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遠駆けに出かけよう。
そう言い出したのはエルヴィンだった。
彼にしては珍しく連休が取れ、その間にわたしの休みも運良く重なり、その貴重な数日間を二人で充実したものにするためには、どうすべきか。
深夜の私室で狭いテーブルの上に額を突き合わせ、その相談をしていた際の提案。

「もちろん、いいけど」
それこそ、まとまった休みが取れた日にしかできないことだ。
わたしは睨んでいた勤務予定表から目を上げる。

エルヴィンは青い瞳を細めて、穏やかに満たされたような表情を浮かべていた。一日の仕事も終え私服姿でいるせいか、普段よりリラックスして見える。
わたしは彼を、とても品の良い、落ち着いた魅力にあふれた人だと思う。目尻の笑い皺が少し気になるけれど。

「ぼやっとして、どうしたんだい」
エルヴィンは空いた手を伸ばした。かさついた親指が、わたしのまなじりを撫でて離れてゆく。
「ナマエは如何したい?」
「わたし、は……エルヴィンと過ごすことができればいいかなあ」
「具体的に」
「あっ、湯治でもどうかなと。でも移動の時間も含めるとそれだけでお休みも終わっちゃうから……」
「確かにそうだね。ふむ」

二人の休みが重なるのは、四日間。
普段の激務からは想像もつかないほどの、非現実的な日数だ。そしてその日数の多さが災いして、どう過ごすか決めかねているのが現状である。

「いつもいつも、仕事の合間を縫って会う時間は短く限られている。そしてそれもナマエにさみしさと不安を与えていると思うんだ。だから、わたしは一日も無駄にせずに君と過ごしたい」
エルヴィンは話し合いの最初にそう言った。

「だけど一日や二日くらい、部屋でのんびり過ごすのもいいかもしれないね」
「だったら、遠駆けの方にしましょう。日帰りでもできますし、残りの三日間はそうしてゆっくり過ごせますから」
「そうだね。そうしよう」
うれしそうに微笑むエルヴィンを一目すれば、心の奥がじんわりとほぐれていくように感じた。



雲一つない、からりと晴れた青い空がどこまでも続いている。頬をつたう汗を乾いた風が拭って、とても気持ちいい。
豊かな緑が続く丘陵地を二人は馬で駆けていた。

丘陵地を馬で駆けるだけなら何度も経験している。ただそれは壁外調査でのこと。もちろん風景を楽しむことや風の心地よさ、開放感を味わうことはできない。
今日は二人とも、立体機動装置も固定ベルトも軍靴も、戦いにまつわるものは何も手にしていなかった。身につけているのはハットに拍車付きのジョッキーブーツ、そうして少しの食料。

馬の蹄が地面を蹴って風を切って行く。
少し前を奔るエルヴィンの逞しく美しい馬の毛並みが、太陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。その上で彼は大きな背筋を正し、正面から受けている風圧にもまったく動じない。
その後ろ姿は、壁外調査でずっと見つめるものとよく似ていた。

__そうだ。エルヴィンはいつもああやって大きな背中をしゃんと伸ばして、迫り来る恐怖や絶望を受け流している。いやたぶん、受け入れてはいるのだ。
でも彼は、決してそれに足を取られる事はない。エルヴィンは沸き上がる自分自身の感情をさえ、ただ一つの事実として、冷静に受け止め、観察することができる。
長年の経験でできることではない。それは多大な犠牲を厭わない覚悟の地盤を固める、彼の基本的な精神構造と言えるだろう。

ただ時折__そう、今のようにエルヴィンは、真後ろを奔るわたしを振り向く。無表情の時もあるし、安心させるような微笑みを口元に滲ませている時もある。今はとても柔らかに、眼を眇めているけれど。
後方の状況を確認しているのか、それともわたしの生存を確認しているのか。前者の場合が圧倒的に多いけれど、それでも振り向く度に、彼はわたしの姿を一度は捉えた。



馬たちを水飲み場まで誘い、わたしはジョッキーブーツを脱いで清流に足をひたした。
きん、と冷えた水が足から全身の神経を研ぎ澄ますように駆け巡る。しかしそれは徐々に緩んでいって、今度は水音と木々の梢がざわめく音、鳥たちの鳴き声に気づかされる。
こんなものに今更聞きいるなんて。ここにきてようやく、どこか張り詰めていたものが解きほぐされたのだ。

