私は死んだ筈だった。あの銀髪の歪んだ笑みを浮かべる冥闘士にやられたはずなのに…。いつの間にか漆黒のロングワンピースを着て、シンプルながらも上品で高価そうな装飾が指や耳元、首を飾っていた。……なぜ?ベッドから起き上がり辺りを見回すと双児宮に似たような神殿の中に居ることが分かった。違うのは床に印された火星の紋。

「漸く目が覚めたか」

聞き覚えのある声に嫌な予感がした。振り返ると忘れたくとも忘れられない人、初恋の相手でもあるアスプロスがそこにいた。だが、それはアスプロスとは言えぬ何か違和感があった。髪は黒く目は赤、いつもの双子座の聖衣でなく教皇が着るような法衣に身を包んでいた。でもここで重要なことを思い出した。

「アスプロス…死んだはずじゃ…」
「それは美々も同じだろう?」

それはそうだが…。夢なのだろうか。それなら早く覚めてほしい。だが私の考えを見抜いただろうアスプロスはこれは現実だと豪語した。…じゃあ、これは一体…?

「冥王の力により、俺らは生かされているのだ」

笑いながら近寄るアスプロスに思わず後ずさってしまった。まるで他人のようだった。あの優しくて強くて思いやり溢れた仁、智、徳を兼ね揃えた人がここまで堕ちてしまうものなのか。それほどまで教皇という地位が欲しかったのだろうか…。背中が壁にぶつかった。逃げられ、ない。

「諦めるんだな、美々」
「あ、きらめるって…私に堕ちろとでもいうんですか?」
「そうではない。俺と共に聖域を掌握しようではないか」

なんでそんなことを…カラカラになった口からは言葉が出なかった。あの人が、あのアスプロス様が、そんなこと言うわけ…ない、から。

「貴方は、誰」
「何を分かりきったことを」
「アスプロスじゃあ、っない!」

認めたら何かが壊れそうで、耳を塞ぎ目を閉ざした。それを彼に似たナニカは許さなかった。手首をバン、と壁に押し付けられる。それでも目だけは開けなかった。

「強情だな」
「うるせ…だ、まれ…っ!」
「ほう、そんな汚い俗語…あの火山で拾ってやった頃を思い出すな」
「!!」

思わず目が見開いた。……信じたくなかった。この人は、本物のアスプロスだから。私をあの噴火の絶えない山で拾ったことを知っているのは拾った本人であるアスプロスと教皇、それとシジフォスだけだった。女だからすぐに仮面をしたから特に素性を気にしなくて済んだのはかなり助かったものだった。

「どうして…どうして!?」
「俺は力を、聖域を掌握したいだけよ。お前はそれを傍らで見ていればいい」

それは聖闘士からしたら死刑宣告とも言えるようなものだった。命の恩人と掟。それを天秤に乗せるも美々のそれはどちらかが傾くことはないのだ。両方大切、だからだ。でもその一方だけしか選べず、そしてもう一方は永遠に捨てるのだ。その勇気がないのだ。選びたい、という願望はある、だが少ない理性がそれを、アスプロスを選ぶなと告げる。そんな美々の心など教皇候補であったアスプロスにとってはお見通しだった。――もう少しで彼女は、堕ちる。







受け入れようとするが苦しそうな顔をする美々にアスプロスは複雑な気持ちになった。彼女が手に入ればいいと思っていたのに、何故、満足感が得られないのだ。異次元に感じる似た小宇宙を感じ、それへと意識を移すことでその気持ちをごまかそうとするアスプロスだった。




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