別の事をしていたような気がするのだけど、と内心で首を傾げながら、縁側に腰を下ろしてお茶をすする。上を見ると、船が空をかけていた。形状は明らかに水の上を走るものだけれど、その程度の光景は驚くに値しない。一歩外に出れば、トラの頭を持つ二足歩行のナマモノとか、よくわからないものがわんさと歩いている現状にも慣れた。
この世界に流れ着いて半年が経った。あんなこと、こんなことがあったけれど、なんとかうまくやっていると思う。丁度節目に当たる日だし、少し色々思い出してみたい。たまには整理整頓は必要だ。
私は今岩尾先生の弟子のような事をしている。やっていることは先生の後ろで言われたものを差し出したり、注射の準備をしたり、検死の手伝いをしたり。つまり雑用。これはこれで勉強になるし、なにより仕事をしていると現実を直視せずにすんで少し気が楽だ。雑用と並行して医術開業試験に向けて勉強もしている。こちらはなんとか最短で行けそうかな。
現実、現実。まず自分の立場の不安定さ。いつか本当に死んでしまうのではないかという恐怖。ふとした拍子に、恐怖と一人っきりで向き合うと、息もできないような苦しさを感じる。けれど、それを抱えても生きていかないといけないんだ。あたしは、あの人のかけてくれたものに応えたい。第一、いつ死ぬのかわからないのは普通に生きてても変わらないしね……。
しみじみと空を見上げていると、どたどたと賑やかな足音。それも二人分。悲鳴はない。その代わりに土方さんの怒鳴り声。この条件だと、沖田さんと土方さんの追いかけっこかな。巻き添えをくらわないように、湯飲みを持って縁側から庭に足を下ろす。飛び石の上に乗れば、それほど足を汚さずにすむ。
巻き添えを食らったせいで沖田さんとあたしの魂が入れ替わって、大変な目にあったのはまだ記憶に新しい。いい事といえば、沖田さんのおかげで剣は少しましになったことくらい。側杖を食って散々な目に遭うのはもう懲りた。
「総悟ォォォォォ!!!」
沖田さんと思しき残像と、土方さんらしき残像が廊下を駆け抜ける。だいぶ後ろから近藤さんの「廊下は走るんじゃありません!!」という注意が飛んできているけれど、風の速さで走る彼らには追いつけないだろう。力尽きた近藤さんはぜーぜーと荒い息を整えている。視線に気がついたのか、目が合った。息がすぐに整っていた。伊達に局長やってるわけじゃない。速度はあの二名に分があるんだろうけど、力は誰の追随も許さない人だ。
「あ、すみれちゃん、裸足でどうしたの」
「お二人がすごい勢いだったので、巻き込まれないように避難していました」
「ったくもー、アイツらったら、乱暴で困るよねーホント」
「いえいえ、元気なことは良いことだと思います」
「それにしたって、限度ってのがあるよ」
この前ビル半壊させたのアイツらだったんだけどさぁ、後始末がすごい大変で。愚痴る近藤さんにうんうんと頷く。けが人が出るとあたしまで駆り出されるのでその苦労はわかるのだ。でも書類作ったのと偉い人への謝罪文を考えていたのは土方さんだと思った。頭を下げたのは真選組のマスコット、もとい象徴の近藤さんだけどね。
近藤さんは初対面で明らかに胡散臭い経歴のあたしにもこんな風にフランクに接してくれる。こういう馴れ馴れしい人は正直あまり好きじゃない。しかし、近藤さんは例外だ。彼は不思議と嫌悪感を感じさせなかった。いつだって誰かを信じて、どんと受け止める強い人だったからなのかもしれない。こういうところが土方さんや沖田さんを惹きつけるんだろうな。一種のカリスマというか、父性というか。普段はこの組織の構成員の例にもれずちょっと特殊な……だけれども。それもきっと愛嬌なのだ。
少し雑談をして、屯所に山崎さんの悲鳴が長く尾を引いたところで、近藤さんはハッとしたように走り出した。「トォォシィィ!総悟ォォォ!!走っちゃ駄目だって言ってるでしょうがァァァ!!!」なんて屯所中に響きそうなくらい大きな声をあげて追いかけていく。男の太い悲鳴。直後に腹に響くような振動。空には爆煙。方角は土方さん達が走り去った方向。沖田さんの仕業だなアレ。誰が巻き込まれたのやら。くわばらくわばら。
*
「一番隊は正面から、十番隊が側面を叩け。一人として逃すなよ」
時に怒鳴り、時に叱咤し、時にクダを巻く声が指示を出している。よく通る、誰よりも馴染んだ声。この人のおかげであたしは立っていられるのだ。
あれ、何してたんだっけ、と一瞬迷う。自分の体を見下ろすと、市民の皆さんからは怖い・むさい・暑苦しいと評される黒い隊服を纏っていた。そして顔を上げるとずらりと並ぶ同じ制服を身に着けた仲間たち。彼らの視線の先に、近藤さんがこちらを向いて立っていて、控えるように土方さんがこちらに睨みを効かせている。目が合った気がする。よりによってこのタイミングで挙動不審だったこと、気が付かれないといいのだけど。
