▼ 「あのころ」
やっぱりあの頃は良かった、と彼は懐かしげに呟いた。
「そっか」
「ん?どうした?」
「ううん。ただ、楽しかったんだな、って思って」
「そうだなあ」
昨夜、彼は久しぶりに大学時代の友人と飲み明かしたらしい。
サービス残業続きの毎日、働いても働いても上がらない給料、仕事でどんどん削られていく休日――このご時世、どこに勤めていても悩みは同じようなものだ。
未来に希望が持てない、というところから、輝いていた過去に思いを馳せ、彼らは語り合っていたようだ。
「今のこととかこれからのこととか考えたら暗くなってきてなー、大学時代に戻りたいって二人ともそればっかり」
「そっか……」
私にはめったに愚痴を言わない彼だけれど、毎日の仕事で相当ストレスが溜まっているはずだから、気の置けない友人とそんな会話になるのは当たり前だ。
だから、別にどうというわけではないけれど。
ただ、少しだけ――
「そういえば私も今度、大学の友達と会う約束してるんだ」
「そっか、楽しんできなよ。絶対昨日の俺達みたいな話になるから」
「そうかもね」
冗談めかして笑う、彼と私。
私は、大学時代の彼を知らない。
彼も、大学時代の私を知らない。
出会って数年。
『あの頃』に、私は居ない。
忙しくてめったに会えないし、まとまった休みも取れないから旅行にも行けないし、お金がないから将来の話もなかなかできない――確かに、今や未来は、明るくはない。
だけど。
『私がいるじゃない』
言おうか迷って、飲み込んだ言葉。
あなたが戻りたい場所には、私はいない。
あなたが捨ててしまいたい今この場所には、私がいる。
きっと彼はそんな話をしているのではないけれど。
『あのころ』を欲しがる彼に、『あのころ』に勝てない自分に、少し寂しくなる。
「……どうした?めずらしいね」
「うん……」
どこにも行かないでね、と呟きながら彼の胸に顔を埋めると、彼は不思議そうに、それでも優しく私の頭を撫でた。
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