小説 | ナノ



「ただいま戻りました」

 団長室に入ると、奥で書き物をしていたエルヴィン団長が顔をあげてわたしを見た。彼の背後にある窓からは西日が差しこんでいるせいで、こちらから団長の表情を伺い知ることはできない。

「……少し帰りが遅いように思えるが」
「先方との話し合いのあと、先方のご婦人からお茶を御馳走になりましたので……。次回の壁外調査に必要な装備品は週明け早々にでも兵団本部まで届けて頂けるそうです」
「なるほど、そうだったか。ありがとう」

 わたしは軽く礼をしてから自分の席に着いた。
 さっきよりも団長の席との距離が近くなったせいか、少し顔をあげればエルヴィン団長が真剣な表情で書類に目を通している様子が伺える。彼の艶やかな金髪は乱れひとつなく整えられており、その端正な顔立ちと皺一つない制服の着こなしは、まるで彼が貴族であるかのような錯覚を起こさせる。

(スミス団長は特定の女性をお作りにはならないようね)

 ふと商館のご婦人方が話していたことを思い出す。
 いいえそんなことはありません、とすぐにでも否定したい気持ちだったけれど、わたしは拳をぎゅっと握りしめて口を噤んだ。だってその団長と今お付き合いしています、と言ったところでどうなるか分かったもんじゃない。
 しかしご婦人方の話を聞いていると、彼女たちは実際に団長が女性といるところを見たらしい。ある婦人は、装飾品店から団長と髪の長い女性が出てくるのを見たといい、またほかのご婦人は花屋の店先で団長と年配の婦人が楽しそうに話しているのを見かけたという。
 実際に見たと言われてしまうと、さすがに「それは単なる噂ですよ」と言い出すことも出来ず、わたしはそのまま帰ってきてしまった。
 ほんの少し、頭が痛い。



「夕食後、わたしの部屋までおいで」

 また晩酌の相手でもさせられるのだろうかと思いながら団長室の扉を叩くと、扉が開くやいなや体を引き寄せられて、そのまま彼の大きな胸に抱きしめられた。

「っ、エルヴィン団長!?」
「エルヴィンでいい」

 しー、と指を口元にあててエルヴィンが笑った。シャワーを浴びた後なのか、髪はすべて下ろされていて、とても良い香りがした。エルヴィンはわたしを伴ってソファに腰かけると、柔らかな色味のワインをグラスに注いで、わたしに手渡した。

「飲むといい、美味しいよ」

 促されて飲んでみると、本当に口当たりがまろやかでとてもおいしい。思わず笑顔になったわたしを見て、エルヴィンも微笑んだ。肩を引き寄せられて、頭を撫でられて、ちゅっと額に口づけられる。こうしていると同じ仕事場にいるはずなのに、ここがどこか違う空間のように思えてくるから不思議だ。

「ナマエ、ひとつきいてもいいかな」
「どうぞ」
「商館で何か嫌な事をされたりしなかったか?」

 唐突な問いかけに、思わずエルヴィンの方を向く。

「そんな、嫌なことなんて何も……」
「そうかい? どうもあそこから帰ってきてからのナマエは元気が無さそうだったから、何かあったんじゃないかと心配して訊いてみたんだが……」

 気のせいだったか、とエルヴィンがつぶやいた。
 そんなエルヴィンを見て、もうわたしも気になっていることを訊いてしまおうかと考える。わたしのほかにも付き合っている女性がいるのではないですか、と。はっきりさせておきたいと思った。もしかしたらわたしは、わたしだけがエルヴィンから愛情を注いでもらっていると今の今まで勘違いしていたのかもしれない。本当はわたしだって彼の愛人のひとりでしかないのかもしれない。そう考えるだけで思わず涙が零れてしまいそうになるけれど、中途半端に与えられる愛情なら、わたしは欲しくないとも思った。

「わたしからもきいていいでしょうか」
「何かな」
「他に付き合ってる方はいませんか……?」

 それをきいて、エルヴィンはきょとんと目を丸くした。
 訊いた瞬間から顔を見るのが恐いのか、じいっと俯いたままのナマエの肩をしっかりと抱き寄せてこう言った。

「居ないよ」
「でも、商館のご婦人方はあなたが外を女性と歩いているのを何度か見たそうです」
「ああ……なるほど。ナマエ、それは誤解だ」

 ちょっと待っていてくれ、と彼はソファから立ち上がると机の中を探った。引出しの木の擦れる音をさせ、やがて彼は小さな箱を手に戻ってきた。

「開けてごらん」

 手渡された箱をあけると、小ぶりのネックレスが中に入っていた。

「わぁ……すごくきれい」 
「これを買うために姉を連れて行ったときのことだろうな。どうもああいう店には男ひとりでは入りづらくてね」

 そう言って照れくさそうに笑ったあと、エルヴィンはネックレスを手に取り、ナマエの首元に付けると、「よく似合っているよ」と言って頭を撫でた。ナマエは首元のネックレスに触れて、その感触を確かめながら訊ねる。

「あ、あのっ、それでは花屋で年配の婦人と話していたというのは?」
「ははは、それはわたしの母だよ。たまには顔を見せろ、親孝行をしろとうるさくてね。ああそれにしても、商館のご婦人方の邪推には本当に恐れ入るな」

 髪をかきあげ、やれやれとエルヴィンは苦笑した。

「どんな女性がいようとわたしにはナマエ以外見えないというのにね」

 根も葉もないことを。ナマエは名前を呼ばれ、そのままソファに寝かされた。自分に覆いかぶさる彼がいつもよりも男らしく見えてどきりと胸が鳴る。二人分の体重を受けとめて沈みこむソファの中で、わたしはようやく安堵を覚えた。






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