「先生、わたし先生のことが好きです」
放課後の資料室にはわたしと先生のふたりしかいない。エルヴィン先生は授業で使う資材をごそごそと探していたけれど、手を止めて、わたしの方を振り返った。わたしを見る目ではっきりとわかる。彼はわたしの言ったことを信じてくれていないのだということが。
「――ミョウジ君? どうしたんだ急に、そんな……」
「はじめてあった日から」
先生の声を遮るように口から声が滑りだす。
「……わたし、先生のことが好きなんです」
それは高校生になってはじめての授業で。
教室にはいってきた長身の男性にわたしは一瞬で目と心を奪われた。彼はうしろを刈り上げた綺麗な金色の髪をなでつけて、何の驕りも無く、自然な笑顔でわたしたち生徒を眺め見た。教卓の前に立つスミス先生は、どこか不思議な空気を纏っていて、それはわたしがこれまでに接してきた異性のどれとも違っていた。
彼が動けば目で追ってしまうし、彼が喋ればその声音はわたしの鼓膜を丁寧に擽った。わたしは少しでも先生といられる時間を増やしたくて、スミス先生の担当科目の補助係を三年間、引きうけ続けた。彼がわたしを「生徒のひとり」から「ミョウジナマエ」と認識してくれるよう、わたしは精一杯先生の背中を追いかけた。
歳月はまたたくまに過ぎ、自身の卒業を間近に控えた今でさえ、わたしは先生と一緒に資料室にいた。先生に呼ばれたらきっとどこへだって駆けつけるのだろう。作業する彼の背中をぼうっと見ていたら、唐突に寂しさがこみ上げてきた。
もうきっと、こんな愛しい時間は二度と来ない。
こんな状況で、こんな風に彼と同じ空間にいることは二度とない。
そう思ったら、もう止まらなかった。
「……三年間、あなただけを見てきたんです」
わたしの声をきいて、彼は少しためらいの表情を見せた。
夕日に照らされた髪が、オレンジ色に輝いている。
「ミョウジ君」
「はい」
「君がわたしを慕ってくれているのは嬉しいよ。だけど君はまだ若くて、綺麗だから、……こんなしがない教師には勿体無いとわたしは思う」
彼が、言葉を選んでいた。ゆっくりと言葉を紡ぐ。
けれど「勿体無い」と言ったときの苦しげな表情がなによりもわたしの心を打ちのめした。わたしを傷つけないよう、傷つけないように、精一杯気を使ってくれているのだとわかった。
心にじんわりと水がにじんでいく。
ああ、こんな優しさなら要らない。
わたしも好きと言わなければよかった。
よくよく考えてみれば、見切り発車で三年間の思いを伝えたところで何になるわけでもなかったのだ。先生は「先生だから」わたしに優しくて。だから「生徒」が「先生」にハッピーエンドを期待すること自体、間違っていたのだ。そうだ……――きっと。
「あ、あは……。わたし、ふられちゃったんですね」
くしゃっと無理に笑おうとすると、細めた目元から涙があふれた。頬を流れていく涙がどうにも止まらない。こんなときでもそっとハンカチを差し出してくれるスミス先生はやっぱり優しくて。その変わらない優しさがわたしにはどうしようもなく辛くて、苦しくて、本当に残酷で、顔を見られまいと下を向いてわたしは咽び泣いた。
「ミョウジ君」
ふわ、とあの不思議な空気がわたしを包んだ。
「君、卒業したら、もっといろんなことを経験しておいで」
彼の声が頭から降ってくる。
「君に相応しい男性も、きっと現れてくるだろう。だが、もし、それでもなお君がわたしを選ぶというのなら――わたしは、ちゃんと待っているから」
頭を優しく撫でられて、わたしはまた涙がこぼれた。胸がじんじんあつくてたまらなくて、目から溢れる涙の色もわからなくなりそうだった。
嗚咽まじりに呟いた、愛しい先生を呼ぼうとする声。
涙で濡れたぐしゃぐしゃの顔を上向かせると、すぐそこに彼の優しげな顔があった。
「先生? わたし、止まりませんから。スミス先生が驚くくらい、もっともっと素敵な女性になって、必ず先生を迎えにいきますから」
わたしが好きなのは、今も未来も先生だけです。いやとは言わせませんから、覚悟しておいてくださいね。口の端を吊りあげて、わたしがにっこり笑うと、エルヴィンさんは苦笑しながら、しっかりと頷いた。
そっと彼の体から離れると、視界に夕日の色が飛び込んできた。
眩しい。けれど、この光景はきっとずっと忘れない。