「土方さんこそ疲れているんじゃないですか?ベッドは空いてるので好きなだけ使っていいですよ」
「いや、遠慮しとくわ」

「じゃあな」と軽やかな言葉を残して土方さんが去っていく。どんな立場の人でも、がたぴしする引き戸を開けて出入りするのがちょっとおもしろい。

――事が終わってから、改めて前後の状況を確かめて、思う。

――異様に優しい土方さんは、フラグだったのだ、と。

*

レセプトを送信して、大きく伸びをする。これで今月の懸案は解決した。後はあっちからケチをつけられる事のないように祈ろう。現像液の発注も終わった。健康診断までには間に合うだろう。やれる事をやり遂げた後の安堵はひとしおだ。来月もこれをやらなきゃいけないのは……うん、考えるのやめよ。

ふと、視線をずらすと、冷めてしまったコーヒーと、チョコレートの包みがある。一口すすると冷めてしまっているのに美味しく感じる。やっぱり誰かが淹れてくれたものだからだろうか。チョコレートと合わせれば幸せの味がする。あっという間に平らげてしまった。

仕事も血糖値も上がり、そうすると眠気がやってくる。医務室のシンクでちゃちゃっと化粧を落として、顔を拭いて白いベッドに横たわった。そして刀を抱えて目を閉じる。あっという間に意識は暗闇へ。おやすみなさい。

……どのくらい眠っていたのか。医務室の引き戸ががたがた鳴く声で目を覚ました。がしゃどくろが月明かりにきらめいている。少し寝すぎた。ちょっとだけお腹が空いた気がする。

「お前また刀抱えて寝て――ってなんだァ!?」
「うん?」
「お、お前、桜ノ宮すみれ、なんだよ、な?」
「はあ?」

土方さんの反応が理解できない。化粧を落としたあたしは桜ノ宮すみれじゃないってか。刀を抱きかかえて起き上がると、いつもよりも刀が長く重いと感じる。上半身を起こしていてもいまいち高さが出ないような。人を指差して金魚のように口を動かす土方さんを見て、一体なんだろうと自分の体を見下ろして、違和感の正体を悟った。

肩からずり落ちたシャツ。穿けてないズボンとパンツ。ブラジャーの中に詰まっているはずの肉もない。月に手をかざすと、随分と小さく、そしてぷにぷにしている。加えて、腕の長さも随分と短い。ついでに声もやたら高い。慌ててピッカピカのトレーに顔を映すと、寝る前よりも輪郭が丸い。これらの情報を統合して結論を下す。受け入れがたい結論を。

「な、なな、な」

結論は出た。けれど、状況を理解できない。意味がわからない。なんで、どうして。

「ナニコレーーーーーーー!!!!!!」

なんで、あたしの体が縮んでるんだ。

「なんですかコレ!なんでこんな事に!?」
「俺がききてーよ!なんでお前が縮んでんだ?!なんか薬でもやったのか?」

聞かれても心当たりはない。なぜ?その言葉だけが脳内を回る。

「あたし、薬とか飲んでない……あ、コーヒーとチョコ食べたわ」

今日一日でそれ以外に摂取した物質はないので、疑わしいのはそれだが、まさか土方さんがマヨネーズをコンタミしたとかそんな事ないと思うし、何が原因だろう。つーかあのチョコの出所どこだ?包み紙を見るけれど、異星の言語で何か書いてあるだけで読めない。翻訳機にかけるべく、機械を探した。が高い場所にあるせいで届かない。

「そういや俺も山崎から貰ったけど、その山崎も誰かから貰ったらしいな」
「はあ!?なんでそんな出自不明でバリバリ怪しいのこっちによこしたんです?」
「知らねーよ!医者ならリスク管理くらい自分でやれや!」
「責任転嫁!」

流石に頭にきて殴りかかったけど、片腕で頭を掴まれてあっさり抑え込まれた。身長にして30センチメートルほど縮んだ体では、ただでさえデカかった体格差が更に開いているせいで腕を振り回しても届かないし、腕を振りほどく馬力もない。真剣を持ち出そうとするとあっさり取り上げられた。

「はい没収ー。お子様にゃ持たせられねーよ」

ぴょんぴょん飛び跳ねても愛刀に届かない。何がおかしいのかニヤニヤ笑う土方さんにイラつく。犬のお手を覚えさせそうな感じで差し出された手をぽこぽこ叩く。

「土方コノヤロー!!」
「ったく、やってる事が総悟とクリソツだな」

拳を受け止められ、ひょいと抱えあげられると、土方さんのあごの高さに視線が来る。成長した自分の背よりも高い場所に驚いて竦んでしまう。紫煙の残渣が鼻をくすぐる中でよしよしと背中を撫でられて、昔を思い出した。このくらいの背丈だった頃、よくこうして父親に抱っこされていた。

重くなったなと笑う声が聞こえた気がして、目がじわりと熱くなる。涙を見られたくなくて、白いスカーフが巻き付く首に縋り付いた。

「おいどうした?……ってオイ泣いてんのか!?俺どっか痛くしたか?」

言葉で答えたいのに、涙声になってしまうから、首を振るだけにとどめた。空いた長い腕がスカーフを持ち上げて、目元を荒っぽく拭う。なんとなく気になって端を引き出すと、いつぞやの誕生日の縫い取りが顔をのぞかせた。数年間何度も血に塗れてその度に洗ってるせいで少し糸が解れてきているのに、まだ使ってくれていたんだ。

