夢か現か幻か | ナノ
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隊士が集まると汗やらなんやらで鼻が曲がりそうになる夏の道場も、今このときばかりは人口密度の少なさゆえ、臭いが大分緩和されていた。

この道場に居るのはあたしと土方さん、それにボンクラこと佐々木鉄之助、以上三名だけだった。土方さんが鉄に付き合って、自主稽古をやっているようだ。あたしは暇なのでヤカンと救急箱を持って待機だ。

まあ、土方さんは教えるの割とうまいし、あたしが必要になるような怪我をさせるとも思えないんだけども。

声を上げて土方さんに突撃していく鉄。構えは新入り隊士の方がよっぽどなっている。しかし、その気迫は立派な武士と言っても過言じゃない。

あたしは必死こいて頑張る人には好感が持てる。土方さんに竹刀で滅多打ちにされても折れないところに、自分も学ぶべき部分がある事に気付かされて、視界がまた晴れたような気分だ。

「土方さーん、私も一本付き合ってください!!」
「あ?」
「そろそろ鉄に水飲ませてあげないと」
「俺はないのか」
「汗一つかいてない人が何をおっしゃいますか」

鉄が休憩してる間でいいですから。そうゴリ押しすると、流石の土方さんも折れたらしい。鉄に休憩させて、自分は竹刀を構えた。土方さんも同じように正眼に構えた。

剣を取る時、あたしは自分の中の鬼と相対する。

ひりつくような空気。交感神経が刺激されて、胃に回る血液が減る感覚。自然、唇が釣り上がるのは、あの日の感覚を思い出すからか。……初めて人を殺したあの日。

おぼろげな運命の分かれ道の記憶の中に、確かに、奇妙な高揚があったのだけは覚えている。この高揚を鬼の性と言わずしてなんというのか。

「こっちから行くぞ」

その声と一緒に飛んできた剣先を、鎬でもって受け止めた。

*

あたしと土方さんが打ち合うという小休止を挟んで、また鉄の稽古が始まった。土方さんとの実力差にはさほど変化がないものの、それでも彼のやる気は下がる事なく続いていた。普通の隊士ならあそこまで叩かれれば折れる。土方さんも見どころがあるのを理解しているから、彼を見捨てずに付き合っているのだろう。

日が落ちて、薄暗い道場で、医学論文に目を通しながら、二人の鍛錬に付き添っていた。

日中長い間、土方さんに食らいついていた鉄も、とうとう体力が尽きたらしい。板張りの床に這いつくばった鉄を、鬼の副長は冷たく見下ろしている。

「ったく情けねェ野郎だ。そんな調子じゃ、一日もたずに浪士どもに斬り殺されるぜ」

自堕落な生活習慣を続けた子供と、毎日部下や浪士相手に切った張ったやってる大人とじゃあ基準が違うのは、土方さんも重々承知。それでも彼に高い目標を提示するのは、きっと少なからず期待しているからだ。そして、鉄も、それを理解している。

期待され、それに応えて、それを元にまた新たな期待をかける。その木霊のようなやり取りが続いているのが、嬉しかった。

「死にたくねーなら、強くなるこった。晩飯までに3千回素振りしておけ」

言い捨てて煙草を咥えて立ち去る背中に、鉄が声をかけた。

床に転がったまま、それでも視線はまっすぐに、強くなると誓っていた。

昔、誓った事を思い出す。ターミナルを見上げながら、一つの誓いを掲げた、あの日の事。

――あたしは、桜ノ宮すみれは、誰よりも、強くなります。

自分は、あの頃から少しはマシなものになれたのだろうか。考えても結論は出ない。結論が出たところで、そこで歩みを止めれば、そこが桜ノ宮すみれの終わりだ。ならば、振り返らずに進むしかない。

