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すると、彼は一瞬驚いたような顔をした後、『あの笑顔』を私に向けた。
ユニホームを泥だらけにして、立ち上がった後に見せる笑顔。
差し入れを届けに来た女の子たちには見せない、特別な笑顔。
「それ、俺、すごく嬉しいです。
俺たち、野球が好きでたまらないから野球やってるんです。
そんで、このチームにいるのが楽しくてたまらない。
誰かのためにやってるわけじゃないけど、見てる人の目に、そんな風に映ってるんだって思ったら、嬉しいです」
好きな人が自分に笑いかける。
世の中にはありふれた、幸せの瞬間だ。
だけど、いまの私には、すごくすごく、特別なものだった。
だって、彼の『特別な世界』に触れた、そんな気がした瞬間だったから。
彼の笑顔につられて、私も笑う。
すると、
「…あ、笑った」
彼が嬉しそうに言った。
「え?」
「初めて笑ったとこ見ました」
彼も私を見ていてくれたんじゃないかと勘違いしてしまいそうな言い方だ。
本当は、視力2.0の視界の隅に、たまたま映りこんでいただけなのに。
彼はたぶんこんな風に、自分にとってどんなにちっぽけな相手でも、『拾う』ことを忘れない人なんだろう。
だからきっと、女の子たちがわざわざ差し入れを持って来たりする。
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