「お、おい、刀なら返してやるからホラ」

土方さんの首に刀を抱えたままかじりついた。困ったようなため息が耳朶を揺らした。

「いてて、人の顔に刀押し付けるなよ。いきなりどうしたんだオイ」
「ちょっと、思い出して」
「……そうか」

子供にするように抱っこされた状態から揺すられると、懐かしさばかりが募る。目を閉じればいつかの記憶が蘇るようだった。でも感傷に浸るには、あたしの人生はあまりにも短い。だぼだぼの袖で最後のひとしずくを拭い去って、戸棚を指差す。

「あ、あれ取ってください。翻訳機です」
「ほい」

刀が預かられ、胴体の側面をがっちり保持され、目当ての場所に近づけられる。UFOキャッチャーのアームにでもなった気分だ。というか、取ってほしかったのであって、取らせてほしかったわけじゃないんだけど。文句を言っても話がめんどくさくなるだけなので自分で取って机に置いた。言語、自動検出。翻訳、日本語へ。カメラで袋を撮影すると、結果は一瞬で出た。天人の技術バンザイ。

「んー、『肉体退行薬入りチョコレート、パーティーの余興に!』……ナニコレ」
「こんな事する奴ァ総悟しかいねーな」
「これ、土方さんに食わせるつもりだったんじゃないですかね。そんで弱ったところを一刀両断」
「……かもしれねーな」
「やっぱりアンタのとばっちりじゃないですか!どーすんですかコレ!こんなちんちくりんじゃ全く仕事になりませんよ!?」
「耳元でキンキン喚くな!」

自分の心は全然ビビってないのに、小さい体には土方さんのドスが効いた声は怖かったらしい。体が電流を流したように硬直した。服越しにそれを感じ取れたのか、普段よりずっと近くにあるお顔が、バツが悪そうなものに変わる。機嫌を取るように揺られて、やっとほぐれた。

「効果はどのくらい続くんだ」
「地球上で流通している成分じゃないので、ちょっと調べてみます」

椅子に座らされて、キーボードに手を伸ばすけれど、幼児の手はとても不器用で、ぽこぽこぽことしか打てない。寝るまで完ぺきにできていた事ができなくて、体が小さくなったから仕方ないと分かっていても、無性に腹がたった。

「焦るな、ゆっくりでいい」

土方さんに抱え上げられて、彼が椅子に座った上に座らせてもらえた。ぐらぐら煮える鍋みたいな気分を大きな手が落ち着けてくれる。なんとなく安心する場所なので、つい彼の胸板に後頭部を預けてしまう。

「えっと、この系統だと、丸一日はこのまま、ですかね」
「それは確かか?」
「服用した量とか体重とか、作用機構とか、血中濃度半減期的に、多分?いかんせん薬学は専門じゃないので、なんとも言えませんけれど」

残念ながら処方にはアンチョコが欠かせない人間なので、断言はできない。少し考え込む気配。

「すぐに取り除けないのか?」
「昼寝している間に体の発達を巻き戻すような薬を無理やり取り除いたら、それこそ何が起こるか。裏書きにも『効果は自然に解けるので安心!!(服用者によって効果時間には個人差があります)』って書いてあるし、信じましょう。あ、『ただし、服用の結果、服用者や周囲の者が如何なる不利益を被ったとしても、当社は一切責任を負いません』ってちっさく書いてある」
「なにその予防線!?本当に大丈夫か!?」
「さあ?」

もうジタバタしてもどうにもならない。覆水は盆に還らないし、卵だって割れたらそれまでだ。神ならぬ身にできる事といえば、状況に適応して耐えるぐらいしかないわけで。不愉快極まりないのにも、いずれ慣れると信じるしかない。

「なにはともあれ、まずは、お洋服ですね」
「そうだな。いつまでもそんな格好でもいられねーか」

ズボンもパンツもゆるくて穿けないし、ブラジャーも邪魔なだけなので、今はダボダボするシャツを羽織っているだけだ。これじゃどこにもいけない。ので、服を調達してもらわないと。

「総悟がお古の着物持ってたから、交渉してみるか……」
「すみれさーん、飯の時間ですぜ」
「丁度いいところに来たなあ、元凶が」
「ん?」

賑やかに引き戸を開けた沖田さんは、人の姿を視認するなりギャッハハハハハと笑い出した。やっぱコイツが出所か。土方さん共々頬が引きつった。

「いやーすっかり縮んじまって。4歳位ですかねィ」
「たぶんね。これ、山崎さん経由で土方さんにあげるつもりだったの?」
「そのつもりが、意外な収穫ってやつでして。これはこれでいいや」

土方さんを幼児退行させて何をしたかったのかは知らないけれど、土方さんの子供時代とか見てみたかったな。これの半減期がもう少し短かったら、機会を見て土方さんに投与してみようかなと思えるのにな。正直、自分の幼少期なんて碌な記憶がないので、その時を思い出させる姿形なのはちょっと不愉快なのだ。

「笑い事じゃねーんだよ!どうすんだコイツ!」
「まあまあ土方さん落ち着いてくだせェ。とりあえず、当面の間俺のお下がりを着せりゃなんとかなりますから、着替えさせたら飯にしましょう」

その言葉に呼応するように、お腹がきゅいと鳴った。
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