▼ マイリトルガール
【7年前 雨の真夜中】
あの日、もしも傘をふたつ持っていなかったら、こんなことにはなっていなかった。
第一、傘を同時にふたつ持っていることなど、普通はないと思う。
だから、こんなことになったのは本当に、おそろしい偶然だとしか言いようがない。
自分の傘しか持っていなかったなら、考えもしないことだった。
子供を拾うなんて。
雨の中、恋人とひとつの傘に入って歩いていた。広げた自分の傘を右手に、畳まれた恋人の傘を左手に持っていた。
左半身がじわりと濡れていくことが不快だったが、恋人がそうしたいと言うからそうしていた。
やがて、何がきっかけだったか恋人が激怒して俺に罵声を浴びせ、『二度と会わない』と叫んで雨の中を駆け出していった。
恋人――だった女は、傘を忘れて行ってしまった。
よくあることだから気にしなかった。彼女にはじゅうぶん楽しませてもらったから特に損をした気分にもならなかった。
飲み屋街から少し離れた、何もない真っ暗な路地でのことだったから、衆目に晒されていたたまれない思いをすることもなかった。別れ方としてはいい方だ。
ただ、今夜の予定がなくなってしまったから、飲み屋街に引き返して飲み直すか、この先にある花街にでも行くか――その場に立ち止まってしばらく思案した。
と、視線の端で、何かがゴソリと動いた。
野良猫か、野良犬か、あるいはカラスか。なにげなくそちらを見た。
そこは散らかったゴミ捨て場で、だから残飯を漁りに来た動物だと思ったのだが。
いたのは、薄汚れた幼い女の子だった。
膝を抱えてうずくまり、僅かに怯えた目でこちらを窺っている。
けれど、怯えと同居するように、諦めのようなものも、その琥珀色の瞳に宿っていた。
ボサボサの長い赤毛が、ずぶ濡れの顔にはりついていて、この寒さと雨では当たり前だが膝を抱える指先は震えていた。
俺は、聖人ではない。それどころか、子供であろうと真っ赤な他人の行く末には全く興味がない。
だから、わざわざ自分がずぶ濡れになってまで、震える子供に傘を差し出してやるつもりは、かけらもなかった。
けれど、たまたま、今日に限って、一本余分に傘を持っていた。だからそれを開いて差し出した。
もうこの傘の持ち主に会うこともないし、女物の傘は必要のないものだ。だから、目の前で濡れている子供に与えた。
特に不思議なことではないし、むしろ合理的なことだと思う。
自らに必要ないものを、必要としている者に譲り渡したのだから。
――しかし、そのとき何故か、無意識のうちに、口をついていたのだ。
「名前は?」
全く意味のない、問い掛けが。
傘をふたつ持っていたのが『偶然』なら、それは『気まぐれ』ということになるだろうか。
子供は、しばらくこちらを無表情に見上げた後、ポケットからハンカチを取り出し、こちらに見せた。
ハンカチには文字が刺繍されていた。
「ミリアム、か」
子供は小さく頷く。こちらの言葉はわかるようだが、喋れないらしい。
子供――ミリアムは、俺が渡した傘を両手で持ち、相変わらず震えている。
当然だ。いまさら雨を避けたところで、既に全身ずぶ濡れになってしまっているのだから。
そんな彼女を見ていると、俺は不意に、犬か猫を飼いたいと考えていたことを思い出した。
親に貰った広すぎる屋敷で一人きり、というのは味気無いものだったからだ。
従順な犬か、手のかからない猫か――しかし、犬は欝陶しいし猫は自分勝手だ。
だったら、子供はどうだろう。何の気なしに、そう思った。
「うちに来るか?」
しゃがみ込んでそう尋ねると、子供の瞳が、大きく見開いた。
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