小説 | ナノ



※現代パロ

 付き合って五年。同棲を始めて二年。
 出会ったのは大学。付き合い出したのは社会人になってから。一緒に暮らそうと言ったのは自分からだった。
 就業時間から一時間が過ぎたオフィスには、残業を片付けている複数の社員がいる。エルヴィン・スミスもそのひとりだ。
 デスクの上には乱雑に重ねられた書類やファイルがあり、正面にはパソコンがある。そのパソコンの画面を見つめながらカタカタとキーボードのキーを打っていく。流れるように表示される文字を目で追いつつ、明日の合同会議で使用する書類を作成した。
 大学を卒業し、この企業に勤めてからいくつもの季節が巡った。
 あの頃が懐かしいと思うようになったのは、年のせいだろうか。そんなことを思考しながら思い出となった記憶を思い浮かべると、瞼の裏にぼやけた思い出の残滓が通り過ぎる。
 新人の頃は仕事を早く覚えなければと意気込んでいた。とにかく必死で、とにかくがむしゃらだったなと思いつつ、けれども時間が流れるのは早い。気が付けば、この年齢には不相応とさえ感じる役職を任されるまでになっていた。
 嬉しさはあったが、期待されていることに重圧を覚えた。同時に妬みや僻みが多く、真っ向から受ける視線やその中に含まれている負の感情には辟易としていた。寄せられるすべてのものが煩わしくて仕方なかった。
 だが、それを振り切れたのは信頼できる部下の支えがあったからだろう。自分は非常に優秀な部下に恵まれていた。それに感謝しなくてはなと懸命に仕事に勤しんだ。
 仕事は嫌いではない。楽しいと思えるし、遣り甲斐を感じている。この仕事につけて良かったと思うほどに充実していた。
 だが、やはり疲労は溜まる。何分、上と下に挟まれている状態なのだから。身心ともに疲弊していくのは免れなかった。
 けれども、自分には癒しがあった。
 家に帰れば、愛してやまない彼女がいて、「おかえりなさい」と迎えてくれる。何より、家事の一切をしてくれる彼女がいるからこそ、こうして残業をすることも、上司や取引先の接待をすることができるのであって、彼女がいなければ今頃は潰れていたかもしれない。それほどに彼女という存在は大切だった。
 ひとりで暮らしているときは何かと大変だった。さすがに洗濯はしたが、他の家事はほとんど放棄しており、家には寝に帰っているだけのようなもので。掃除は苦手だったこともあり、ハウスキーパーを月に二回頼んでいたほどだ。
 しかし、彼女と一緒に暮らし始めてからは全てが変わった。家事をせずとも全てが綺麗になっているし、彼女が作ったごはんが出てくるし、毎日彼女の笑顔が見れて、彼女と同じ時間を過ごせる。こんなに幸せなことはないと、ただ幸せだけを噛み締めていた。
 それを壊したのは自分だ。
 あの日。部下の失敗を尻拭いするために残業していたあの日。同じオフィスの、他部署の女性が自分と同じく残業をしていた。話す機会はあまりなく、名前を知っている程度の間柄だったが、残業や諸々のことを気遣ってかコーヒーを淹れてくれた。そのとき初めて言葉を交わし、そして、ふたりしかいないオフィスで誘いを掛けてきた。「今夜、どうですか」と。「たまには違う女もいいですよ」と。
 馬鹿馬鹿しいと思った。なんて恥知らずな女なのだろうと嘲笑が滲んだ。
 けれども、その誘いを受けた。馬鹿馬鹿しいと思いながらもその誘いに乗ったのだ。
 理由は簡単だ。彼女の嫉妬。自分の帰りを待つ彼女に、女の香りを纏って帰ったら彼女はどんな反応を見せるのか。それが知りたかった。
 叶うなら彼女に嫉妬してほしかった。彼女が取り乱す様を見てみたいと思った。
 自分と彼女には確かな信頼関係と確固たる愛情があった。だが、付き合って五年の間、喧嘩というものをしたことがなかった。意見の食い違いはあったが、争うほどのものではなく、喧嘩になる前に全てが収まってしまうのだ。
 だから喧嘩になったことがなかった。とは言っても、進んで喧嘩をしたいというわけではない。
 喧嘩をすると必要以上に体力を使うし、気まずくなる。楽しいとも思えないだろうし、居心地だけが悪くなる。だから決して喧嘩はいいものではない。
 喧嘩がないことは良いことだ。仲が良いという証明になる。しかし、五年も一緒にいて喧嘩がないというのは少し淋しかった。喧嘩するほど仲が良いという諺があるように、五年の中にひとつやふたつの喧嘩があっても可笑しくはないのだ。
 だが、そうは望んでいても喧嘩をするきっかけがない。あったとしても、直ぐに鎮火してしまうためはっきり言って徒労でしかなかった。
 だから火種となる自分を誘ってきた女性。これしかないだろうと思った。
 だが、彼女ではない女性と関係をもつということは裏切りとしか言えない行為だ。
 何があろうとも裏切らない。悲しませない。幸せにする。それを心に刻み込み、彼女に告白し、彼女に交際を申し込み、同棲への承諾を得たのだ。きっと彼女も信じていてくれる。決して裏切らないということを。
 それは理解している。けれども、彼女の嫉妬に歪んだ顔を見たかった。彼女が本気で怒って、自分に怒りをぶつけてくる姿を見たかった。どうしても見たかった。
 その好奇心とも言えるそれに負けたのだ。
 自分は女とホテルに行き、やることをやるだけやって、直ぐに終わらせた。虚しいだけの行為ではあったが、彼女が嫉妬してくれるだろうと思えば、その虚しさも愉悦に変わった。