「だ……だから、副長も強くなってください」
「?」
「副長の兄上は……副長の事を恨んでなんかいませんよ」
「……!!」
「きっと副長に会いたがっています」

そりゃあ、実の子供のように可愛がっていた子供だ。その子供の代わりに光を失ったとして、それで護った子供を恨む事があるはずもない。でも……土方さんのお兄さんは、多分……。

思い出されるのは炎に揺らめく半面像。オレンジ色の熱源を見つめる、その目はひどく悲しげで。彼の兄上の現在を訪ねた事を後悔させるのには十分すぎた。

止めるべきかと悩んだけれど、ここで口を出していいのは当事者である土方さんだけだろうと口をつぐんだ。

「だって、副長は小さい身体で、必死に兄上を護ろうとしただけじゃないですか。兄上は……必死に副長を護ろうとしただけじゃないですか。立派な……兄弟です」

仄暗い場所を見ているような、気がする。

自分はあの時、何を護ろうとしたのだろう。とっくに父親は死んでいた。弟も、あたしが発見した時には身じろぎ一つしなかった。

護るべきものを失い、目的を見失った剣は、最後に残っていた護りたかった人さえ、斬った。

「自分は副長がうらやましいです。だから、どうか兄上から逃げないであげてください。――アナタ、バラガキのトシでしょ」

土方さんが咥えている煙草、その先端が上下した。彼のなにかに触れた時、いつもああやって、煙草が動くのだ。

「……ったく、どこのどいつだ。……アホに余計なこと吹き込んだ奴ァ」

ちらりと鋭くあたしに視線が向けられたけれど、断じて違うので顔の前で手を振りつつ、首も振った。言ったのは近藤さんだ。

「いいか、今度俺の前でその名を口にしてみろ。全身の穴にマヨネーズぶちこんで殺すぞ」

ピシャと鋭い音を立てて、障子が閉ざされた。月明かりに、鉄と、あたしだけが残った。

さて、道場の縁側。月明かりが障子に描く影。その中には月を見上げる土方さんの姿があった。夜空に煌々と輝く月を見上げて、おそらくは煙草を吸いながら、彼は何を思うのだろう。

*

一本の電話が、かねてより危惧していた嵐の到来を告げた、らしい。なぜ、はっきりしない語尾を使うのかというと、それはあたしが急な呼び出しで席を外していたからだ。

留守電を聞くと、鉄が浪士に捕まって人質に取られているとの事だった。次の留守電には、鉄が元攘夷浪士だったようだという事実を告げるものが入れられていた。最後の留守電には、人質に取られている場所。天人の資本が引き上げたせいで廃墟になったエリア、その一角だ。

まずは屯所までバイクを走らせ、それから、一台残されていたパトカーを駆って、現場に急ぐ。

そういえばチェケラだかなんだか知らないけどよく分からないのがいたなあ。あれもラップで幕府をディスる集団じゃなかったっけ。最近暴徒化して手がつけられないから、見廻組が狩るって話だったけれど。鉄もラップ好きだって言ってたっけ。……まさかとは思うけど鉄は連中とつながりが……?杞憂であってほしいが、否定する材料は特にない。

最悪の予感が正しいと仮定して考える。

見廻組の獲物、見廻組局長の不肖の弟、取締対象が被る二つの警察。

嫌な予感がする。どうか、あたしの手の届く範囲であるように。それだけを願い、ブレーキを強く踏む。

目的地にたどり着いたのだ。

荷物を持って、車両から飛び降りる。

ビルに囲まれた広間。有刺鉄線の前。白と黒の人だかり。黒い集団が囲む真ん中。そこに、何を引き換えにしてもいい、そう思った人と、彼の愛刀が横たわっていた。血溜まりの中で、刀を手放している。