「今回の討ち入りは実験的に火線救護担当の桜ノ宮さんが参加する。基本的に俺たちの後について、俺達の誰かに怪我があれば適切な処置をしてくれる」
あ、そうだ。今日はあたしが桜ノ宮すみれとして初めて参加する討ち入りの日だ。丁度、伊東さんが真選組にやってきた辺りだったかしら。沖田さんのガワで討ち入りに参加したことはあるけれど、あのときは無我夢中だった。今度は誰かの命を拾うために冷静じゃないといけない。自分の任務は医師免許が必要ない範囲で怪我人の救護をして、必要ならば怪我人を撤収させ軽症者は引き続き戦ってもらう、旧日本軍でいうヨーチンのお仕事だ。
「コイツを守る事は考えなくていい。お前らは前だけ見て突き進め」
土方さんはまずい煙草に当たった時のような顔を崩さない。その顔が、あたしが戦場に飛び込むことへ最後まで反対したことを示している。あたしがここに立っているのは、沖田さんが背中を押してくれて、近藤さんと土方さんに反対されてもあたしの側に立ってくれたからだった。列の先頭に立つ栗色の頭の少年を目だけで確認する。不器用で性格はどうかと思うけど、彼なりの正義だとか信念がある人で、なんだかんだ侍なのだ。
「解散!」
土方さんの号令で決起集会は解散。各自が持ち場へと急ぐ。あたしは十番隊の後について必要に応じて移動しろという命令だった。包帯やガーゼに腰の獲物を確認していると、土方さんが寄ってくる。いつも通りのくわえ煙草。浮かぶ渋面は三割増し。スキンヘッドの原田隊長が姿勢をただした。自分も彼に倣ってそうする。
「桜ノ宮」
「はい」
普段よりも少し厳しい声。いや、もしかすると普段が少し気を使って柔らかい呼びかけをしてくれていたのかもしれない。この人は不器用な癖して気遣いが上手い人だから。
分かっている。彼が真剣にあたしの身を案じてあたしを戦いから遠ざけようとしたことは。
分かっている。いつも何かがあると、視線を走らせてこの身の無事を確認していたことも。
でも大丈夫です。ちゃんと突きも出来るようになりました。
大丈夫です。これが血で血を拭っているに過ぎないことも理解しています。
じっと抜身の刃めいた目を見つめていると、彼は何かをこらえるように歯を食いしばった。
「俺はお前が討ち入りに参加する事に反対した。それは今も変わらねェ。だがそれでもここに居たいのなら、俺を納得させろ」
「はい、最善を尽くします。でも誰も怪我しないことが一番だと思います」
土方さんは鼻で笑って背を向けた。煙草が長い指に挟まれている。煙が彼の後ろをついていく。今日はマヨボロじゃなくて
希矢素絶なんだ。紙と匂いでなんとなくわかった。
「土方さん心配性ですよね」
「俺は副長の気持ちもわかるけどなあ」
十番隊の隊士と言葉を交わしたのも一瞬。配置に近づくにつれみんな無言になる。
「御用改めである!!神妙にお縄につきやがれ!!」
あの人の声が嚆矢となった。隊士と浪士が鬨の声をあげてぶつかり合う。
*
いらないハンカチで血濡れの相棒を拭う。刀を鞘に収めて地面を見ると、首と左肩の間あたりから右脇腹にかけて大きな刀傷を作った男が横たわっていた。明るい室内にもかかわらず瞳孔は開ききっている。ピクリとも動かないそれは、脈を取るまでもなく死体だとわかった。下手人は自分だ。
職務上必要な事、自己防衛、いろいろ理屈はつけられるけど、自分が手を下した。人はこんなにも脆いのか。あの時はただただ恐ろしかった光景に、何も感じない自分は、果たして本当に人間なのか。不意によぎった疑問に凍りつく。
「どうした、すみれちゃん」
「いえ、いつも見下ろすなあって思いまして」
「そりゃ死体が天井に突き刺さるなんざ沖田隊長以外ありえねえよ」
「確かに」
死体が、死んだ彼とだぶった。かぶりを振ってその幻を打ち払う。目を閉じる。あの人の背中を追う、そんなあたしの他に理解できるもののいない理屈で死んだ人間を、悼んだ。
*
「起きろバカ娘」
肩を軽く蹴られて目を覚ます。顔を覗き込んでいるのは、見た目だけで評価するなら百点満点の色男、真選組鬼の副長土方十四郎。見た目も鋭ければ頭も鋭い真選組の頭脳。しかもこの組織には珍しい常識人。真選組は彼のような人材を取り入れる事ができた幸運をもっと感謝すべきだ。しかし、度を越したマヨネーズ好きであるという一点で見た目と頭脳そして常識人のアドバンテージを全て帳消しにする残念な男でもある。あと、昔に比べてあたしの扱いが大分雑になった。普通女の子の肩を蹴るか?
