昇進祝いの宴会で酔いつぶれた翌朝、二日酔いの頭を抱えて、食堂でしじみ汁でも飲むべくフラフラと廊下を歩いていると、人だかりに出くわした。連絡事項や特別功労賞を授与された隊士の名前を張り出す隊の掲示板の前に、真っ黒い集団が。何事だろうと背伸びしても全員があたしよりもでっかいのでよく見えない。その場で飛び跳ねれば見えるんだろうけど、二日酔いの頭をシェイクする気にはなれなかった。その場にいる適当な隊士から情報を聞き出す事にして、あまり整えられてない項を見つめていると、見慣れた散切り頭。山崎さんだ。
「山崎さん、山崎さん、おはようございます。皆さん集まっていますが、掲示板に何があるんですか?」
「先生、おはようございます。ああ、先生の辞令が張り出されてるんですよ」
「あたしの?」
「そうそう、うちにも女隊士が!ってみんな集まってるわけ」
「1年前からずっといたのに、何を今更」
「そこはそれ。隊士と屯所委託医師じゃあ、みんなの感じ方も大分変わってきますよ」
「受け入れられるか心配になってきた」
ただでさえ女一人でガッツリ浮いてるのだ。これで否定的な反応が来たらちょっときついぞ。
久しぶりに頭が痛くなってきた気がする。二日酔いとは別種の痛みだ。緊張性頭痛。この頭痛を最後に感じたのは、そうだ、3年近く前だったか。屯所の中で物取りがあって、まだ屯所に出入りし始めたばかりでバリバリの異分子だった自分が疑われた時だ。あのときも、頭全体が締め付けられるように痛かった。真犯人が捕まって、自身の潔白が証明されたから良かったんだけど、嫌疑をかけられた次の日に全員がいる食堂へ入った途端、その場が静まり返ったのは当面忘れられそうにない。
やば、思い出すと本格的に痛くなってきた。アスピリンが恋しい。アレ胃が荒れるのと引き換えによく効くんだよな。悲しいかな、体に優しいカロナールは効かない体質なんだ。
食堂の空気を思い出すとちょっと苦しい。昔、学校に行った時と同じ現象のはずなのに。……別の事を考えよう。あの時の沖田さんの優しさを思い出して気を紛らわせよう。なんだかんだあの人優しいんだよな。ずっと隣に座っててくれたし、前を適当な人で固めてさり気なく庇ってくれてたし。後でお礼を言ったらすっとぼけられたけど。あの人は心の隅っこにある(はずの)優しさを全面に出せれば、モテ度上がるんじゃなかろうか。……いや、いつでも誰にでも優しい沖田さんなんてマヨネーズ抜きの土方さんくらいおかしいな。あのくらい分かりにくい方が奥ゆかしい、のかもしれない。
過去を思い出すまいと踏ん張るあまり、思考の迷路に迷い込んだのを、山崎さんに引き戻される。考え事をしている間に目を閉じてしまっていたらしい。どうりであの時の思い出が鮮明だと。
「大丈夫ですよ、ほら」
見ると集まっていた全員があたしを見つめていて、それにまたいつぞやを思い出した。嫌でも体が強ばる。
「先生、おめでとうございます!」
「え」
「俺達は先生が寝る間も惜しんで頑張ってきたのを知ってますから」
思いがけない言葉に、土方さんから一本もぎ取った時の事を思い出した。ああ、そうだ。辛かった事ばかりじゃなかったんだ。彼らは、あの時もそう言って、こんな人間のために、卑怯者の汚名を一緒に被ってくれたのだ。いつぞやの事も忘れ難い記憶だけど、それ以上に貰ったものがある事は忘れちゃいけない。その貰ったものが今の自分を形作っているんだ。
「それは、皆さんのおかげです。あの時、いえ、あの時だけじゃなくて、ずっと皆さんに支えられていたから、あたしは今こうしてここにいられるんです。皆さん本当にありがとうございます。これからも真選組のために邁進していく所存ですので、どうかこれからもご助力いただけると幸いです」
あれ、最後の方ビジネスメールみたいな感じになったぞ。思った事をそのままつなげたらこうなった。うん、もうちょっと砕けるつもりが、おかしいな。
自分で首を傾げていたのがツボに入ったのか、誰かが吹き出した。それがさざなみのように集団に伝播して、どっと笑いが起きる。