 シャワーは浴びなかった。身支度を整え、「これきりだ」と、ベッドに沈んでいる女に告げた。女は不快な顔をした。「わたしの香りをつけたまま帰るんですか」と訊いてきた。無言で返すと女は可笑しそうに笑った。「彼女さんによろしく伝えてください」そう言ってシーツにくるまった。それを横目に部屋を後にした。
 帰宅したのは日付が変わった頃だった。彼女は待っていてくれた。「ただいま」と言うと、「おかえりなさい」と返してくれた。嬉しかった。
 彼女は「お疲れ様」と言って、書類の入った鞄と背広を手に取った。そのときにふわりと自分のコロンと女のつけていた香水が混じった香りが鼻腔を擽った。
 気づかないふりをして横目で彼女を盗み見る。一瞬だけ目を見張るそれが見えたが、彼女はそれ以上の反応は見せなかった。何もなかったように「お風呂とごはんどっちにする?」と訊かれ、「今日は疲れたからお風呂だけでいいよ」と答えた。彼女は笑っていた。なんでもないように、あれは気のせいだとでも言いたげに。それが無償に腹立たしかった。
 それから一年。あの日から一年。自分たちは気まずい雰囲気の中を過ごしていた。
 あの日の夜。シャワーを浴びながら後悔に後悔を重ねていた。馬鹿なことをしたと思った。己を罵った。しかし、後悔したところで過去が消えるわけでも、時間が戻るわけでもない。この後悔はこの先もずっと付いて回るだろう。未来にもずっと付いて回るだろう。
 自分には後悔することしか残っていないのだ。そのことに酷く打ちのめされ、思い知らされた。彼女との関係は歪なものになったのだと深く刻み込まれた。この亀裂は修復不可能だと確信した。
 だが、彼女は何も言わなかった。あの日からずっと何も言わないし、何も訊いてこない。それが酷く悲しかった。
 この日は残業だった。ひとつのミスが芋づる式に重なり合い、そのミスを回収するために今週は残業が続く毎日で、ミスが発覚した初日は会社に泊まり込みで勤しんだほどだ。しかし、家に帰らなくていい理由ができたことにホッとしていた。
 あの気まずい空気の中にいることが耐えられなかった。その空気を作り出した張本人が何を言っているのだと嘲笑し、憐れな自分を罵ったが、後悔しかできない自分の弱さを彼女の前で露わにしたくなかった。それを突き付けられ、植え付けられるのが酷く億劫で、とても怖かった。彼女に否定されるのが、いつか別れを告げられるのではないかという恐怖に怯えるのが、怖くて、惨めで、そんな自分が嫌だった。嫌で嫌で仕方なかった。
 会社から帰路につく間の通り道を歩きながらふと考える。
 いつの頃からか残業や会社に泊まるといったことを連絡しなくなった。一緒に暮らし始めた頃はたった十分の残業や一時間以上の残業、上司や取引先の接待で帰りが遅くなるときは必ずと言っていいほど連絡をしていた。
 だが、あの日を境に変わってしまった。連絡をとれなくなったのだ。いや、連絡をしようと思えばできた。平静を装って今まで通りに接しようと思えばできないことはなかっただろう。しかし、どんな理由があるにしろ裏切ってしまったことは変わらないし、変えようのない事実。それを受け入れているからこそ、連絡をとることに対して後ろめたさが拭えなかった。
 あれから一年。一年だ。
 あの日、自分を誘ってきた女は、今も変わらずに同じオフィスの他部署にいる。何度か残業が一緒になり、それが重なればふたりきりの空間を過ごすことも自然と増え、そのときになるとその女は欲情の色気を纏わせて誘ってきたが、そんなものになんの魅力も感じなかった。自分はこんな恥知らずな女と関係をもってしまったのかと思うと、叶うならばあのときの自分をどうにかしてしまいたいとさえ思った。
 家は会社から二十分程度で着く距離にある。終電に間に合ったため、今は最寄り駅から自宅まで歩いているところだ。
 歩き慣れた道はおそらく目を閉じていても歩けるだろう。朝と晩とでは違う景色も見慣れたものになってしまった。
 夜の帳が降りた住宅街はしんと静まり返り、外灯と月明かりだけが頼りの夜道に、地面と靴底が擦れ合って響く音が耳を突く。目を眇めながらふと空を見上げると、細く欠けた月と夜空を照らそうと瞬く星が視界を覆った。
 生暖かい風がふわりと舞う。髪が揺れ、頬を撫でながら通り過ぎていく。この風はどこに向かうのだろうかと詩的なことを思考する自分を可笑しいと思った。小さく笑いながら胸の内に燻るもやもやしたものを吐き出すように息をついた。
 こうしていると後悔が刻み込まれた記憶が脳裏を巡り、嫌なことばかり考えてしまうなと自嘲する。
 そうこうしている間に、家に着いた。
 ノブに手を掛けようと手を伸ばす。けれど、伸ばしかけた手は宙に留まったままだ。
 彼女の姿が過り、玄関の前で石のように固まってしまう。そんな気弱な自分が情けなくて、罵りたくなった。
 家に帰り着くと、いつも考えてしまうのだ。いつか愛想をつかされてしまうのではないか。顔を合わせる度に別れを告げられるのではないかと、小動物のようにびくびくしてしまう。そればかりを考えてしまうのだ。
 どうすれば彼女を繋ぎ止めておけるのか。どうすれば以前のような関係に戻るのか。そればかりだ。
 いつからこんなにも弱くなってしまったのか。彼女のことになると本当に駄目になってしまう。

