▼ 記憶の記述
死の床にある人が、息を引き取るまでを見守る数時間というのは、本当に、耐え難い数時間だ。
一秒でも長くこちらにいてほしいと強く強く思い、それが、その人の苦しみを長引かせているようにも思えてしまう。
だけど、一秒でも長く、という思いに一欠けらも嘘は混じっていない。
それなのに、その場には、「その瞬間」を今か今かと待ちわびているような、そんな空気が停滞している。
早く、と懇願するような。
「その瞬間」に立ち会うために皆そこにいるのだから、確かに待ちわびてはいるのだろう。
この、相入れないふたつが、大鍋でかきまぜられているような、そして自分もその中に溶けていくような、そんな感覚が頭を支配する。
しかし、「その瞬間」は、唐突に始まり、次に我に返った時には既に、終わっている。
見守っていたその人は、もうこの世にいない。
身体は確かにあるのに、どうして「いない」と言えるのか――認めたくない脳が、そんな反論を試みる。
だからか、もう「いない」はずの身体に、ひたすらすがって声をかける。
精一杯、できるかぎりのことは尽くして見送った、そう思っていたはずなのに、出てくる言葉はなぜか「ごめん」、そればかり。
自分がその人なら、「ありがとう」と言われたかっただろう、と気付くのは、きっと何年も経ってからだ。
ごめん、嫌だ、いかないでほしい、ごめん、もう苦しくないから、ごめん、その繰り返しで、時間が過ぎる。
もう、身体は冷たい。
思わず時計を見ると、その人がいなくなってから既に数時間が経っていたことがわかる。
「その瞬間」の前と後で、時間の速さが全く違うから、時間の不平等さを疑ってみたくもなる。
後で思い出しても、あからさまなほどに、時間の流れ方が違っていたと思える。
一秒でも長く、と思っていたはずなのに、「長すぎる時間だった」と回想する。
あの時間は何だったのだろう。
何か、重たいものが沈んでいるようで、それでいて無性に愛おしくてたまらない、そんな記憶に変化した、数時間。
時間が「与えられた」ものだと、私は記憶をのぞきこむたびに実感するのだ。
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