「こりゃ先生らしいや!」
どこが自分らしいのか、なんか釈然としない気分を若干抱えつつ、ウケたのならまあいいか、と一緒になって笑ってると、空気が冷えた。和やかな空気を瞬間冷凍できる人間なんて、多様な人材が集まる真選組屯所の中でもたった一人だけが持つ特殊技能だ。
「お、おはようございます副長ォ!」
「おう、お前ら、仕事はどうした?」
その言葉だけで、あれだけいた隊士達が一瞬にして散っていく。彼らの背中に舌打ちを投げつけた土方さんは、まっすぐこちらに向けて歩いてくる。それを見なかった事にして自分も仕事に行こうとした。しかし、大股で距離を詰められて、がしっと肩を掴まれ作戦は失敗に終わる。
「桜ノ宮、人の顔見るなり背を向けるたァ冷てーな」
「あー……申請書の清書をやらなければいけないと思い出しましたので」
「ああ、それならやっておいた」
「ひじか……副長が?」
「文句あんのか」
「いえ、ありがとうございます。至極恐縮です」
普段ならば、清書は可能な限り自分でやれ、どうにも無理なら山崎でも使えって人なのに、一体何がそうさせたのだろう。不思議に思って小首をかしげていると、いきなり背を向けられた。
「飯食ったら俺の部屋に来い。渡す物がある」
一瞬、何を渡す気だろうと考える。そういえば、昇進に合わせて制服も変わる上に常時着用だって、あの人がそう言ってたな。もうじき制服が到着していてもおかしくない。え、本当に着るの?ちんちくりんがあれ着て似合うかな。
*
新しく渡された制服を着て、障子の前で固まる事、数分。土方さんに制服があってるか見てもらうために彼の部屋の前に立っているのだけど、腕を使って障子を開けるだけの行為に必要なカロリーが高すぎて無理。自分でも何を考えているのか分からない事を考えながら、何度も何度も同じ結論に着陸する。そうして逡巡していると、障子が勢いよく開いた。制服にまとわりつく紫煙。こちらを鋭く見下ろす双眸から身を隠すように体を小さくした。
「いつまで部屋の前で突っ立ってんだ」
「少し不安で」
「ハァ?――『気を付け』!」
命令を叩き込まれた体は号令一つで彼の思うがままに動く。両足の踵をつけて、つま先は45度の角度で開き、猫背はバナナのように反って、上半身を隠すように縮こまっていた両腕は体側へ。そしてつま先を見つめていた視線は真っ直ぐ前に。つまり、模範的な『気を付け』の姿勢を取った。
「なんだ、どんなもんかと思えば。お前もじきに見慣れるだろ」
「わ、私やっぱり一般隊士の服で」
別に前のままで良かったんだけどな、と思いながら袖を通した隊服は、少し重たかったのだ。なにせ隊長達と同じデザインだし。技能職だけど、輝かしい権威も際立った技術もないペーペーのペーなのに、これを着ていいのだろうか。そう思ったのだ。そもそも乗り気じゃない土方さんはさておき、他の幹部陣が全員こっちを着せたがったのは本当に解せない。
たかが医者にこれは無いだろうと思って土方さんに申し出ようとしたのを、よく切れる刀のような目に遮られる。心臓がぎゅっと縮んだ。
「オイ誰が『休め』つった!?」
「すみません副長!」
姿勢を崩しかけたところに鋭い声が飛んできたので、肝を冷やしながら姿勢を正す。土方さんの後ろから、沖田さんと近藤さんがひょっこりと顔を出した。
「先生一人しかいないとはいえ、隊長って名前がついた役職なんだから、俺達と同じような服着るのは当然でさァ」
「そうそう。隊長の格好も似合ってるじゃないか」
「本当ですか?」と疑りの言葉を投げようとしたところで、視界の上の方で土方さんの目が「『気を付け』の間は私語していいって誰が教えた?」と問いかけていたので慌てて口を噤んだ。こうして部下の口答えを封じるなんて酷い。圧政だ。恐怖政治だ。
「サイズは合ってる、が。スカーフ曲がってるぞ」
