頭を打ってしばらく休暇扱いになっていたものの、晴れてめでたく復帰だ。それにしても、衛生隊長になってから怪我とかその後遺症とかで戦線離脱する事が増えたな。なんだ?あたし何かに嫌われてるのか?……嫌われて当然だわ。そんな事を思う朝ぼらけであった。
真選組屯所の会議室。感染症が流行するご時世であれば三密などと指さされそうな空間に、隊士達が集まっていた。週初めの会議だ。この場のトップは土方さん。主な内容は申し送り事項、殊に浪士らの動静だ。しかし、一部の隊士達にとってそれらはさして重要ではない。
一部にとってもっとも重要なもの、それは――。
「三番隊は道場。二番隊は台所。五番隊、パトカー」
自分の所属を読み上げられた隊士達の中には露骨に安堵するものすらいた。いつも少人数編成の三番隊があの広い道場の掃除なんて、正直罰ゲームにも等しいと思うのですが。
しかし本番はこれから。最後に残った隊に所属する隊士達は死刑執行を待つ死刑囚のような面持ちで土方さんの声を待つ。
「――一番隊、厠」
一番隊の隊士達は、あからさまに仰け反って、声なき声で拒否を訴えかけていた。沖田さんは姿勢こそ胡座でいつも通りだけど、顔は隠しきれない絶望をのぞかせている。
そう。一部の隊士にとってもっとも重要なもの、それは掃除当番だ。これは誰が屯所のどこを掃除するのかを決める会議でもある。ちなみに、決めるのは土方さんだ。仕事に私情を混ぜる人ではないけれど、沖田さんのあの顔を見て胸がすくような思いをしていたり、しないだろうなあ。
とまあ、そんな事もあったが、あたしは会議の前に一通り仕事を終えて、手が空いていた。しかし、曲がりなりにも禄を食む身の上。暇などとは口が裂けても言えない。暇があるなら仕事を見つけるのが公務員である。
という事で、各隊の掃除の様子を見て回ることにした。
他の隊は問題なかった。まあ多少雑だったりするが、その人達が副長に怒られるだけだ。問題は一番隊の担当、厠だった。
さて、一番隊はちゃんとトイレ掃除をやっているのだろうか。勤務時間の始まりに行う衛生監査では、トイレは大抵汚い。だから期待はできないと思いつつ、廊下を歩いていると、逃げるようにトイレを後にする一番隊隊士らとすれ違った。そうかー、駄目だったかー。
「掃除ちゃんとやってますかー?トイレ掃除隊長」
「本気で泣かすぞクソアマ」
「それにしても、汚いトイレですね。お母さんにトイレトレーニングちゃんとやってもらいました?」
「ここの連中は先生みたいな清い育ちじゃねェ。そいつらにそんなもん期待する方がおかしいだろ」
「いや、それにしても限度があるでしょう。不衛生は病の蔓延を招きます」
「先生の言う通りですよ沖田隊長!トイレの汚れは心の汚れなのです!!」
その辺は良くわからないけれど、最低限、小便がついた手でものを食べたり顔触ったり人触ったりするのはやめてもらわないと。
「沖田隊長には先程申し上げましたが、桜ノ宮衛生隊長にも同じように申し上げたい」
「はい」
「この屯所は菌にまみれた魔窟です。この厠から、全ての淀みが生じています。その淀みはやがて真選組の魂までも濁らせることでしょう。今こそ、改革が必要なのです。――厠革命が!!」
ところどころ飛躍しすぎじゃないかと思ったりもするけれど、厠が尋常じゃなく汚いのは確かだし、衛生隊長として看過してはならないのも事実。ここは、この熱意ある隊士と共に、環境改善に向けて努力すべきだろう。
「よく言った勇者よ!!今この時をもってそなたを盟友と認める!!共に手を取ってこの魔窟と戦おうぞ!」
「えっノッた?」
「ありがとうございます桜ノ宮隊長ォォ!!」
手を固くつなごうとして、そういえば、厠に入っていたと気がついた。手を差し出す寸前で気がついて、二人揃って手を洗った。
*
所変わって、先の会議で使われた会議室。土方さんは、そこに残って刀の手入れをしていた。彼の大きな手の動きに合わせて反射光の角度を変えるその刀は、相変わらず妖刀村麻紗だ。