「エルヴィン」
「どうした、裸足で」
エルヴィンは木陰で寝転がり、読んでいた本から顔を上げる。書類以外のものを昼間に読む姿はこの時間がいかに貴重であるかを物語っているようだ。
わたしたちは、エルヴィンが見つけた小高い丘の上で休憩を採っていた。

「馬に水を飲ませるついでに足を冷やしてきたのですけど、とっても気持ちよかったですよ」
「そうか。あとでわたしも行ってくるよ」
エルヴィンはゆっくりと身体を起こした。彼の背中にくっついていた葉っぱや芝生がぱらぱらと落ちる。ブーツを片方ずつ手にして佇むわたしを見てくすりと笑みを零すと、木の幹のあたりを指差して言った。
「此方においで」
「はい!」
エルヴィンのとなり、芝生の上に腰掛ける。
本を置いて頬に触れてくる彼の指の感触が心地よい。

それでも、まだこの、ごくごく自然に触れ合うことに慣れない。恋人同士だと当然のことなのかもしれないが、どうもくすぐったくてダメだ。
だから今日もまたわたしは、思わず目を伏せて他へと意識を逸らしてしまう。
「風が涼しくっていいですね」
「……そうだね」

ふと視線をずらしてエルヴィンの方を見る。
彼もまた丘陵の景色と風の心地よさを感じているようだった。
「とてもいい天気でよかった」
「はい、ほんとうにそうですね。来てよかったです」
そう言って、ふいに彼を仰ぎ見る。
思いのほかずっと近くに迫った整った顔に、わたしの頬がかあっと熱くなったような。

「今日は有難う」
まなじりに浮かぶ微笑は、ひどく優しい。
そしてそれは、残酷な日々に疲れ果てたわたしの心にも染み渡る。深く深く、怖いほどに。

「___心も体も、しっかり休めてくださいね。そのためならわたし、何でもします」
「そういうことを言ってはいけないよ」
エルヴィンは困ったように笑う。そっと肩を引き寄せられ、頬に柔らかいものが濡れた音をたてて触れる。
「ほんとうに有難う。ナマエの気持ちが、わたしはとてもうれしいよ」
耳もとでささやかれる言葉は、本心だと思いたい。だってこれほどに優しく、あたたかいのだから。
本当は、わたしがエルヴィンの為にできることなど、ただこうして一緒にいること以外に何も無い。それだけでいいと彼は言う。他には何も望まないのだと。ねえエルヴィン、もう少し欲張りになれないの。

くちびるが首筋を滑る。わたしはその感触にぞくぞくと肩を震わせた。エルヴィンはわたしをゆっくりと草むらに横たえ、青葉のみずみずしい匂いが鼻腔をくすぐる。
「エルヴィン……?」
呼びかけても答えはない。代わりに、喉元を熱い舌と吐息が這った。
「やっ……」
「ナマエが優しくてかわいいからだよ」
反射的に胸板を叩いて顔を背けてしまう。
いつの間にか両脚の間にはエルヴィンの片脚が割り込んでいて、肩は抑えこまれていてまったく身動きが取れない。油断した。
上体を少しだけ起こした恋人の笑みは今度はとても意地悪だ。

エルヴィンの背後に広がる空は果てしなく青い。そしてそれよりも濃くて深い青の瞳に、吸い込まれそうになる。
「今度は、もっと遠い場所に行こう。ナマエ、君と二人で」
それはエルヴィンが滅多に口にする事のない、理想論だった。ただ彼の言葉は淀みない。それだけでなく、強い確信に満ちていた。

そして、彼がそんな事を言う理由も、わたしにはわかる気がする。
今、この世界にいるのはわたしたち二人きりだった。ほんの一瞬であることはわかっている。でもまやかしではないし、ここにいつまでも留まることが許された二人でもなかった。
ただわたしたちはそのとき、風と水とが奏でる音と互いの息遣いだけを頼りに、世の中というものを味わっていたのだ。

__今はただ、お互いの優しさに浸っていよう。わたしは瞳を閉じる。エルヴィンの青い瞳が視界から消え、目蓋の裏に穏やかな陽光を感じる。
そうして降りてくる、柔らかな唇を受け入れた。




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