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それでも一度だけ、言うべきではないことを、カズマ殿下に言ってしまったことがある。
剣術の指南だけは、私に一任されており、私と殿下は毎日のように稽古を行っていた。
その日の殿下はいつになく、厳しい稽古を求めた。何か、あったのだと思った。
稽古を終え、二人並んで地面に座り込む。
汗を拭う殿下が、涙を拭っているような錯覚を受けて、私は思わず口にしていた。
『殿下、お辛くはありませんか。悲しくは、ありませんか。逃げたくは――ありませんか?』
陛下への忠誠心を、汚すことになる言葉だったかもしれない。
けれどその時の私はただ、カズマ殿下が思いを『流す』先がないことが、痛かった。
陛下の思いを受け止めて…ひたすらに受け止めるだけの毎日に、この方はいつまで耐えればいいのだろうかと。
差し出がましくも、私が『流す』先になれないかと、思ってしまったのだった。
しかし、カズマ殿下の『答え』は、ただ一言だった。
『ありがとう』
私は、そこで初めて、自分の言葉が意味することに気付いた。
殿下の答え次第では、本当に、忠誠心を自ら汚すことになっていたかもしれない。
だからこそ殿下は、『ありがとう』と言ったのだ。
その一言にはかけらも嘘はなく、紛れもない本心だったのだろうが、それ以上に、私のための言葉だった。
それまで、どこか『守るべき子供』として見ていた殿下の姿が、初めて『尊敬すべき主』として私の目に映った。
そのことが、心震えるほど嬉しく、そして少しだけ、悲しかった。
そう、思い返してみればずっと、私は殿下の『感情』というものに、じかに触れたことはなかったのだ。
何かに包んで、慎重に、殿下は相手に言葉を伝える。大切な相手ならなおさら。
むきだしの『感情』をそのまま相手に手渡すことは、受け取った相手にとっては重すぎると、感じていたのか。
ただ、カズマ殿下は非常に器用だったから、そのやり方でも――いやむしろそのやり方だからこそ、臣下たちの忠誠と崇拝を集めていた。
だから、もう癖のようになってしまっていたのだろうか。
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