彼はこの妖刀を得てから、刀の手入れを頻繁に行うようになった。それは仕事道具の状態を適切に維持するだけでなく、もしかしたら妖刀に宿る怨念を慰撫する意味もあったりするのかもしれない。なんというか、あの刀、あんまり粗末に扱うと本気で祟られそうだし。
「――あん?厠の設備を一新してほしいだ?」
「ええ。衛生隊長の桜ノ宮すみれ先生と
一番隊の隊員の隈無清蔵からの提言でして」
隈無さんと二人揃って、三指付いて頭を垂れる。こういう提言では心象も重要だ。ただでさえ軽視されがちな厠の衛生状況だ。プライド程度ならいくらだって払う。それくらいはやるべきだろう。
「せめて厠の手洗いを蛇口式からセンサー式に変えてくれとの事でさァ」
「そんな無駄な事に使う金も時間もねーんだよ。厠掃除してる暇があんなら、市中で攘夷浪士でも掃除してきな」
言うと思った。このくらいは想定の範囲内だ。問答の打ち合わせして正解だったな。沈黙の後、頭を下げたまま隈無さんと目配せする。自分だと最終的に喧嘩になるので、ここは男同士、隈無さんに任せよう。
「失礼ですが副長。副長は用を足した後、お手を洗われになりますか?」
「あん?洗うけど」
「では何故、手をお洗いになるのですか。一体、用を足す際、何で手が汚れるのですか」
「何でもクソも、気分悪いだろ、手ェ洗わねーと」
そんな気がした。この人は、用を足した手で煙草のフィルターをつまんであまつさえ咥えるような、そんな大らかな性格じゃない。知ってた。好きな人がいつも手を清潔にしようと心がけてくれるのは、嬉しい。
顔をうつむけたままつい笑い出しそうになってしまったのを、咳払いでごまかした。そんなあたしを他所に、隈無さんは土方さんに追撃を行う。
「誤魔化さないでいただきたい。もっと明確に確実に、汚いなにかに、触れているでしょう。それは何ですか?何に触ったんですか?何が汚いんですか?」
追撃に熱が入るあまり、言葉責めにも似た状態になっている。聞いているこちらまでいたたまれない。正直帰りたくなってきた。
確か隈無さんは、先の動乱による隊員減に対応するべく行われた再配属で一番隊にやってきた隊士のはずだ。神山さんといい、一番隊に配属になる隊士は変なのが多いな。やっぱり隊長が変だと、部下も変になるのだろうか。そんな事を考えていると、鞘で殴られた。「あいだっ」と情けない声が漏れた。誰にぶん殴られたかなんて、言うまでもない。
「人の顔面に何するんですか沖田さん!」
「なんかすげー失礼な事思われてる気がしたから」
「お二人共、静かにしてください。さあ、副長、お答えください!」
「お前、女の前で何答えさせようとしてるんだよ!桜ノ宮、お前もツッコミ入れろ!!」
「アハハ……」
「副長!話をそらさないでください!!」
「……何って……ナニだろ」
土方さんはいかにも言いたくなさそうに言った。
土方さんは隈無さんの熱意に、多分引いている。あたしも引いてる。でも、隈無さんのペースに巻き込むのは成功したようで、彼は手入れ道具を脇に避けて、自分の刀を膝の上に乗せて話を聞いている。いいなー膝枕。
土方さんの返答を聞いた隈無さんは、我が意を得たりとばかりに声を高くして、土方さんに清潔の大事さを説いている。……清潔は大事だけど、流石にこうもあけっぴろげなのは、ちょっと。
熱のこもった口調でなおも続ける隈無さんは、土方さんをモデルにして、厠の清潔の大切さを訴えかけている。タマ菌って何なんですかね。
まあ、うん、確かに、蛇口にもタマ菌ついてるけどさ。そもそも手を拭くハンカチも一度使ったら不潔だし。ジェットタオルなんて、便器との位置関係によっては大腸菌吹き付けてるようなもんだしね……。
「――副長ォォォ!!あなたは結局最終的に、タマ菌をテイクアウトしてるんですよォォ!!」
「嫌な言い方すんじゃねーよ!!なんで俺だけみたいになってんだよ!それをいうなら、あの蛇口を使ってるてめーら全員、タマ菌まみれだろーが!!」