妙な具合にシワが寄ったスカーフを正される。大きな手が自分の視界の下で動いているのを感じて、喉が動いた。あの、土方さん、平然とベストの中にスカーフ入れてるけど、何考えてるんですかあなた。しかし、言いたい事が言えない状態なので、セクハラすれすれの行為にツッコミが入れられない。
「土方さん、制服正すのにかこつけてセクハラするのはやめてくだせェ」
「あ゛?俺ァこの馬鹿の服装が乱れてたから直しただけだ!」
ええー。アウトですよアウト。そう喉元から出かかって、じとりと睨めつけられた。けれど二度も三度も同じ事をされれば流石に耐性がつく。気を付けの姿勢だけは崩さないまま、半目で上司を見上げる。
「でも、私、胸に触られました」
「触りたくて触ったわけじゃねーよ。誰がお前みたいなちんちくりんに触りたいなんて思うか」
「きょーくちょー!副長がセクハラの上に侮辱してきますー!」
「トシ、最近はうるさいんだから程々にしろよ」
「セクハラする奴なんて老若男女関係なく人間の屑でさァ。つーことで土方切腹しろー!」
「うるせー!!」と週になんべんかは屯所のどこかで響く叫び声。遠雷のように聞こえている時は「またか」としか思わないのだけど、目の前で叫ばれると結構ドキッとする。まさしくカミナリだ。
「そもそもコイツがヘタれてるからだろ!俺責めんなら、先にコイツを責めねェと片手落ちじゃねーか!」
「確かに」
「先生、アンタが納得してどうすんですか」
事の発端は確かにあたしなので、土方さんの言い分もわからなくはないのだ。それはさておき貴方が直す理由はどこにあったのかは理解に苦しむけれども。気を取り直した土方さんは『休め』と短く号令をかけた。足を肩幅に広げて、手を腰の後ろあたりで組む。『休め』と言われたからといって休める訳じゃないのよね。
「それ着るなら堂々としてろ。そしたら少しはそれらしく見えるだろうよ」
「そういうものですかねェ」
「大丈夫、そうやって背筋を伸ばしてると、ちゃんとかっこいいぞ」
「本当ですか?!」
かっこいいと言われてちょっと嬉しいのは、年頃の娘として少しどうなのかと思わなくもないけれど、嬉しいものは嬉しいのだ。少しだけ、彼の背中に近づけたのだと思うと、この身が、ほんのちょっぴりだけ誇らしい。確かに自分は前に進んでいる事が、いざ形になると嬉しい。
「調子のいいヤツ」
「土方さんはすぐそうやって混ぜ返す。私、土方さんのそういうところは良くないと思います」
「うるせークソガキ。調子に乗るな」
眉間にデコピンされた。字面だけとると可愛いけど、真選組鬼の副長の人差し指から放たれるそれの威力は全然可愛くない。ほんの一瞬、二日酔いに苦しむ脳みそが激しく揺らされ、視界に星が飛んだ。眉間という急所に一点集中でかかった瞬間的な力は、かなり頭にくる。
「いったい。二日酔いなのに」
「もうすぐ成人の癖に飲みすぎる奴が悪い。そのうち肝臓死ぬぞ」
「土方さんこそいい加減に煙草止めたらどうですか。そのうち呼吸器死にますよ」
お互い、病気になるまで生きるつもりが無いからこんな事をしているのだ。それはあっちも分かっているのか、長く長くため息をついた。
「いや、本当に煙草は程々にしてくださいね。あたしの肝臓は土方さんにでも貰えばなんとか生きていけますけど、肺の移植はそもそもの条件キツイですから、肺を病むと大変ですよ」
「なんで俺がお前に肝臓やる話になってるの。ぜってーやらねェから」
「えーいいじゃないですか。7割位までなら減っても元に戻るんだし。土方さん体大きいから切るのも最低限で済みそうだし」
「ふざけんな!そもそもお前が肝臓やったとしたら十中八九酒の飲みすぎの自業自得だろ!黄疸にまみれてそのまま死ねや!」
「土方さんのケチ!冷血漢!」
「なんだとゴラァ!このチビ!」
そこからは止まらない舌戦もとい子供の喧嘩だった。お互いの悪口を思いつく限り投げつける。最終的に互いの胸ぐらを引っ掴んで、味方になりそうな人間に話を振ろうとした。
「――そう思いませんか沖田さん!?」
「――近藤さんもそう思うだろ!?」
ほぼ同時に叫んで同時に相手を見たつもりだった。けれど、部屋の中には誰もいない。あたしはそれまで喧嘩していた相手と顔を見合わせた。