「なんか失礼な事考えてないか」
「いいえ、別に」
疑わしいものを見るような鋭い目からそっと視線を逸す。「オーイこっち見ろー」と言われているけれど無視だ。そういえば、さっきまで岩田屋の廊下で死体を見下ろしていたような気がするのだけれど。
「あれ、討ち入り」
「なぁに言ってんだ?討ち入りは1週間後だぞ」
「そう、でしたっけ」
「本当に大丈夫か?」
土方さんは妙なものを見るような目で私を見る。そして神妙な顔をして私の額に手を当てた。
「熱はねぇな。ただちと温い。寝惚けてんのか?」
「うーん、変ですよね。だって私さっきまで岩田屋の廊下で」
「何年前の話してんだお前」
土方さんは悪いものでも食べたのかなんていいながらもう一度あたしの額に手を当てた。顔が近い事に少し気恥ずかしさを覚えて視線をそらす。
「あれれ、私、まだ医学生ですよね」
「何寝惚けた事言ってんだ。この前二次試験合格してたろ」
二次試験合格という事は、あたし、医者だ。そんなインパクト抜群の出来事がうまく思い出せない。ぼんやりとしすぎていて、夢の出来事のような。
「私の年齢は」
「19。もうじき誕生日だろ」
記憶が混乱している。唸り声を上げていると、頭の形を確かめるように撫でられた。どうやら打ってないか確認されているらしい。口を開かれて、吐瀉物とかそんな感じの痕跡が残っていないか検分された。
「頭でも打ったのか?」
彼はそう言いながら、人の胸ポケットから抜き取ったペンライトで目を覗き込んで首を傾げている。かなり近い。見慣れた美形とはいえ、異性と顔が近いのは少し緊張する。借りてきた猫のようにおとなしくなるあたしに対し、土方さんはどこまでもいつも通りだ。男子と変わらない対応をされている。もう女性だと意識されてないんじゃないかって思う時がある。いいのか悪いのか。
「夢、だったんですかね」
そもそもが死にかけの夢か幻かわからないのに、これ以上惑わされたらそれこそ夢と現実がごっちゃになって飛び降りしかねない。いや、今の光景さえ夢なのかもしれないと思い始めている。頭を振ってその妄想を追い払う。
「昔の土方さん優しかったなあ……」
「俺は今も優しいだろうが。もっぺん夢の世界戻るか?」
ぺきぽきと指を鳴らす成人男性。そういうところだぞ副長。小さく笑うと、深々とため息をつかれた。そして彼はあたしを小突いて隣にどっかりと腰を下ろすと、煙草を一本取り出した。
「いるか?」
「いいんですか。未成年ですよ」
「もう気にしない事にした。総悟の段階で今更だ」
煙草を咥えて何故かポケットに居座っていたライターで火を付ける。ゆっくり吸って口の中で味わうと、少しだけ気分が上向いた。煙のせいか、目がしょぼしょぼする。
「吸い方は覚えてるんだな」
「自然と」
「最初吸った時は、むせていた」
「そんな記憶があるようなないような」
「その辺も曖昧か。岩尾先生に診てもらうか?」
首を横に振った。なんとなく、自然に戻るんじゃないか、そんな楽観があった。あたしにしてはとても珍しい事だ。
「土方さん」
「あ?」
「今でも、私が、討ち入りに参加するのは反対ですか」
伏し目がちに庭を見る彼の目に変わりはない。目よりも雄弁なのは口元だった。煙草の火が上下する。彼の何かに触れた時、たまにこんな反応が帰ってくる。
「当たり前だろ。お前は忘れてるだろうが、俺ァずっと考えてるよ。隙あらばお前を前線から引っ込めようってな」
「今まで火線救護の制度が生き残ってるという事は、結果出てますよね?」
「それが腹立つんだよ。なまじっか戦果があがってるせいでイチャモンがつけにくい」