一歩踏み出し、不遜にも上司に向かって指をさした隈無さんに対抗してか、土方さんも同じように畳の上で足を踏み鳴らし、鞘先を隈無さんに突きつけた。一方、てめーら全員とひと括りにされた沖田さんはといえば、なぜか誇らしげな顔だ。
「残念でしたね土方さん。俺ァ、用を足してもあそこで手を洗いやせん。そのまま厠を出ます」
「それ直接タマ菌テイクアウトしてるだけだろーが!!」
「沖田さん、前あげたハンカチ使ってないんですか?」
沖田さんは目を合わせない。あれ作るの何時間かかったと思ってるんだこの人。
「汚い近づかないで」
「なんでィちょっとチンコ触っただけじゃねーか大げさな」
「その手には尿の飛沫が付いてるんだって話前にしましたよね!?その手であたしに触るなバカ!!」
「いででで……ドSはもちっと丁寧に扱えって!」
沖田さんを足蹴にする横で、どうも話が終わっていたようで、土方さんは部屋を出るべく立ち上がって障子に向かっていた。
「ちょっと桜ノ宮隊長!いい加減落ち着いてください!」
「……ったく。どいつもこいつも考えすぎなんだよ。菌なんか気にしてたら生活なんてできねーよ」
確かに。人間は極度の不潔では病気になるし、さりとて完全な清潔では生きていけない。清き流れに魚は住まないのだ。正直なところ、蛇口はぶっちゃけ気にし過ぎだ。しかし、不潔な厠に問題があるのには変わりない。さて、そろそろ自分がなにか言わないと話が進まないかな、と口を開こうとして、
「うがァァァァァ!!」
土方さんに焼き芋を勧めていた山崎さんが、土方さんに蹴っ飛ばされた。まるで男性に触られた柳生さんのような反応だ。なんで?
土方さんは「なんだありゃ?」となにか恐るべきものを見たような顔つきをしている。自分には何も見えない。当然、土方さんが恐る恐る視線を向けた彼の右肩にも。
「副長にも見えましたか……タマ菌が」
「え?タマ菌って視認できるサイズなの?」
「タマ菌!?まさかあれが……」
目を凝らしても自分には何も見えない。彼らには何が見えているんだろう。
「――!!バカな!いたる所に……」
しまいには近藤さんがタマ菌まみれだと宣う。確かにあの人、手を洗わなさそうだけども。なんなら毎日自家発電してそうだけども。
話に今ひとつついていけなくて、沖田さんと目配せをした。
なんか見える?
……いや?
言葉を使わない簡素なやり取りだけど、今回に限っては精度が高そうだ。不潔恐怖症の亜種かな。でも幻覚見てるしな。そんな事を考えながら、厠革命に乗り気になった土方さんと隈無さんを見ていた。
「沖田さん、ついていくんですか?」
「面白そうだろ。あとなんでそんなに距離開けるんでィ」
「密です」
「時事ネタは鮮度が命ですぜ」
伸ばされた手をかわしつつ、口笛を吹いて誤魔化した。沖田さんからは「下手くそ」という評価を賜った。
*
わずか一時間ほどの間に、せっかく清掃した厠は元に戻っていた。アンモニアが発する特有の臭いは前よりもきつい気さえする。壁にかかったのが固着しているせいだろうか。いや、そもそも。床ならまだしも、壁にかかってるのは解せない。
「銃と同じでさァ。銃口を発射したい方向に向けて、出す。こいつァ完全に見当違いの方向に銃口向けてるな」
「改めて見るとひでーな」
「どうしてこうなるんですか?」
「恐らく連れションによる影響でしょう。複数で厠に入り談笑するうちに、下がおろそかになり、あらぬ方向に小便が飛んでいるのでしょう」
基本的に個室の女子には想像もつかない光景……そういえば、沖田さんの身体で何回もトイレ入ったな。でもあの時は隣の人間の顔が見える環境で用を足すのが嫌で、仕方なく個室でしてたっけ。
……衛生隊長になってからなんか戦線離脱多いなって思ってたけど、なる前も大概な目に遭っていたな。うん。
日頃の行いが悪いせいなのかな、きっと。無理やり納得させて、厠の天井、その向こうにあるはずの青空を仰いだ。
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