「……情けないな……」

 呟きながらノブに手を掛ける。カチャリと音が鳴ると同時に扉を引いた。
 中はしんとしていた。けれども、微かに響くテレビの音声が流れてくる。彼女はまだ家にいて、自分の帰りを待ってくれていた。そのことに酷く安堵した。まだ手の届く場所にいてくれたことにホッとした。
 息が詰まるような感覚は毎回辟易とする。緊張と不安がいっしょくたに襲いかかってくる。だが、安堵も同じだけ感じている。
 本当に可笑しなものだ。どうしてそんなにも彼女に執着するのか不思議でならない。けれども、疑問に思ったところで自分の中にある恋心は消えそうにもない。未だに強く激しい炎が燃え盛っている。この炎はそう簡単に消えはしないだろう。いや、一生かかっても消えないかもしれない。自分はそれほどまでに彼女を強く思っているのだ。
 重い足を引き摺りながらリビングへと向かう。テレビの音声が次第に大きくなっていく。しかし、リビングには彼女の姿はなく、テレビの画面に映る映像だけが視界に入った。ふと、横目でリビングとバスルームを遮っているドアを見つめた。その先に目をやると、ドアは全開で、バスルームから明かりが洩れているのが目に入る。
 風呂に入っているのだと分かり、本日何度目かになる安堵を覚え、苦笑する。本当に自分は臆病だ。苦笑を深くしながら、背広を脱ぎ、ネクタイを緩めた。
 彼女が上がってくるまでソファに座って待とうかと考えていると、後方でバスルームのドアが開く音が聞こえてきた。上がったのかと思い、そちらに視線を送る。しかし、それは違ったようだ。
 彼女は全裸だった。ぽたぽたと水滴を落とし、煽情的な肢体を露わにしている。火照った頬も、桜色に色づいている体も、すべてが情欲をそそるもので、それだけで脳髄が痺れた。彼女に対して言いようのない欲を抱いた。
 何故、彼女がそんな格好でいるのかは皆目見当もつかなかったが、そんなことはどうでもいいと思いつつ、余計なものは奥底へと追いやる。そして、コクリと喉を鳴らし、彼女から視線を外さないままでいると、彼女がそっと口を開いた。