それは、自分が思い描く中で、最悪の未来だった。

床に倒れて動かない、大好きだった父親の最期を思い出す。

自分の呼吸が、浅く早い。耳の奥で、ごうごうと音を立てて血が巡っている。見廻組の白い制服が赤い。

自分が、どんな顔で、佐々木を見ているのか、分からない。ただ、あの男の唇はわずかに釣り上がっているのだから、きっとあたしは、大層愉快な表情をしているのだろう。

「これは、お勤めご苦労さまです。桜ノ宮さん」
「…………」
「あなたも大変ですね。あんな愚弟のために、決して軽くない犠牲を払って」
「…………」
「必要ならば、見廻組の救護班をお貸ししましょうか。私、真選組のファンですから、衛生隊長も用意してみようかと思って、まだ開業試験は突破していませんが――」

やったのはお前だろう。そう言い返したいのを飲み込んで、地面に倒れ伏す頼もしい背中に歩み寄る。今は、剣を抜く時ではなく、言い争いが必要な場面でもない。自分が戦い傷を負えば、誰が倒れた人の命を繋ぎ止めるのか。

「先生!」
「副長が!!」
「見れば分かります。平野さん、貴方は大江戸病院に連絡を。一つベッド開けておくようにお願いしておいてください。ほかは手足の止血。飛口さんはあたしの補助を頼みます」

目についた隊士に手伝ってもらいながら着衣を剥いで、止血の必要な傷を判断する。

背中は言うに及ばず。左右の上腕部の裂創、左肩の銃創、右の大腿の裂創。

これを見る限り、佐々木はよっぽどの手練らしい。もしあたしがあの男とやり合っていれば、自分も同じように地面に倒れていただろう。

隊士とともに止血を行おうとしたその時、それまでピクリともしなかった土方さんの手が動いた。伏せられていた目が、強い光を灯している。こんなになっても、まだ戦うつもりなんだ、この人は。

突如動いた彼の手は、止血帯を掴むあたしの手を、押しのけた。

……まあ、そうだよな。この人が倒れっぱなしでいるようなタマであれば、とうの昔に死んでいる。倒れようが起き上がって、命ある限り戦うのが、この人だ。医者としてはその行動に反対だけど、この人の貫きたいものを思えば、仕方がない。

「この分だと、フェンタニルも余分ですね。すみません、止血帯じゃない方法で、止血しましょう」

地べたよりはるか上から、土方さんが鉄に託したという手紙が読み上げられている。時間はありそうだ。でも、今のうちに手当を済まさないと、見廻組が突入してしまう。

状況は今ひとつ読みきれないけれど、抜け目のない佐々木の事だ。抜け作の弟御もろとも、浪士を叩き斬ってしまう、そのつもりなのだろう。そしてその責任は真選組に負わせる、と。……なんともはや。

今ここに近藤さんと沖田さん、それと山崎さんがいないという事は、おそらく彼らは別働隊だ。目的は鉄の救出。土方さん達とこの広間に残った隊士達は、浪士向けの囮。そして見廻組の本隊の突入を食い止めて時間稼ぎ。

……おそらく、ここに残っている中で一番強いのは間違いなく自分だ。ならば、あたしが佐々木を押さえるか……?いや、土方さんさえこの通りだ。悔しくてたまらないが、勝てる気がしない。

手短に手当を済ませ、元通りに服を着せ、ハンカチで彼の顔の泥を拭う。惚れ惚れするような美しいかんばせがそこにあった。血も傷も泥でさえも、この人の男前を貶めるには至らない。

しかし、一番綺麗だと思うのは、やんちゃ坊主達が読み上げた手紙から伺い知れる内面であったり、こんなになってもまだ立ち上がる強さであったり、そういう何にも変えられない大事なものなのだけど。

土方さんの手を握り、声をかける。彼の手は、あたしと同じ温度をしていた。

「土方さん」

土方さんは答えない。構わず続ける。

「次やられたら、許しませんからね」

その言葉に応じるように、強く、手を握られた。

銃声が轟く。穴の空いた手紙が、誰にも届けられず宙を漂った。

佐々木の号令に応じて、白い集団が廃墟の中に突入するべく、駆け出した。

あたしのすぐそばで風が吹いて、次の瞬間には、手の中に熱の残渣が残るだけだった。体温の持ち主は、見廻組の進路上で、剣を取り、不敵な笑みを浮かべて、立ち塞がっていた。

