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香奈さんが、ため息をつく。
呆れたように、
面倒臭そうに、
困ったように。
「私は静かに暮らしたかったのよ」
事あるごとに香奈さんは、そんなことを言う。
「ジローのせいで台なしだわ」
その言葉に、嬉しくなってしまう俺は、どうかしているのかもしれない。
「何ニヤニヤしてんのよ、気持ち悪い」
だって香奈さん、
俺が香奈さんの素晴らしい人生設計をぶち壊しにしてしまったんだとしたら。
俺が香奈さんの毎日をすっかり変えてしまったんだとしたら。
それって、とんでもなく――
「幸せだなあって」
「……マゾなの?」
眉を潜めて俺から距離を取る香奈さん。
ごめんなさい。たぶん、今俺が考えていたことは、その真逆です。
なんて言ったらきっと香奈さんはますます変な顔をするんだろう。
「でもほら香奈さん、俺と出会わなかったら今日ここに来ることもなかったかもしれないですよ?」
目の前の子犬たちを指差す。
ペットショップは香奈さんの大好きな場所のひとつ。
「……別に、一人で行けるし」
素直じゃない香奈さんが、可愛い。
香奈さんの視界の中に俺がいて、そのことが香奈さんの心を動かしている――例えそれがマイナスの感情だとしても、香奈さんにとっては厄介でしかなくても――俺には幸せで幸せで、仕方がないんです。
「……やっぱりマゾなのかなあ」
そう呟くと、香奈さんはさらに一歩、俺から離れた。
「変態もストーカーもお断りよ」
拒絶の言葉でさえも、こんな状況では俺の頬を緩めてしまうだけだ。
「そんな変態のストーカーとデートしてる香奈さんは一体何なんですか」
「……犬が見たかったからよ」
「さっき一人でも来れるって、」
「帰る」
「ああっ!ごめんなさい!待って!ごはん、ごはん行く約束じゃないですか!」
「そこでドッグフード買って来てあげるから一人で食べてなさいよ」
「ひど……あああっ!香奈さん、待ってー!」
背中を追い掛けながら、願う。
『好き』だなんて言ってくれなくていいから。
会うたびため息をつかれたって構わないから。
俺以外の誰かに、『あんたのせいで』なんて、言わないでくださいね。
「ジローのせいで犬がゆっくり見れなかったじゃない!」
「……ふふっ」
「何笑ってんのよ!寄らないで!気持ち悪い!」
「あっ!待ってくださいってばー!香奈さーん!」
乱されるきみに、満たされる。
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