「おかえりなさい」

 戸惑いの含んだ声音だった。しかし、迎えられたことに嬉しく思った。

「ただいま」

 にっこり笑いながら告げる。そうして、緩めたネクタイを取り去って、床にぽとりと落とした。だが、それを気に留めないまま、彼女の下へと歩み寄る。

「エルヴィン?」
「一緒に入っても構わないかな?」
「ぇ、」

 突然の言葉に彼女は驚きや戸惑いといったものを滲ませる。どう答えればいいのか分からないようだ。そんな彼女を可愛く思いつつ、彼女の手を取り、カッターシャツのボタンまで誘導する。

「外してくれるかい?」

 そう言うと、その言葉の中に含んだ意図を理解したのか、一瞬動きが止まった。けれど、何も言わずにひとつひとつボタンに手を掛け、丁寧に外していく。そうして、すべて外し終えると、カッターシャツと薄手のアンダーシャツを脱がせてくれた。最後に、スラックスのベルトに手が伸びる。バックルをカチャカチャと外され、フックが外される。けれども、外して直ぐに彼女の動きが止まった。何か考え事をしているのか、下肢に彼女の視線を感じ、気まずい状態に陥る。

「ナマエ?」

 彼女の名前を呼び、彼女の思考に割り込むと、彼女は「……ぁ、…ええっと……ちょっとぼーっとしてたみたい…」頬を染めながら苦笑を口元に滲ませると、止めていた手を再び動かした。ジッパーに手を掛けてそれを下ろそうとするけれど、その前に彼女を抱き寄せた。
 彼女は「濡れるよ」と言ってきたが、「大丈夫だ」と返して、所謂お姫様だっこというものをした。

「エルヴィン? あの、お風呂は…?」

 向かう先はバスルームとは反対方向にあるベッドルームだ。

「抱かれるのはバスルームのほうが好きなのかな、ナマエは」
「っ、」
「私はどちらでもいいが…」
「…………」
「バスルームに戻るかい?」
「こっちでいい…」

 そうしているうちにベッドルームに着いた。ドアを開けて、ふたりでも充分に広いと言えるベッドに彼女を下ろす。ベッドがきしりとしなった。

「……寒い……」

 彼女が文句とも取れる言葉を発する。それを苦笑で応えながら、水滴が伝う彼女の冷たい肌に手を這わせる。「大丈夫。今からあたたかくなる」そう言って、彼女に覆い被さった。
 首筋に顔を埋めて、彼女のにおいを嗅ぐようにくんと鼻を鳴らし、吐息を吹きかける。武骨な手で繊細な肢体を弄りながら隅々まで蹂躙し、何度も名前を呼び、何度もキスをして、自分の下に縫い止めるようにきつく抱き締めた。
 次第に冷たかった彼女の体は火が点いたように熱くなっていく。
 思考までもが溶けていくような、すべてを喰い尽していくような、曖昧でいて、幸福とも言える快楽に身を委ねた。
 逃げることと変わらない行為だが、今はそれ以外のことは考えられそうにもなかった。体だけでも彼女を感じていたかったのだ。

「ナマエ、っ…」

 快楽という鎖で彼女を繋ぎ止めておきたい。そう強く思いながら、蕩けるような悦楽に目を眇め、欲望の塊を彼女の中に吐き出した。




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