脚は切られている。きっと血だって足りてない。今の彼の状態では、立つのだって難しいはずだ。刀の柄を握るのだって覚束ないだろう。それでも、護るもののために彼は刀を手にあそこに立っている。それをどうして止められようか。

威嚇射撃が二度。最後の一発は本気で射殺するつもりだ。そして佐々木は刀も構えている。なるほど。銃撃で相手の動きを縛って、銃弾に当たればよし、弾を避けられれば斬るのか。

かの有名な二天一流の宮本武蔵は右手に大太刀、左手に小太刀を構えたと聞く。二天とあだ名される佐々木は右手に刀で左手に拳銃だ。あくまでサブウエポンとしてしか使わない自分とは根本的に使い方が違う。刀と拳銃のいびつな二刀流を見事に戦術に取り入れている。

なるほど、確かに二天だ。

しかし土方さんがこの程度で負けるはずがない。

彼は目を見開くと、鋭い突きでもってまず銃弾を両断し、その勢いのままに自分を散々痛めつけた男の拳銃を真っ二つにし、借りを返すように奴の左肩に刀を突き立て、更にはその背中を壁に叩きつけた。

音速を超える銃弾を捉え、あまつさえ真っ二つにする技量がなければ、こんな無茶はできない。

……あの状況で、のんきに構えていられたのは、『やられたら許さない』に答えるように手を握られた時から、こうなる気がしていたからだ。この男が、やられっぱなしで倒れていられるようなタマなものか。

「てめーは、そうして飾られてんのがお似合いだぜ。汚ねェバラよ」

壁に縫い付けられた佐々木を見て、土方さんは不敵に笑んだ。

戦場ここには、てめーらの咲く花畑なんてねェよ」
「フフフ。本当にあきれた人ですね、土方さん。事件の収束よりも市民の安全が大事だとでも。……いいえ、あなたは私情を優先しただけだ」

「あなたが救いたがっているのは、我が愚弟などではない。――土方家のかわいそうな自分ぐていだ」

あたかも本質を捉えたかのように、佐々木は言う。だけど、それは事実だろうか。

――一度背負った罪は雪げねェよ。

罪を背負う自分にそう言ったのは、他ならぬ、土方さんだ。己が罪を裁けない身の上である事なんて、そう理解しているのは、間違いなく土方さん自身だ。

それでもあたしを助け、鉄を助けようとする理由があるのならばそれは、きっと……。

一旦考え事を打ち切って、土方さんの介添をしながら、荷物を持って最上階の鉄の元へ走る。さっき怒涛のように見廻組の突撃隊が建物内に侵入した。あの場では交戦できなかったために食い止められなかったけれど、追いかけなければ。

土方さんはひどく苦しげに、階段を登っている。貧血なんだから当たり前だ。

「大丈夫ですか!?」
「くっそ……煙草、やめようかな」
「無理なら背負いますが!」
「お前、鬼か……?」
「そりゃあ鬼の副長の薫陶を受けましたから」
「はは……そりゃあ、鬼にもなるか」

背負うという提案はどうもお気に召さなかったらしい。曲がりなりにも真選組副長が女に背負われて……となれば何かと風聞もあるだろうから、当然かも。提案して拒否された後でそれに気がつくのは我ながら頭の回転が鈍いというか。

「最上階です」
「ああ、分かってる」

土方さんのその鋭い双眸の先には、一斉に斬りかかった見廻組隊士がいる。一足遅かったのか?鉄は?

精強な白い制服の男達が、身体をよろめかせ、崩れ落ちた。彼らの身体が地に伏せり、現れた白髪と洞爺湖の木刀にはえらく見覚えがあって。

「てっ……てめーはァァァ!!」

――万事屋、坂田銀時。

その男は携帯電話片手に、不敵に笑っていた。
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