煙草を咥えた口の端を持ち上げると露骨な舌打ちが返ってきた。「生意気だな昔っから」なんて嘆きのようなものが聞こえてくる。
「お前がいるおかげで死ぬやつは前よりも格段に減った。命を拾った隊士共はなんだかんだ『生きていてよかった』つって喜んでる。たとえ剣を握れなくなってもな」
不意に利き手を怪我した隊士を思い出した。手首をばっさりいかれていて、骨が繋がっているのが幸運とさえ思ってしまうくらいだった。「俺はまだ、戦えますか」という彼の問に答えず、処置をして下がらせた。……結果として、彼は命と引換えに、侍として剣を握る事はできなくなった。日常生活には問題がないものの、命の取り合いとなるとどうしても鈍いのだ。刀を振り回せない隊士は真選組にはいられない。当然除隊となり、あたしは彼の背中を見送った。
数ヶ月がたったある日、一度も恨み言を漏らさず郷里に帰った彼から、荷物が届いた。中には特産だというさつまいも。アルミを巻いて焚き火に放り込めば美味しそうな芋だった。付いてきた一筆書きにはたった一言『ありがとうございました』と。一緒に入っていた写真には綺麗なお嫁さんと小さな子供と一緒に手首に生々しい傷を残した男性が写っていた。
「あ、お芋くれた人」
「食い物で識別しなかったか?」
「まさか、症例と食べ物が紐付けされてただけです」
「ひでェな。名前で覚えておけよ」
「焼き芋食べたいなー」
「おい、聞いてるか?」
怒気が籠もってる気がするけれど無視だ。非常勤で働いている大江戸病院救命病棟の患者さんも含めれば、何人診てたと思ってるんだか。いくら隊士だったとはいえ、全員覚えているのは難しい。ましてや生きているし。……あれ、あたし、非常勤で、大江戸病院でも働いて?
……思い出してきてるのか、夢の世界に囚われているのか。やめよう。考えすぎると色々駄目になりそうだ。上まぶたと下まぶたが離れなくなりそうなのを気合で耐える。
「あたし、お役に立ててますか?」
「本当に大丈夫なんだろうな」
「私は平熱だし、悪いものを食べた覚えはありませんし、頭も痛くないです」
「じゃあ当直明けで疲れてるんだろ。寝ろ」
土方さんが腰を上げようとするのをジャケットの裾を掴んで阻止する。顔は正面のまま、目だけが動いて睨んだ。
「そうやってはぐらかすの、汚いです」
「そりゃあ、お前よりも大人だからな」
「もうすぐハタチですよ」
「どっからどう見ても小娘にしか見えねェがな」
「そうやって茶々入れるのは子供の証でしょう」
蛇睨みに負けず睨み返すと、威圧感が増した。穏やかだった空気が、重く鋭いものへと姿を変える。
ため息をついたのは土方さんの方だった。
「まあ、米粒程度には――」
無いよりはあったほうが良いものとして評価された事で、力が抜けた。首がすわらない。体が浮きそうな感じ。
誰かの焦った声を聞きながら目を閉じた。
*
目を覚ますと、白い天井と相対した。天井の間の空間におっかない顔をした土方さん。
「過労だと」
土方さんは開口一番、あたしが倒れた原因を教えてくれた。多分宿直が原因かな。あれは結構堪えた。夜中から朝まで神経とか繋いで頑張ったから無理もない。
「面目ないです」
「まったくだ。気分はどうだ」
「問題有りません」
「そうか」
ところで、どこから夢だったんだろう。記憶を探っても、いまいち判然としない。土方さんを詰問したのは夢かしら。考え込んでいると、土方さんが立ち上がる気配がした。反射的に顔を上げる。彼は衝立に手を添えて、こちらを振り返った。
「自己管理がなってねェ内は米粒のままだな」
土方さんはニヤリと笑った。
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