「あれ、いつの間に?」
「逃げられたな」
「そうですね」
相手の襟の合わせ目を鷲掴みにした状態のまま、天使が通る。一呼吸置いて、冷静になると、なんであんなくだらない事で言い争いをしていたんだろうと思えてくる。それは相手も同じだったようで、だんだん気まずそうな顔つきになっていく。最終的に、ぱっと手が離れて、ふいと顔を背けられてしまった。
「あー、仕事、戻るか」
「そうですね。すみません、ガーガーうるさくして、あれやこれやと言いたい放題しちゃって」
「いや、俺も色々言ったから、その、なんだ……あー、悪かったな」
ここまでなら多分よし仕事に戻ろうってなったはずなのに、愚かなあたしは要らぬ事を口走ってしまう。
「他人の嗜好にとやかく言っちゃいけませんね、迷惑がかからない範囲なら」
「お前だってもうじき成人なら、自分のコントロールくらい出来るよな」
そっくり同じタイミングで彼がうっかり口に出してしまったと思われる言葉を考える。再び沈黙が場を支配する。互いに相手の顔を見つめる事、ほんの一瞬。一旦和解したはずだったのに、またも小競り合いが起きた。
「副流煙で思いっきり迷惑かかってるじゃないですか!」
「酒量全くコントロールできてねェだろーが!」
土方さんの言葉は的確にあたしに突き刺さっているし、あたしの言葉もまた的確に彼に突き刺さっている。鏡に向かって暴言を吐いているような状態だ。ヒートアップしたのも一瞬。すぐになんとも言えない気持ちになって、土方さんと同じタイミングで胸ぐらから手を離す。
「……やめましょう。これ以上は本当に不毛です」
「……そうだな。お互い、生活習慣にゃ気をつけようぜ」
「そうですね」
相手に背を向けて、今度こそ仕事に戻った。
*
昼食。ガヤガヤと賑やかな食堂に踏み入っても、いつぞやみたいに一瞬テレビの音だけがはっきり聞こえるなんて事にはならない。それが土方さんの言う「隊に馴染めている」事の証左のようで嬉しい。真向かいに土方さんか近藤さんもしくは斉藤隊長や山崎さんを据え、沖田さんと並んで食事を取るのは事件が解決してからも習慣になってしまった。
しかし、今日はなんだか疲れたな。人とぶつかり合うのってこんなに疲れるんだっけ。昔はこうじゃなかった気がするんだけど、もう年なのかな。まだハタチ前なんだけどな。カキフライをつまみながらため息を吐く。斉藤隊長がオロオロと全身で心配を表している。ジェスチャーで何事も起きてないと伝えて事なきを得た。
「あー、喧嘩したら疲れた」
「あんなくっだらねー喧嘩を飽きずに繰り返せるもんでィ」
「そうだね。大抵火種一緒だもんね」
「ナンタラは犬も食わねェってーのはあの事だ」
誰が夫婦だと反駁する元気も惜しい。喧嘩ってこんなにカロリー使うんだな。
「多分あたしが一言多いせいかな」
「多分じゃなくて間違いなくそーだろ。まあ、土方の野郎もアンタ相手だと普段以上に口うるせェが」
「心配されてんですかね」
「野郎からすりゃ、成長しただのなんだの言っても、まだまだ手がかかるって考えてんじゃねーの。迷惑な話でィ」
この前コンビニ2階のイートインで「世話の焼ける」とぼやかれた事を思い出した。子供のような扱いをされる事がままある沖田さんも、そこは不満らしい。
「まー酒や字や運転だとまだまだ迷惑かけてるから『世話の焼ける』っていうのも否定できないなあ」
「それでも、俺達ゃ野郎の若い頃よりはだいぶマシだぜィ」
「うーん、あそこまで行くと規格外でしょ」
「違いねェや。まだ可愛い方でィ」
近くに座っていた原田隊長が「いや、似たようなもんだと思う」と言っていたけれど何の事だか。
「なんというか、弟分にせよ妹分にせよ楽じゃないね」
「全くその通り」
沖田さんと二人でうんうん頷いてると、困ったような目でこちらを見ている斉藤隊長と視線がぶつかった。
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